「偶然の出会いを求めて」 『エウレカ』第14号

1997年4月1日 斗鬼 正一

 文化人類学者はさまようのが仕事である。人類が作りだした社会、文化の研究を通して、人間というものを理解しようとする学問だから、守備範囲がむやみやたらと広い。ディズニーランドの行列や香港の看板から、ボルネオ・ダヤク族の社会構造まで、何でもござれ。世界中どこにでも出かけてしまう。さらにその武器とするフィールドワークは、現地の人々と同じ生活を共有し、生の情報を収集することを特徴とする。生活に密着した情報だから、膨大な量になる。
 すなわち人類学は、まずは出かけて、できる限り多くの情報を集めることから始まる。それは、人間という動物、したがってその人間の作った文化、社会が実に複雑怪奇だからだ。真の姿に迫るには、近づいて、多くの角度から見なければならない。多くの角度から見れば見るほど、真実の姿に近づいていける、というわけだ。
 ただしここで注意しなければいけないのは、計画された角度から見て集められた情報だけでは真実の姿には迫れない、ということだ。フィールドワークの場合も、無限に情報を集めるわけにはいかないから、事前に多くの本に当たり、予備知識から仮説を立て、仮説を検証するための調査事項や質問を準備する。その後現地での検証を繰り返し、考察するうちに、そこの社会、文化、そして人間が見えて来たような気がしてくる。
 しかしそうして得た結論は、しばしばあっけないほど簡単にひっくり返される。しかもそれは思いがけない情報によることが多い。だからこそフィールドワークでは、事前に見当を付けた人を対象に、計画通りの質問をするだけではなく、むしろ偶然出会った、飛び込んだお宅で、茶飲み話しをさせてもらうことを重視する。バスの中でたまたま隣あった人との世間話し、散歩中にたまたま見かけた貼り紙、などといった情報が、事前に立てた仮説から大きく飛躍し、真実の姿により近い姿を示してくれる。所詮自分で考えられることなど、社会、文化、そしてそれを作った人間の複雑怪奇さに比べたら、知れている。だから人類学者は偶然の出会いを求めてさまようのである。
 社会学部でも、こうしたフィールドワークに出かける学生諸君は少ないだろう。しかし人間の社会、文化が対象である限り、同じことなのだ。今流行のネットサーフィンもそうだ。調査を目的にデータベースやホームページを探すとしても、リンク先をたどっているうちに、予期しなかった情報に次々と出会う。そして気付いてみれば、知識が増しただけでなく、当初目的とした調査も、異なった角度から見直すことができ、より深い考察が可能になっていた、ということになる。
 そしてこれをもっと簡単かつ本格的に体験させてくれるのが、お馴染みの図書館や書店だ。書棚には、想像もつかないくらい広大な、人間の作り上げた世界が広がっている。そこにわけ入り、どんどん開いてみよう。そうして偶然手にした1冊の本が、その後の研究の新しい方向を指し示してくれることは多い。自分で気付き計画できること、考察できることは実に限られている。人間に対する知的好奇心に満ちた社会学部の学生諸君こそ、人類の膨大な知的蓄積に出会える場に出かけてほしい。そして複雑怪奇な社会、文化と、それを作り上げた人間との出会いを求めてさまよってほしい。