斗鬼正一書評『内なる他者のフォークロア』(赤坂憲雄著)

 掲載紙:共同通信、南日本新聞、日本海新聞、高知新聞、徳島新聞、神戸新聞、岐阜新聞、北国新聞、信濃毎日新聞、新潟日報、山梨日日新聞、神奈川新聞、福島民報、河北新報、山形新聞、秋田さきがけ
    

 2010年12月4日〜26日

                     他分野の光で「差別」相対化

汗とおしっこと、それからうんこ…なぜか、体から出るもの、みんな嫌がる。でもそんなこと当たり前だと、臭いものにふたをして、みんな目も向けない。

差別だって、みんな怖くて、みんな嫌がる。民俗学の祖柳田国男だって、天皇と漂泊被差別民との秘められた関係を発見、戦慄し、危ういものにふた。以来民俗学の主流はこの問題を避けてきた。

でもやはり、なぜか人の下に人をつくる、差別への絶えざる欲望。こんな人という動物の正体に迫る魅惑のテーマに挑戦し、閉ざされたふたを開け、新しい光を当てるのが、内なる他者の空間としての東北に光を当て「ひとつの日本」幻想を解体してきた赤坂憲雄だ。

本書でそうしたふたを開けてみれば、赤松啓介は、柳田が差別の存在を隠すために常民なる概念をつくり出したと批判し、宮田登はケガレやスジという差別の核心に挑み、折口信夫は遊女や河原者といった被差別民と、宮廷のヨケイモノとの関係を指摘するなど、民俗学の先人たちの蓄積からは多くの宝が輝きだした。明治期に北海道でアイヌと出会った英国女性イサベラ・バードという異質の光を当てれば、日本国内での内なる他者への差別など相対化されてしまうことも見えた。

巻末に赤坂が記す“公案”は他分野の光。「<内なる他者>とは排泄物である」。排泄物は、自分の内と外の境界にある、内なる他者。臭い、汚いは、これを排除しようとつくり出された烙印にすぎず、絶対的に汚いものなど存在しないという文化人類学の光を当てるなら、差別だって、する側がつくり出した相対的関係概念の所産にすぎず、絶対的なものでも何でもない、と見えてくる。

こうして、人という動物の分泌する差別という排泄物を相対化し、解体する道筋を見据えた赤坂は、迫り来る多民族共生時代にも、私とあなたと、それから外国人、みんな違って、みんないい、そんなこと当たり前だと歌い上げるだろう。

                                                評者 江戸川大教授・斗鬼 正一

                                 (岩波書店、2835円)