「都市の音−ノイズという自然と人間−」
斗鬼正一
2006(平成18)年2月
『情報と社会』第16号、江戸川大学
p29-39(全160ページ)
都市の音−ノイズという自然と人間
斗鬼正一
はじめに
大都市はいつの時代にも、一方で憧れの対象となり、人々を惹きつけるが、他方で、常に否定的評価の対象ともなる。その際、犯罪、貧困、退廃などとともに槍玉に挙げられるのが、大気汚染、水質汚濁、廃棄物といった環境問題である。
中でも騒音は、東京では昭和初期に問題として認識されており、1932(昭和7)年の本郷電車通りでの調査では、クラクション、エアホーン、手押しラッパが30分間に平均143回、約13秒に1回という騒々しさだったと報告されている。1934(昭和9)年には、騒音防止試験のために、手押しラッパ以外の警笛やゴム製以外のタイヤの禁止、マフラーの義務付け、市電の圧縮空気ホーン使用制限、信号機のベル廃止が実施されているが(副島、1995)、1935(昭和10)年の朝日新聞は、「騒音地獄一巡り」と題して、盛り場騒音調査を行い、わめく鬼市電、最もうるさい王座は新宿、などと報じている(新宿歴史博物館)。
今日、車のクラクションは東南アジアの大都市や昭和初期の東京などと比較して減少しているが、車、飛行機、工場などの騒音から、街頭宣伝放送、移動販売車、BGM、そして電車内の携帯着メロまで、巨大都市化と都市活動の活発化で、さらに騒音都市化が進み、あらゆるところに音が溢れる状況は、批判、嫌悪の対象となっている。
しかし他方で、大都会の騒音を好むという人も多い。作家如月小春の自宅は、山手線、西武線が間近を走り、隣は工場、向かいはビル建設中、大通りまで30mという騒音の溢れる場所にあった。長年そうした場所に暮らし、地鳴りのような通奏底音に慣れた耳には、クラクション一つ聞こえない沈黙の闇夜はなじめず、北海道の牧場では眠ることが出来なかったという。実際如月は、サイレン、工事現場、電車、靴音、犬の声といった都市騒音が好きで、工場のサイレン、学校のチャイム、市役所の時報といった時刻を知らせる音を特に好み、クラクションを楽しむ耳こそ「都市の耳」だと述べている(如月、1986)。
1931(昭和6)年に来日したフランスの詩人アンリ・ミショーは、「日本では、自動車の警笛が、強度の、だが役に立たないやり方で使われていることを思いおこそう。この鋭い音調を持つ楽器は、彼らをうっとりさせ、東京を、ローマやニューヨークよりも騒がしく、いらだたしい街にしている。」と述べているが、中島義道はさらに、日本人自体が「走音性動物」だという(中島、1996)。確かに、花見でも観光地でも、スピーカーで音楽を流していると、そのまわりに人々は集まるし、音楽や案内、宣伝放送などの音がしないと、観光地に来た気分、花見をした気分にならない。まして静寂の祭りや歓楽街など、誰も寄り付かないだろう。池村弘之も、古来日本人は無音という意味での静寂は望んでいなかったとし、「蛙飛び込む水の音」のように、静寂の内にも何らかの音があることを期待しており、鹿威し、風鈴のように無理矢理作り出しさえしてきた。それが今日のどんな音環境も許してしまう鈍感さに連なるのだと述べている(池村、1996)。
このように騒音を嫌悪、排除しつつ、他方で騒音を好むのは、日本人だけに限ったことではない。たとえばインドネシアでは、1日に5回モスクの巨大なスピーカーからアザーンが町中に響き渡り、人々はラジオ、音楽を大音量で流しっぱなしにする。特に儀礼においてはラメイ(賑わい)の反対のスピ(静寂)は駄目で、結婚式では大音量の音楽が流され、王宮の重要な儀礼では様々な倍音や雑音が混ざり合い、特定のピッチから外れて歪んだ古代ガムランが演奏される。インドネシア文化はラメイ志向の文化であり、雑音がむしろ重要な意味を与えられ、利用されている、というのである(中川、2001)。
そこで本稿では、江戸、東京、京都の都市空間を舞台として、自然の発する音、人や都市の発する音を、人々がどう評価し、どう統制しようとするのかを検討する。それによって、音とその統制がどんな文化的意味を持っているのかを考察し、それを通して、都市、そして都市というものを作った人という存在を考えていくこととする。
第1章 文化に統制された音
I.人の出す音の統制
1.生理音の統制
人は動物であり、生きている限り音を発する。しかし、そうしたいわば生理音を自然のままに出すことは良いこととはされていない。お腹が鳴る、ゲップ、おなら、くしゃみ、しゃっくり、鼻をかむ音、排泄音などの生理音を人前で出すこと、出てしまうことは恥ずかしいこと、おかしいこととする文化が多い。出てしまったら、口を押さえる、詫びる、などとされている場合も多いし、現代の日本ではトイレに消音装置までつけられている。そのままはだめで、出し方、隠し方が文化によって定められているのである。
こうした文化による統制は、一般に時代が下るにつれて、いわゆる洗練されたものとなり、厳しくなっている。たとえば西洋で食事の音などに対する過敏性が出現したのは早くて18世紀ごろで、食事中の音を嫌うマナーは新興市民層の成り上がり者たちが育んだマナーだという。日本でも、町人層が人の立てる生理音や臭いに異常に過敏になったのは近世である(佐野、1991)。
2.生活音の統制
人が生活を営むと必ず音が出る。靴音や交通騒音など、人や物の移動は音を伴うし、農耕も、漁撈も、狩猟も、加工も、調理も、販売も、人の生活には、あらゆる場合に音が発生する。
そうした生活音も、静穏を守らなければいけない場所、時、場合、逆に音を発しなければいけない場所、時、場合など、一々決められ、統制が行われている。
II.声の統制
1.発声の統制
人は声を発する動物である。ただし、他の動物同様の、叫び声、唸り声などは、野蛮な、気味の悪いものとされ、排除される。
他方で、言語として体系化され、その言語の発音に則って発音される場合は、野蛮なものとはされない。そして発声器官の仕組みは人類共通であるから、本来どの民族も同じ音を出すはずであるが、実際には諸言語に用いられる音は千差万別で、日本人にとってのLとR、フランス人にとってのハ行など、他の言語の用いる音は、発音し分けることができないものも多い。人類の発声器官が発することのできる無数に近い音のうち、特定の音がすでに選ばれ、使用が強制されているのである。
2.声の統制とテキスト化
日本でも、江戸時代には、国学者本居宣長、契沖によって、やまとことばの美しさが強調され、江戸後期には文法と正書法に秩序づけられ、活字印刷によってテキスト化していた(櫻井、2000)。
しかしそうした日本を明治初期に訪れたモースは、一般に日本では声を出して本を読むことが風であり、そうしないと内容が理解できないと学生が言う、と記し、音読する声、労働に伴う掛け声など、日常の行動に様々な声が伴うことに違和感を覚えている(内藤、2005)。
実は西洋でも、18世紀途中まで音読が一般的だったのであるが、日本よりも一足先に声の近代化、すなわち、より強い統制が行われた西洋における声の使用に慣れたモースの耳には、余分な声が多いと感じられたのである(内藤、2005)。西洋でも日本でも、近代化とともに次第に、実際に人が声を発すること自体が抑制され、音の要素が消されてテキスト化、すなわち抽象化が進められたのである。
II.音楽における声の統制
1.唄法
音楽においてはさらに、美という評価を伴った声の質の統制が行われている。例えばベルカント唄法は、17世紀の半ばころから19世紀の初め頃に全盛期を迎えた、イタリア語を美しく響かせるために確立された唄法で、今日西洋のクラシック音楽で普通に聞くことができる声の基礎である。
ただこのベルカントは、邦楽の声とは全く異なったものであり、浄瑠璃などでは、音域によって、声の質や声音を変えるほうが良いとされているように、文化によって異なる美の尺度によって、異なった統制が行われる。また時代によっても変わり、日本でも平安文化までの発声は、身体の体腔による共鳴を用いた自然な、無理のないもので、能楽の謡曲や、江戸期のいわゆる邦楽の発声とも非常に異なり、むしろ西洋ルネサンス期の発声に非常に近いものだったという(山岸、1999)。
2.カストラート
日本でも、近世以後、江戸時代の筝曲、三味線の弾き語りによる組歌、地唄、はんなりした地唄舞など、様々なジャンルに異なる発声が作り出されているが、さらに人工的なのが、カストラートである。
本来人間の声は一人一人千差万別だが、ロマン主義時代以降声楽の世界では、男声と女声を分類するようになり、それ以前にはコントラテノール(アルト)とカストラートという分類が行われていた。
カストラートとは、16世紀に登場した、少年の頃に去勢されて成長した男性歌手である。批判はあったが、好みが優先して製造は衰えず。18世紀の間にイタリアだけで4000人が作り出され、オペラで男性役、時には女性よりも高い声で男女の二重唱を歌ったりした(山岸、1999)。
要するに、人がどんな音を出すか、出すべきでないかは、文化によって決められている、というわけである。
III.都市の音風景の統制
1.平安京の太鼓と時の支配
日本書紀によれば、人の発する音がきわめて限られていた当時、都である飛鳥浄御原宮まで伊豆沖合から噴火音が聞こえたというし、764(天平宝宇8)年には桜島の爆発音が平城京まで聞こえたというほど静かだった(中川、2001)。
そうした都に響き渡り、都市の音風景を支配していたのが時の鼓だった。平安京では7世紀半ばから8世紀初め頃には1日を12に分け、朝廷の時司が2時間ごとに鼓をたたいて時を告げていた。927(延長5)年の延喜式には、太鼓が打たれる時や回数についての施行細目が記されている。平安京の諸門の開閉、朝政の執務時間、市の時も太鼓が知らせていた。時司は陰陽寮にいたが、他にそのような大きな音を発するものはなく、今日の都市とは比較にならないほど静かだったから、4km離れた南端の羅城門(南区)までも聞こえたはずで(中川、1992)、平安京の都市空間は鼓の音によって画定され、時司の鼓は都の音風景を支配していた。そして都に暮らす人々は、響き渡る朝廷の鼓という同じ音風景を共有し、それによって統制された生活を共に送っていたのである。
2.江戸・東京の時の鐘と時の支配
今日のような都市騒音のほとんど存在しなかった江戸の町に、圧倒的大きさで響き渡っていたのは、時の鐘である。当初江戸城内鐘楼堂で明六ツ暮六ツ時に時の鐘を撞いていたが、後に、代々城内鐘役を勤めていた石町(中央区本石町)の辻源七屋敷内に時の鐘が設置され、昼夜12時に時を告げた。明暦大火後は各地に設置され、元禄頃には本石町の他に、浅草寺(台東区)、本所横川町(墨田区)、上野(台東区)、芝切通し(港区)、市谷八幡(新宿区)、関口目白不動(文京区)の6箇所、さらに赤坂田町成満寺(港区)、四谷天龍寺(新宿区)を加え9箇所となった(児玉他、2003)。各町内では、こうした時の鐘を聞いた木戸番が拍子木を打って町内を回り、町木戸が明け六ツと暮れ四ツに開閉されたのである。
明治に入り時の鐘は廃止されたが、代わりに登場したのが、都市全体に正午を知らせるドンと呼ばれた大砲である。1871(明治4)年9月、丸の内に始まり、半ドンの語源ともなっているが、その後全国に拡がっていった(内藤、2005)。1873(明治6)年には工学寮学校(港区)の時計台で報知することとなり、1929(昭和4)年にはサイレンになって戦中まで続いている(今、2001)。
今日でも、毎日朝夕一定の時間に全域に設けられた防災無線のスピーカーから、時間や注意事項を告げる放送が行われている地域は多い。
こうした鼓、時鐘、大砲などの音は、圧倒的に大きな音として都市の音風景を支配するだけでなく、都市に暮らす人々の時間を統制することによって、生活を一元的に支配することともなっていたのである。
II.音の統制とコスモス
1.平安京の音の都市計画
京都の寺院の梵鐘を録音し、FFT分析器で音高を分析した中川真によると、平安京西方の神護寺(右京区)は163.1ヘルツで平調、北方の大徳寺(北区)は盤渉調、東方の高台寺(東山区)と清水寺(東山区)は上無調、知恩院(東山区)が下無調、南方の西本願寺(下京区)が壱越調甲と、五行の法則と合致しているという。
五行思想は、中国で醸成された森羅万象の生成変化を説明する宇宙論で、日本でも陰陽説と合体した陰陽五行思想として政治に採り入れられ、様々なレベルで社会の命運を方向づける強い影響力をもっていた。五行思想によれば、万物は木火土金水の五気によって生成し、万象の変化はその勢力の交代循環によって起こると考える。そして音も方位、季節、色彩、母音、内臓、世界の元素などとの連関のなかでとらえられ、北方は盤渉調、四季の冬、元素の水、獣神の玄武、母音の「え」、内臓の腎、知覚の耳、色彩の黒を指し示す方位、などとされているが、京都の寺院の梵鐘は、まさにこの五行の法則通りに配置されている、というわけである(中川、2001)。
よく知られるように、平安京は北の船岡山(北区)に玄武、東の鴨川に青龍、南の小椋池に朱雀、西の山陽道に白虎が住む四神相応の地が選ばれ、船岡山を基点とした朱雀大路を中心に、南北方向の大路と、それに直交する一条から九条までの東西方向の大路が交わる碁盤の目状に計画された都市である。さらに北の中央には御所が位置し、高位の皇族、貴族たちの屋敷が並び、南に向かうにつれて低地となり、市場が立地し、庶民の居住地となっていく。
すなわち平安京は、幻の獣神によって守護されただけでなく、五行思想による鐘の5種の調べにも包まれており、いわば地上に設営されたコスモス、曼荼羅都市として設定されており、平安京の都市空間は、その中で生活する人々に特定の宇宙観、そして支配構造を耳からも日々注入する仕掛け、となっていたのである。
第2章 ノイズ−文化の統制を逸脱した音、異文化の音−
I. 異文化による統制とノイズ
1.生理音というノイズ
生理音は文化による統制を経て発するべきで、そのまま発することは、それ自体が恥ずかしいことされ、排除されるが、どんな音を出すことが恥ずかしいとされ、どう隠すべきかは、文化によって差異がある。
たとえば、日本ではそばをツルツルと音をたてて食べることを楽しみ、茶をすすって飲むことを道とまで呼んでいるが、西洋の文化では恥ずかしいこととされるから、それを見た西洋人には、異様な、恥ずかしい行為と見える。
それゆえ、文化によって統制されない、あるいは異文化によって統制された生理音は、おかしい、恥ずかしい、野蛮などと、嫌悪されたり、差別の対象になったりする音となるのである。
II.異文化の言語とノイズ
1.日本語をノイズと聞いたバード
イギリスの女性旅行家イサベラ・バードは、1878(明治11)年、通訳1人を同行しただけで、馬と徒歩で東北、新潟、北海道を旅し、『日本奥地紀行』を出版した。
これには、宿屋の騒音について、「夜がふけるにつれて、家中のうるさい音が激しくなり、真に悪魔的となって、1時過ぎまでとまらなかった。太鼓や鼓やシンバルが打たれた。琴や三味線がキーキーと音をかき鳴らしていた。芸者たちは、歌に合わせて踊った。歌声の耳障りな不協和音は実にこっけいであった。・・・出発の騒音は夜明けに始まった」などと、日本を旅する間中ノイズに悩まされ、苛立ったことが多々記されている。
さらに、飲食の時にたてられる音、拍子木、按摩の笛、下駄の音などだけでなく、日本語そのものについても、例えば、小学生の朗読の声は「非常に甲高い(very high key)声で発音するので、たいそう不愉快な調子に聞こえた」と述べ、祈り声、甲高い笑い声、おしゃべり、旅館の女中の大声の返事、労働者たちが作業中に喋る声など、日本語そのものに対して不快に感じている(バード、2000)。
日本語のすべての音節が母音を引きずるのを嫌悪していることからもわかるように、バードの耳は子音中心の英語を優位とし、英語の発音を美しさの尺度として日本語を聞いているのであり、それゆえ人力車夫たちの掛け声を「蛮声のコーラス」と聞き、助詞「が」は鵞鳥の擬声語と聞いてしまう。母音の長音、助詞といった単なる言語学的、音声学的事実が、文明と野蛮の図式、動物との近縁性の図式に置き換えられてしまっているのである。
2.中国語をノイズと聞いた本居宣長
江戸時代の国学者本居宣長は、五十音図に表現される皇国の言語のように短直で正しいものは他には存在しないといい、外国の音声は、鳥獣万物に類似した音を持つ不正なものであることを、種々な例を引いて証明しようとした。すなわち中国語は、濁音、半濁音、拗音を含むがゆえに美的でなく、古代日本語は美的な、純粋性あるものであったのに、古代以降の日本語に濁音、半濁音、拗音があるのは、中国語によって汚染されたためだと強く主張している。
近代国家の民族的自己同一性としての「大和言葉」は18世紀後半において生み出されたのであるが、本居は、漢文的読みを要求する部分とそうでない部分が共存する古事記を訓読することによって、そこから「やまとことば」の原型を発掘しようとした。古代の日本語は、明確な法則性を備えていることを証明することによって、「やまとことば」に文法と正書法という言語的な正当性を与えようとしたのである。
こうした本居の論は、近代日本のナショナリズムを巡る言説の一つの原型である。国学イデオロギーにおいては、文化的他者としての中国(漢字)に対抗する形で現れたネイティブなものが、オーラルな五十音図の世界として生み出され、日本という自己同一性の直接的な立ち現れとして提示された。それゆえ、たとえ事実とは違っていても、撥音の存在を認めれば、五十音図に図示されるような整然たる日本語の秩序が崩れてしまうと考えた。彼にとって中国語はノイズだった、というわけである(櫻井、2000)。
3.漂泊芸能民の否定
中世の日本では、古代律令制の崩壊と共に、乞食や盲僧の姿で漂泊する人々が、吟遊詩人や宗教芸能民として、定住する人々の群と群との間を遍歴し、声で詩を語り、音楽を演奏していたが、彼らの語りである説教浄瑠璃などは、純粋日本的でない要素、即ち、中国や朝鮮半島の音声や芸能の影響が色濃く残っていた。
これに対して国学者は、日本語、日本の音風景を、異文化による音の統制を受けない、日本文化だけによって統制された純粋なものと考え、日本民族の純粋性をも類推しようとしたから、こうした漂泊芸能民の世界もまた否定した。それゆえ江戸後期には、このような混質的でオーラルな世界は、国学者たちによって文法と正書法に規律付けられ、活字印刷されることによって明快なテキストに変貌し、秩序化されたのである。共同体から共同体へ漂白する吟遊詩人や宗教芸能民の声は、ノイズとして烙印を押され、社会の内部へ繰り込まれ、出版資本主義にとって変わられたのである(櫻井、2000)。
III.異文化の音楽というノイズ
1.バード
バードにとっては、雅楽は不協和音でしかなく、謡については「彼らが歌うと称する苦悶の叫び声の演技。蛮風の精髄とも言うべき響き。主として‘ノー’という音を長く振動させるだけのものであり、その声を聞くと、野蛮人の間に入っているような気分になる。」と記している(バード、2000)。
2.モース
1877(明治10)年に来日したエドワード・モースは、旺盛な好奇心と、違いを文化の高低に単純に結び付けない態度で、日本の音を熱心に記録した。そのモースも、「外国人の立場からいうと、この国民は所謂‘音楽に対する耳’を持っていないらしい。彼等の音楽は最も粗雑なもののように思われる。和声の無いことは確かである。彼等はすべて同音で歌う。彼等は音楽上の声音を持っていず、我国のバンジョーやギタアに僅か似た所のあるサミセンや、ビワにあわせて歌う時、奇怪きわまる軋り声や、うなり声を立てる。」(モース、1970、1971)と述べている。
3.フレイザー夫人
1894(明治27)年、宮中で雅楽「萬歳楽」の上演を観たイギリス公使ヒュー・フレイザー夫人メアリーは、「低く軋むような音楽」、「威嚇的な太鼓」、「激しい叫びのような音」を聴いて、ほとんどパニックに陥った。不思議な音色にとまどい「緊張と不安と不自然の感覚に襲われ、立ちあがって動きまわりたい、なにかとんでもないことをしたいという気分になった」(フレイザー、1988)という。
4.異文化の音楽を聴いた日本人
幕末に西洋の音楽に接した日本人も、違和感や拒否反応を持った人は多かった。たとえば、当時きっての西洋通の1人である佐久間象山も、西洋の音楽だけはまったく受け付けなかった(笠原、2001)。
モースも、ある日本人学生の西洋音楽への反応を例に、西洋の音楽は日本人にとって「まるで音楽とは思われぬ」もので、西洋人がなぜ音楽を「ギックリシャックリ、不意に切断するのか」理解できなかった、と記している(モース、1970、1971)。
西洋音楽の教育が進んだ後でも、バジル・ホール・チェンバレンは、1905(明治38)年の『日本事物誌』に、東京の劇場でイタリアオペラが歌われた時、観客に衝撃が走り、次いでプリマドンナの甲高い声には聴衆の爆笑が起こり、「袖で口を隠し…無理に笑いを耐えようとした」と、記録している(チェンバレン、1969)。
異文化によって統制された音による音楽は、あくまでノイズなのである。
IV. 都市の音風景とノイズ
1.うるさい日本のわたし
オーストリア在住経験のある哲学者中島義道は、車内放送、商店街の宣伝放送、エスカレーターの注意を呼びかける放送と、騒音の溢れる日本の都市に激しい嫌悪を表明し、発生源に直接乗り込んで対決してきた(中島、1996)。日本人ながら中島は、オーストリアに在住し、静寂のヨーロッパ都市を理想とする価値観を持った人物である。そうした中島の耳には、日本の都市の音風景はほとんどがノイズであり、音にあふれた日本の都市はまさにノイズに溢れた、聞くに堪えない、信じがたい異常な状況と映る、というわけである。
2.東西統一ベルリンのノイズ
中川真はヨーロッパの都市は静かで、特に北寄りでは静寂は明らかに積極的な価値を持っているが、中でもベルリンは異様とも思えるような静けさだという。実際ベルリンでの測定結果を見ても、無音化、静寂化が進んでいる。ところがそうしたベルリンの人々は、87%が東西統一後音が大きくなったと言い、同程度という答えは13%で、静かになったと思っている人はまったくいなかった。さらにベルリンを象徴する音は何か?という問いに対して、なんと罵声という答えが11%、ベルリン訛りという答えが10%もあったという(中島、2001)。すなわち、東西統一でこれまで接触のなかった人々同士が一つの都市で生活するようになった結果、異文化による音声が混在し、それをうるさい不快なノイズと感じるようになっている、というわけである(中川、2001)。
第III章 ノイズというカオスの力
I.おとなう人の力
ノイズは排除される。しかし他方で、ノイズは都市において積極的に利用される。中世はごろつきや悪党が主役であり、漂泊的な特質を活かしながら、共同体から共同体へと横断し、新たな歴史を作り出してゆき、その動きの中から武士も誕生した。しかし、統一的支配体制が確立するとともに、ごろつきや悪党、漂泊芸能民は移動が制限されるようになって定住化し、末裔は江戸ではカブキモノとなった。幕府にとって、宗教者や諸藩のとりつぶしによる浪人とともに、彼らの統制は重要な課題となり、特定地域に囲い込み、厳しく監視した。漂泊民の系譜に深く繋がる一向門徒の末裔は、非人頭である弾左衛門に支配される非人に転落して処刑や犯罪捜査にかかわるようになったし、歌舞伎役者は、居住地が限定され、町人との交際すら禁止される河原者という身分に転落し、芝居小屋も江戸の周縁部で、鬼門でもある猿若町(台東区)に移転させられた。
しかしながら結果的には、歌舞伎役者や遊女たちこそが、江戸の都市文化の中核を担う存在となっていったのであり、都市周縁部へと排除され、差別された漂泊芸能民は、実は江戸文化の中核部分へと舞い戻り、身分制度にがんじがらめにされ、木戸で囲われた相互監視の社会で、幕府の統制する音風景による時間で生活のすべてを統制され、窒息しそうになる人々の再活性化に力を発揮したのである(櫻井、2000)。
II.金属器の音の力
1.鐘の力
阿部謹也によると、中世の人々は、天候の変化も流行病も大宇宙に原因があり、風の音や狼の叫び声などは大宇宙の音と考えていたため、病気が流行ったり、嵐が近づいて来た時も、嵐が近づいて来た時同様に、鐘をガンガン鳴らして防ごうとした。19世紀になっても、嵐の最中に鐘を鳴らしていた鐘撞き男が落雷で死んだ、などという事例がたくさんあるという。オーストリアとドイツの南バイエルンでは、互いに鐘を鳴らして嵐を送ってくると争いになったほどだし、現在でも牛や羊に鈴をつけるのは災難よけの護符になるからだという(阿部、1987)。鐘の音は人々の住む小宇宙と大宇宙との交信を可能にする力があると考えられていたのである。
日本でも、古代から金属の音は超自然力を持っていると考えられ、とりわけ銅鐸などの金属器は特別な役割を担っていた。峰岸純夫によれば、個人が誓願したり、社会的な契約を結んだり、一揆成立における一味神水の集団的盟約を行うのに際して、鍾あるいは金属音具が鳴らされた。その目的は、誓約を照覧する神をおろすことにあるという(峰岸、1982)。
また神田千里によれば、中世京都においては、徳政一揆にあたって下京の鐘が鳴らされたという(神田、1980)。徳政の時という、日常を破壊する、待望の非常状態の到来を告げるべきものは鐘の音だったのである。
2.寺院の鐘の力
中でも寺院の鐘はとりわけ特別な力を持つとされた。坪井良平によれば、朝夕鐘を撞くのは衆生の迷夢をさまし、諸々の悪業を離れて、仏道に帰依させるのが目的であるが、仏者の説くところによれば、鐘を打ち鳴らすことによって生ずる功徳は広大無辺のもので、鐘銘にしばしば現されている「一打鐘声、当願衆生、断三界苦、得見菩提」の偶の示すように、一度鐘声を聞く人は、地獄の苦厄を逃れて、すみやかに楽土に至りうるという。
ガンダーラ国のカニシカ王の説話はその代表例で、王は死後千頭の魚となって海中に生れ変わったが、剣輪によってその首を次々に切り落とされ、切られたあとに生えた角もまた切られて、大変な苦痛を受けていた。ところが羅漢がケンチ(寺で衆人を集めるのに用いる鐘)を打つのを聞くと、その苦痛が暫く止むので、ケンチを長打することを願い、羅漢がその願いを容れて7日間打ち続けたところ苦痛がやんだ、というものである(笹本、1990)。鐘の音は地獄に落ちた者をも救う力があるのである。
六道珍皇寺(京都市東山区)の鐘は迎鐘と呼ばれ、孟蘭盆会に他界から先祖を迎える人々に撞かせる。千本閻魔堂(上京区)の鐘は蓮台野(北区)に葬送する際、衆生の妄夢を覚ますため撞いたといい、今日でも盂蘭盆会にこれを撞いて先祖の霊を迎える参詣者で賑わう。迎鐘の音は地獄にまで届くわけで、六波羅蜜寺(東山区)の迎鐘のように地下に吊るされている例もある。他方、地獄で亡者を救う代受苦地蔵尊を本尊とする矢田寺(中京区)の鐘は、送り鐘といわれ、先祖をこの音とともに他界に送り返すときに撞く。寺院の鐘は他界にも届き、衆生の妄夢を覚ます力を持つというわけである。
鐘の中には、龍宮から来た、地中から出現した等、他界から来たという伝承を持つものも多いが、鐘自体があの世とこの世の双方を繋いだ経歴を持つと意識されたがゆえに、その音も人の世界と他界とを繋ぐ力を持つと考えられたのである(笹本、1990)。
3.時の鐘の力
宮田登によれば、時の管理とは、他界の住人によって支配されている天の動きを人間の世界に読み直すことで、陰陽師の確認した時刻や暦を天皇が公布して用いさせていたのであり、その意味で天皇もこの世とあの世を繋ぐ力を保持していた。その時をこの世の人々に知らせるために鐘が鳴らされたのは、まさに鐘の持つ音調が、他界との交流を前提にしているからだという(笹本、1990)。
また時の鐘には仏の怪がこもる例も多く、時の鐘を正確に撞くと、物の怪が出現するのでわざと時間をずらしたというし(笹本、1990)、鐘を撞く人も他界にかかわるゆえに卑しめられており、宝暦ころ本石町鐘撞堂の娘がろくろっ首と噂され、鐘撞が業深い職業だから人の恨みを受けそれが娘に報いた、などと言われた(田中、1999)。このように鐘撞番の仕事には因果めいた逸話が多く、そのために鐘撞番の株は永く所有されず、よく売買されたという(児玉他、2003)。
いずれにしても鐘の音自体が神霊や他界との交流を表現する手段であったわけで、時を刻み、時を知らせる時の鐘は、単に時間を統制することによって生活を統制するにとどまらず、その音を聴く人々の精神をも統制する力を持っていた(笹本、1990)。文化によって作られたコスモスを越えた他界の力、あるいは他界からやって来てカオスとの交信が可能な鐘の金属音の超自然的な力が、都市の人々の生活とその統制に利用されていたというわけである。
II.金属音というノイズの力
1.祇園囃子の力
祇園祭は流行病、伝染病が蔓延する夏に行われる。病因に関する科学的知識のない時代においては、伝染病蔓延の原因は都市空間への疫病神の侵入などと考えられた。医学、疫学的対抗手段は無いから、宗教的、呪術的対抗手段が用いられることになるが、当然それらの効果は無い。そうして自文化の力で対抗できない場合に頼ることになるのが、一つは異文化の力であり、祇園社(八坂神社、京都市東山区)の場合は、インドの神である牛頭天王の力の導入であった。第二には、牛頭天王も牛の頭を持った神、つまり動物であるが、文化の力で対抗できないものに対しては、自然の力を導入しようとする。
さらに中川真によれば、コンチキチンと表現される祇園囃子の金属音の力も利用されているのだという。すなわち日本では、古くから物を動かすときに囃子を用いたが、それは人の力では限りがある場合に、囃子が超自然力を引き出すと考えられたからである。祇園囃子の場合も、人の力では対抗できない厄病神に対する対抗手段として利用されているのだが、さらに祇園囃子は、長時間聞いていると聴力に異常をきたすほどの大きさの金属音で、しかも割れ鉦の音なのである(中川、2001)。割れ鉦の異常に大きな音という、音楽とは無縁な、文化の統制を受けないノイズ、いわば自然の音なのであり、それゆえに特別な力を持つものと考えられ利用されてきた、というのである。
2.ガムランにおけるノイズの意味
中川はさらに、霊の鎮魂慰撫を目的とする祇園囃子は、アジアに遍在するゴング文化と連なるものであるという。すなわちインドネシアのガムランは青銅製の打楽器を中心とし、結婚式、誕生日、葬送などの儀礼に鳴らされるが、トランスを誘発し、人々を超現実的な時空へと連れ去る。様々な倍音や雑音が混ざり合った複雑な音で、特定のピッチからはずれて歪んでいるが、だからこそ飼い慣らされていない野生の音であり、神秘的な力を発揮すると考えられているという。
管楽器や弦楽器の多くが、吹く、擦る、弾くといった人間の動作によって音を発するのに対して、金属製の打楽器はいったん打たれると勝手に鳴り続ける。人間の統御を超え、文化をはみ出したノイズであるからこそ、超自然的な力を持つものとして、文化によって対抗できないものに対する対抗手段としてその力が利用されている、というのである(中川、2001)。
結 論
I.都市の音の統制と自然
人は自然、カオスの只中では生きていくことができない。それゆえ人は、周囲の自然に対して、文化による統制を行ってきた。これは人々自らの行動全般に対しても同様で、食べ方から家族のあり方まで、さまざまな文化を作り、動物としての人の行動を統制し、秩序化された社会、コスモスを作り上げてきた。
音に関しても同様に、人が出す音も、都市の音も、マナーや言語などという形で、文化によって統制され、他方で統制を逸脱した音、異文化によって統制された音は、マナーに反した、汚い、うるさい音、ノイズというレッテルが貼られ、排除される。そうして人々は都市を自らの文化によって作り出した音風景によって満たされたものとしようとする。
すなわち人は、音に関しても、自然のままというカオスを排除し、文化によって統制され秩序化された一つのコスモスを作り出そうとするのである。
II.音の統制とアイデンティティ
音は時間や空間を作り出し、人間関係を生み出す力があるし(山田、2000)、音楽は、音源の確定と音の広がりという二つの特徴が、社会的な風景を描き出すと同時に結びあわせるという独自の可能性を持っている(ローズマン、2000)。すなわち、社会構造、食といった文化を共有することは人々を一つのアイデンティティで結びつけるのと同様に、一つの都市に暮らす人々が同じ統制によって、同じ音、同じ音風景を作り出し、共有することもまた、人々を一つのアイデンティティのもとに結びあわせることとなる。
まさにジャック・アタリが言うように、「社会は、色や音、いやそれ以上に、音とその配列によって仕立てられている。雑音とともに、無秩序とその逆、即ち、世界が生まれる」のであり(アタリ、1985)、音の統制を介して、カオスを排し、秩序化された、一つのアイデンティティを共有する社会というコスモスを作りあげることが可能となっているのである。
III.「監獄都市」平安京、江戸、東京
平安京や江戸の都市空間は、空間自体が碁盤の目や「の」の字に計画され、身分ごとに居住地も決められ、人々は日々その中で生活することによって、支配者が作り上げ、維持しようとする社会構造、秩序を注入されていたが、音に関しても、平安京では、支配者のコスモスが鐘の音によって示され、江戸では漂泊芸能民のノイズは排除されていた。さらには現代にも残る時を告げる音は、人々の生活全体を統制し続けている。
すなわち都市空間の中で人々が共有していた音風景、それによって作られた一つのアイデンティティとは、支配者によって作られたものでしかない。したがって、平安京、江戸、そして東京の都市空間は、いわば支配者の政治的意思を直接的に表現した五十音図同様の空間、まさに櫻井進が言う監獄都市の空間、というわけなのである(櫻井、2000)。
IV.ノイズというカオスの利用
コスモスを作り、維持していくためには、ノイズを排除し、排除し続けなければならない。しかし他方で、人々はノイズを利用する。人々は文化によって統制された社会構造、秩序の中にはめ込まれ、マナーに則った行動をし、時を告げる音によって生活を送り、自文化の言語を発して、暮らしていく。しかしながらそうした生活は、安全、快適な生存が保障されたものであっても、他方で、動物としての人々の活力を枯渇させる。それが権力者によって統制されたものであるならば、なおさらである。そうした監獄都市において、人々の活力を再活性化する際に必要となるのが、いったん排除したはずのカオスの力なのである。
アタリが「音楽が楽音の様々な調和的な組み合わせによって構成されているように、社会も無秩序やノイズを秩序へと変換することによって成立しているのである。しかし、ノイズは調和した社会の外部へと完全に排除されてしまうわけではない」(アタリ、1985)、と述べているように、江戸においても、漂泊民の世界を都市空間の周縁へと排除し、無意識の深部に抑圧することによって、秩序化された封建都市が成立し、異文化の影響を受けた「声」の世界に生きる漂泊民の末裔たる吟遊詩人や宗教芸能民は、表面から消え去っていった。しかし実は彼らは全く姿を消したのではなく、彼らの「声」も、江戸の社会の内部へと繰り込まれ続けたのである(櫻井、2000)。祇園祭の鉦の金属音の場合も、統制を逸脱したノイズ的音楽が人々を再活性化し、悪霊などを追い払うという特別な力を持つものとして、都市空間に導入されていた。
ノイズこそが社会を再活性化させ、人々の生命力をふたたび燃え上がらせることを可能にしていたわけで、文化による完全なシステムを構築することが不可能な人間にとって、ノイズという音はまさに二律背反的存在というわけである。
このように都市の音と人々のかかわりをみていくならば、人とは常に自然、カオスを恐れるものであり、都市とはまさに、そうした人という動物が、自然、カオスに対抗して作り出そうとし続ける文化の産物であることがわかる。しかしそうした文化は完全たり得ず、常に自然、カオスの力にも依存せざるをえない。要するに、本来自らが動物である人とは、永遠に自然と文化の狭間を漂って生きていく存在である、ということが見て取れるだろう。
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キーワード:都市、音、ノイズ、自然、文化