「東京というコスモスと海−都市と海のコミュニケーション−」
                    斗鬼正一


                          2007(平成19)年3月15日
                     『情報と社会』第17号、江戸川大学
                             p9-23(全 ページ)

東京というコスモスと海
−都市と海のコミュニケーション−
                                    斗鬼正一

はじめに
 本稿の目的は、人々が自然に対抗して作り上げ、その中で生活を営む巨大なコスモスである東京という都市空間が、海という外部空間とどのようにかかわることによって存在し続けているのかを、検討していくことである。
 人という弱い動物は、自然の秩序が支配する只中、すなわちカオスの中では生きていくことが出来ない。だから猛獣、ビールス等生命を脅かす動物や、生活空間を埋め尽くしてしまう植物を排除し、雨、雪、風、日照、高温、低温と戦って、自然を排除し、自ら計画したように空間や物を改変、統制し、それによって自然の秩序を排除した、自らの生存に適した空間、文化による自然の統制が確立した空間、すなわちコスモスとしての都市空間を作り上げてきた。
 動物としての人はまた、自身が本来本能で行動する動物であるゆえ、廃棄物を出し、排泄物を出し、喧嘩をするし犯罪も起こす。そして自らも死んで死体となり、腐敗していく。そうした自ら発生させる自然の支配する空間もまたカオスであり、人はその中では生きていくことができないから、マナーや諸制度によって社会を構成し、自らの行動を統制し、秩序化された空間、すなわちコスモスを作り上げてきた
 さらにいったん作り上げたコスモスも、自然の脅威、そしてなによりも内部の人々自身によるコスモス破壊によって、常にカオスへと戻ってしまう危険に晒されるから、人は、そうした自然に対抗し、排除し、統制し続ける必要がある。
 ところで、こうしたカオスの排除と、コスモスの維持には、当然外部空間が想定されなければならない。すなわち、外部空間は、一方で自然が侵入してくる、自らの統制が及ばないカオスとしての空間であるが、他方で、内部から自然を排除する空間でもあり、そうした外部空間なくしては、コスモスの維持は不可能である。 
 それゆえ、以下においては、東京という都市と、外部空間としての海それ自体や海から侵入するもの、逆に海へと排除するものなど、様々なコミュニケーションを取り上げ、東京という都市がどのように作り上げられ、維持されているのかを検討していくこととする。

第1章 海というカオスの排除
I 海を排除して作られた都市空間
1. 陸地あってのコスモス
 人は水中では呼吸も歩行も出来ない動物であるから、川、湖、そして海は、自らの生命を維持することができない空間である。それゆえ人が、自らの世界、コスモスを作り上げるためには、動物としての人間が、生物学上生存可能な陸上という空間を確保することが、第一に必要である。それゆえ都市は当然のことながら、陸上に作られてきた。
2. 埋め立てによって作られた都市
 しかしながら、陸上だけでは生活空間を十分に確保できなくなると、水の空間を陸に変えることによって、生活空間の確保をするようになる。
 実際、江戸、東京の都市空間の歴史は埋め立ての歴史であり、徳川家康入府以来、城こそ台地上に作られたものの、日比谷入り江を埋め立てて大名屋敷の用地としたのを初め、今日の中央区、千代田区、港区、江東区などに相当する海を埋め立てて、100万都市江戸の都市空間が作られた。明治以降も現代に至るまで埋め立ては続き、現在の東京都心の相当部分は元々海だったところに立地している。江戸、東京は、いわば海を、海水を排除した空間に作られた都市なのである(鈴木、2003)。
II 海の逆襲によるカオスの排除
1. 津波
 人々が陸地にコスモスを作り上げても、自然は文化によって奪われた海をふたたび取り戻そうとする。人々が自然を排除して作り上げた、文化によって統制された都市は、そのままにしておけば、たちまちのうちに自然の支配する、カオスの空間へと還ってしまうのだ。それゆえ江戸、東京の歴史は、自然と文化とのせめぎあいの歴史でもある。
 深川洲崎(江東区)は明暦の大火後の1697(元禄10)年ころには埋め立てられ、1700(元禄13)年には江戸城から移された弘法大師作の弁財天を本尊とする洲崎弁天が創建され、観光名所として栄えたが、1791(寛永3)年には台風による大津波に襲われた。こうした海との戦いを後世の人々に伝えるために「津波警告の碑」が幕府によって建立され、現在も境内に残されている。
2. 波蝕
 せっかく造成した土地も波蝕で破壊され、海へと還ってしまうこともある。古石場(江東区)は、隅田川河口の寄り州だったが、次第に陸地化し、旗本榊原氏が屋敷を構えた。しかし風浪の被害が甚だしかったために結局返上されてしまい、一部が石置き場として使われた。古石場はそのために付けられた地名であるが、都市が海との戦いに敗れ去ったことを示す地名でもある(清水、1995)。
3. 地盤沈下とゼロメートル地帯
 都心周辺は埋め立てによって作られた土地であるため、地下水の汲み上げなどによって、地盤が沈下し、とりわけ高度成長期の昭和30、40年代には、激しい沈下に見舞われた。その後地下水の汲み上げ規制が行われるようになって沈下は止まったものの、現在も都区部の21.7%、124.3平方キロは、満潮時には海面下である。特に江東区は観測開始以来最大4.5mも沈下し、区の半分近くは海面より低いゼロメートル地帯である(江東区、2006)。
4. 堤防、閘門
 こうした本来存在するはずの無い空間の上に作られた都市空間を守るために、海との戦いが続けられてきた。
 東京市は総合高潮防御計画を1934(昭和9)年から進めたが、戦争のため約80%で中止された。戦後は1949(昭和24)年のキティ台風で、計画を上回るA.P.(東京湾平均海面)3.15mの高潮が発生、江東区、葛飾区に大きな被害が出たため、防潮堤の計画を高さA.P.4.0mとし、1956(昭和31)年度までに両区の地域を完成したが、江東デルタ地帯の地盤沈下進行にともない、防潮堤嵩上げでは対応できなくなり、外郭防潮堤や水門で囲み、排水機場を整備した。
 1959(昭和34)年の伊勢湾台風で名古屋が被害を受けたために、1960(昭和35)年に計画を見直し、高潮防護区域を東京港全域に広げ、1964(昭和39)年の新潟地震での護岸決壊を受けて、1966(昭和41)年から既存護岸の前面に内部護岸の整備を開始した。
 こうして現在東京臨海部には外側を囲んで延長約32km、平均干潮面から高さ4.6〜8.0mの外郭防潮堤が整備されている。またその内側には平均干潮面から3.0mの内部護岸が整備され、地震時の護岸倒壊による背後地の浸水防止と、高潮時に水門を閉鎖した後の降雨、下水等の流入による内水面の上昇を防止している。
 また、外郭堤防により仕切られた外水域と内水域との境には、水門19箇所が設置され、外水域水位が高くなった場合は閉鎖して内水域の水位上昇を防ぎ、さらに水門を閉鎖した後に内水域水位が降雨や下水排水により上昇した場合の排水対策として、排水機場4箇所が設けられ、50年確率(約250mm/日)又は100年確率(約340mm/日)の大雨でも、内水位が維持できる体制となっている。
また川に関しても、北十間川、竪川、小名木川、仙台堀川、平久川、大横川、大横川南支川、大島川西支川などは感潮河川であり、潮の干満に応じて水位が変動するが、扇橋閘門と荒川ロックゲートで仕切られた旧中川、北十間川(一部区間)、小名木川(一部区間)、横十間川は、扇橋閘門と荒川ロックゲートにより、平常時は周辺地盤より低いA.P.−1.0mに保たれている(東京都港湾局、2006)。
 このように東京という都市=コスモスは、海という大自然=カオスに対して堤防、閘門をめぐらし、海を排除し続けることによってその存在が維持されているのであり、これらの施設がなければ、たちどころに大自然が支配する海という、人々にとってはカオスに戻ってしまう。湾岸はいわば自然というカオスと、都市空間というコスモスのせめぎ合う境界的空間というわけである。

第2章 海からやって来るカオス
I 異人
1.異国船
 海からやってくるコスモス撹乱要因は自然だけではない。異人、異文化もまた海の向こうからやって来て、作り上げられた社会、文化的秩序を撹乱する。
 鎖国によって安定した社会秩序を維持してきた日本に異国船がやってきたことは、天変地異にも匹敵する未曾有の出来事だった。異人、異文化の侵入によって閉ざされたコスモスを撹乱されることを畏れた幕府は、鎖国を維持しようとしたが、江戸湾奥深くまで侵入し、威圧する黒船に、結局開国することとなったものの、異人たちを受け入れる開港場は、江戸から東海道を三宿も先の神奈川宿からさらに湾を隔てた小さな漁村横浜村であった。
2.伝染病
 幕末に外国船が来航するようになると、伝染病も海から侵入してきた。コレラの最初の流行は1822(文政5)年で、その後1858(安政5)年、1859(安政6)年、1862(文久2)年、1877(明治10)年と大流行し、『日本災異志』によると、1858年7月から9月の江戸の死者は26万人を超えたとされる。このうち1858年と1877年の場合は、長崎に入った外国船から全国に広まったことが明らかになっている。横浜もしばしば最初の伝染病流行地となり、1877年には中国から侵入したコレラが流行している。
 ペストの場合も1899(明治32)年6月、横浜検疫所長浜措置場(横浜市金沢区)に赴任したばかりの野口英世検疫官補が清国人の患者を発見したのが最初であるし、1926(大正15)年の日本最後のペスト患者も横浜で発生している。
 安政の通商条約では、日本に外国船を検疫する権利もなく、外からやってくる伝染病に人々はおののくこととなった。こうした状況について、勝海舟は「イギリス艦、5、6隻長崎に入る。上陸するやたちまち市中病発し、死する者算なし。この地の民言う。イギリス人の毒を流せるなりと」(「海軍歴史」)と述べている。実際コレラが外国からもたらされたことが分かってくると、外国人に対する排斥運動につながり、長崎に滞在していたオランダ人医師ポンペは「コレラ流行は日本を外国に開放したからだといって、市民は我々外国人を敵視するようになった」と記録している(NHK、2006)。
 ここでも海は、都市にカオスをもたらすものであり、湾岸はその最前線というわけである。
II 異文化
1. 居留地
 1858(安政5)年の日米修好通商条約締結により、幕府は、神戸、長崎同様江戸にも貿易のために来日する外国人の居留地を設けることを義務づけられ、1869(明治元)年、築地明石町(中央区)に完成させた。この場所は、江戸時代には上方からの酒をはじめ、各地からの産物を江戸に運ぶ船でにぎわい、八丈島の産物を幕府直轄で取り扱う十軒町の島会所も近い隅田川河口の埋立地であるが、「マラリアがよく発生するばかりでなく、以前はバタヤ街でもあり、この場所を選定したこと自体が列強にとって好意的とはいえなかった」とシッドモアに評されるような場所でもあった(シッドモア、1986)。
2. 異文化
 この居留地には、1868(慶応4)年、外国人の為のホテル「築地ホテル館」や、フランス人経営の「オテル・デ・コロニー」(フレンチホテル)も設けられ、日本初のポプラ並木の舗装街路に病院、教会、西洋館、西洋靴の工場などが並んだ。また、電信創業、キリスト教系の立教、明治学院、女子学院、そして慶応義塾の発祥の地でもあり、1899(明治32)年、治外法権の撤廃で廃止されるまで東京に異文化を発信する場となった(川崎、2002)。
 実際1868(慶応4)年には、明石町一帯の湯屋では外国人に恥じて混浴が禁止されているし、新橋駅(港区)に向かう外国人が通るからと、銀座(中央区)は西洋風の煉瓦街に作り変えられたりしている(岩本、1987)。
 湾岸地域はその後も、海水浴場、グラウンド、ゴルフ場、テーマパーク、工場、空港などが作られ、芝浦(港区)の埋立地では野球、サッカーの試合が日本で初めて行われるなど、欧米文化が真っ先に上陸する場だった。
 また紀元2600年記念日本万国博覧会、東京オリンピック、そして東京市庁舎移転予定地とされ、戦後国際見本市会場が設けられたのも晴海(中央区)の埋立地であり、1996(平成8)年には臨海副都心有明(江東区)に国際展示場東京ビックサイトも作られている。さらに2016年に再び東京オリンピックが開催される場合は、メーンスタジアムが晴海に作られる予定である。
3. 

第3章 排除先としての海
 海からは人々の作り上げた都市というコスモスを撹乱し、カオスへと引き戻してしまう種々の要因がやってくる。こうした侵入物と都市とのせめぎあいの空間である東京湾岸は、他方で都市空間から海へと排除が行われる場でもある。ここでは、都市と海の間のコミュニケーションを通して、コスモスとカオスの境界的空間である湾岸がどのような空間として扱われているのかを検討する。
I. もの
1. 排水
 降雨など自然によって都市空間にもたらされる水が、そのまま都市空間に滞留することは、やはり人が生きていくための空間を奪い、活動を阻害し、伝染病を発生させたりすることになるから、排除する必要があるが、その排水先は、側溝、川、下水道を経た海である。
 また人は生きていく上できれいな水を必要とするが、調理、洗濯、洗浄などに使用すれば、汚れて利用できない上に病因となるから、やはり都市空間に滞留しないよう、排水する必要がある。
 現在排水の浄化処理を行う東京都下水道局の水再生センターは芝浦、有明、森ケ崎(大田区)の3箇所が湾岸に作られている。その他の施設も海から離れてはいるものの、川を経て海に排水され、最終的には海の浄化力に依存することになる。
2. ゴミの埋め立て
 人が生きていくことは、食物、生活資材などを取り込み、廃棄することでもある。食物として取り入れたものは排泄物となり、生活資材もやがて形や機能を失い、廃棄物となる。それらが都市空間に残存、蓄積され続けると、生活が阻害され、コスモスが破壊されることになるから、常に排除し続ける必要があり、その排除先として選択されるのも海である。
 江戸はリサイクルが徹底していたが、それでも廃棄物が生じ、富岡、木場、永代町、砂町、南砂町、北砂町、猿江、毛利、住吉、越中島など、現在江東区となっている地域は、江戸時代の廃棄物埋め立てによって生じた土地である。
 明治以降も一部は陸上での処分もなされたが、東京湾の埋立て処分が中心で、塩浜、枝川、豊洲などが埋め立てられた。
 昭和に入っても8号地(潮見)には1927(昭和2)年から1962(昭和37)年までに約371万トン、約36.4ha、14号地(夢の島)には1957(昭和32)年から1967(昭和42)年までに約1,034万トン、45ha、15号地(若洲)には1965(昭和40)年から1974(昭和49)年に約1,844万トン、約71.2ha、中央防波堤内側埋立地には1973(昭和48)年から1987(昭和62)年に約1,230万トン、約78ha、中央防波堤外側埋立処分場(その2)には1977(昭和52)年から2003(平成15)年に約5000万トン、約199haが埋め立てられ、さらに1998(平成10)年から始まった新海面処分場では約319haの埋め立てが予定されている(東京都港湾局、2006)。
 また粗大、不燃ゴミの処理も、京浜島不燃ごみ処理センター(大田区京浜島3丁目)、中防不燃ごみ処理センター(江東区青海2丁目)、粗大ごみ破砕処理施設(江東区青海2丁目先)といずれも湾岸で行われている。
3. し尿
 動物としての人は排泄するが、し尿が都市空間に滞留しては、空間を占拠するだけでなく、臭気や害虫、伝染病が発生し、生存を妨げることになるから、これを排除する必要がある。
 江戸時代には、現世田谷、練馬区などに当たる近郊農村から汲み取りにやってきて、肥料として利用し、野菜の形で還元されるという、巧みなサイクルが形成され、処理されてきた。
 その後も貨車や船による輸送などに変わっても、農村への供給が確保されていたが、化学肥料の普及、寄生虫の問題などにより、農村への供給は減少し、処理が大きな問題となったのである。
 戦後砂町(江東区)にわが国初のし尿浄化槽が建設され、一部が処理されていたものの、1932、33(昭和7、8)年以降、下水道の不備のため、ほとんどのし尿が投棄されてきたのは、実は海である。投棄先は当初は東京湾内だったが、赤痢の大発生、漁業被害などがひどく、1956(昭和31)年から外洋に移して続けられ、1999(平成11)年3月まで行われていた。
 廃棄物処理法施行令では、薬剤を注入するなど環境への影響を少なくした上で、し尿や汚泥を海洋投棄することを認めており、1998(平成10)年度には、全国186自治体が年間183万キロリットル、汲み取りし尿、浄化槽汚泥の全処理量の5.6%が海洋投棄されていた。  
 さらに全国では、建設汚泥が108万トン、柑橘製造残さ170トン(以上2000年)、家畜の糞尿が4200トン、赤泥が169.5万トン、焼酎粕12万トン、梅漬調味料廃液4800トン、廃糖蜜廃液1262トン、不良弾・不要弾616トン、不発弾・弾薬30トン、押収爆発物・不要火薬0.5トン(以上2002年)など実に雑多なものが海洋投棄されてきたのである(伊藤、2004)。
 しかしし尿の海洋投棄は先進国では日本以外になく、「廃棄物その他の物の投棄による海洋汚染の防止に関する条約」(ロンドン条約)96年議定書発効に伴い、し尿、浄化槽汚泥などの海洋投入処分を禁止する廃棄物処理法施行令改正が2002(平成14)年に閣議決定、施行され、5年の猶予期間を経て、2007(平成19)年には一部の都市で現在も続けられている海洋投棄が全面的に禁止される見込みである。
 現在東京では、下水道に流せない汲み取りし尿や浄化槽汚泥は、収集して下水道に投入されているが、投入施設は湾岸の大井清掃作業所(品川区八潮1丁目)にある。
4. 瓦礫
 都市空間は、建築物、橋、道路など、生活の用に供するために、自然界から都市空間に持ち込んだ木、砂、セメント、石などを計画した通りに構成し、ある機能を果たすように作られたもので満たされている。
 ところが、こうした構造物も、用途変更などで不要となり、老朽化し、地震、火災などで破壊されて機能を果たさなくなると、瓦礫となる。何の機能も果たさないモノが都市空間に存在することもまた人々の生活空間を奪い、統制されない無秩序な空間へと帰してしまうことになるから、これを排除し、再構成していかなければならないが、その排除先として用いられるのも、海である。
 江戸は火事が多かったから、木造とはいえ、しばしば大量の瓦礫が発生した。その処理は、均して上に新たな町並みを建設する場合もあったが、明暦の大火の場合、幕府は焦土を利用して明暦(1655〜1658)から寛文(1661〜1672)にかけ、木挽町海岸から順次大規模な埋め立て事業を行ない、築地(中央区)などを造成している(鈴木、2003)。
5. 関東大震災、戦災の瓦礫
 関東大震災の瓦礫は越中島3丁目(中央区)などに埋められた。第二次世界大戦による戦災の瓦礫処理は急務であったが、一部越中島などにも運ばれたものの、多くは運河、濠に投棄され、埋め立てられた。これは輸送手段が不足し海に運ぶ余裕がなかったためである。霊岸島(中央区)を東西に横断していた新川、呉服橋から土橋までの外濠もこの時に埋められたが、これらは元々埋め残された海である(鈴木、2003)。
II 人
1. 犯罪者
 人の社会には犯罪が発生する。これを放置すると社会の安定は崩れカオスに還ってしまうから、犯罪者を隔離あるいは排除する必要があるが、江戸時代には懲役刑は存在せず、死罪の他には遠島が重要な処罰とされた。すなわち、空間的に都市空間から遠く隔たった海の向こうに排除することを重視したのである。
 江戸の流人たちは小伝馬町牢屋敷から霊岸島の御船手番所で御船手に渡され、流人船が春と秋の年2回、永代橋、万年橋、霊岸島から順に船出していた。1796(寛政8)年、幕府が鉄砲洲(中央区)に島会所を開設、春、夏、秋の年3回七島廻船を就航させると、流人もこの船で運ばれるようになった。流人を乗せた船は鉄砲洲に3日間停泊、身寄りや知人と別れを惜しみ、浦賀(神奈川県横須賀市)、網代(静岡県熱海市)、下田(静岡県下田市)を経て八丈島を始めとする島々へ向かった(小石、2005)。
 八丈島は北に黒潮(黒瀬川)があり、横断することも難しい離島で、海の向こうの八丈島は、犯罪者というコスモスの撹乱要素を追放するべき異界とされていたのである(宮田、1996)。
2. 捕虜
 第二次世界大戦中米英人は鬼畜とされていたが、捕虜となった鬼畜たちの収容所が設けられたのも、都心から東海道を横浜に向かって12km隔たり、かつての鈴が森刑場に近い大森海岸だった。1942(昭和17)年に運河建設所品川俘虜収容所として開設され、東京俘虜収容所と改称後の1943(昭和18)年大森区入新井町(大田区平和島)の東京第2埋立地に移転し、1945(昭和20)年8月15日には、8ヶ国計606人の俘虜が収容されていた。
 逆に戦後は、戦犯となった東条英機他閣僚、将官ら48名が、刑が確定し巣鴨刑務所に移送されるまでの間収容されていたのもここである(大森第二小学校、1984)。
3. ホームレス
 失業、人間関係の崩壊などを契機に、都市空間内に一定の居住地を持つことができず、路上、公園など公共空間を占拠して生活する人々が発生する。こうしたホームレスの人々を屋内に収容する施設が設けられるのも湾岸で、緊急一時保護センターが大田区東海3丁目にあり、ここでは新宿区内藤町のさくら寮とともに、厳冬期に、高齢・病弱等の保護を要するホームレスを対象とする冬期臨時宿泊事業も行われている。さらに年末年始に臨時に設置される山谷地域越冬宿泊施設も大田区城南島にある。
4. 外国人
 法務省入国管理局は、国際的な交流の円滑化を図るとともに,「我が国にとって好ましくない外国人を強制的に国外に退去させることにより、健全な日本社会の発展に寄与」することを目指しているが、収容令書又は退去強制令書を受けた「好ましくない外国人」を収容する収容場は、レインボーブリッジそばの東京入国管理局(港区港南5丁目)に設けられている(東京入国管理局、2006)。
5. 難民
 日本は難民の受け入れに極めて消極的であるとされているが、ごく小数ながら、渋々受け入れることとなった難民の日本定住策として、日本語教育、職業紹介、職業訓練などの定住促進業務を行う国際救援センターも、湾岸の埋立地で、周囲は貨物駅、倉庫が並ぶ品川区八潮3丁目に設けられている(アジア福祉教育財団、2006)。
III 性
1. 品川宿
 性は動物としての人の本能によるものであり、もっともコスモスを撹乱する可能性の高いものである。それゆえ種々の道徳、法律によって縛るのは無論のこと、強いタブーの対象とされ、空間的にも都市中心からの排除が行われたが、その排除先とされたのも、湾岸であった。
 品川宿(品川区)は中世の品川湊から発展した街で、1601(慶長6)年宿場となった。現在では埋め立てで海から遠くなってしまったが、かつては背後が海で、風光明美を誇っていた。東海道第一番目の宿場であるため、旅人の送迎で賑わったことに加え、遊廓は江戸の人々にとって格好の遊興の場となっていた。
 南品川、北品川は旅篭と食売女を置くことが認められていたが、北品川のさらに北側は江戸市街地に近いため、後に茶屋、水茶屋が並ぶようになり、遊女まがいの女性たちを求める遊客が江戸から通い、やがて歩行新宿として品川宿の一部に加えられた。1843(天保14)年には旅行者の宿泊する平旅篭19に対し、遊女を置く食売旅篭92、水茶屋64を擁する歓楽街になっている。
 明治になって、新橋、横浜間に鉄道が開通した際に線路からはずれ、品川駅も高輪(港区)にできたため、宿場としての繁栄は終わったが、貸し座敷として存続し、遊客、遊廓に依存する商店、飲食店などが栄えた。戦後貸し座敷が禁止された後は活気を失い、現在は近隣の人々を対象とした商店街となっている。
2. 新島原遊郭
 1868(明治元)年の開市の日には、居留地の外国人向けに新島原遊郭(中央区)が開設されている。異人たちの性を水辺の遊郭でとどめようとしたものだが、1871(明治4)年には廃止されている。
3. 深川、洲崎遊郭
 深川は1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)後に、周辺の材木置き場(木場)を集中移転させて以来、深川花柳界が発展した。木材の集散地であり、永代寺、富岡八幡宮の門前町としても繁栄した。深川七場所(仲町、新地、櫓下、石場、佃町、土橋、裾継)で知られたが、埋め立ての伸展に伴い岡場所も多くでき、深川芸者はその方角により辰巳芸者とも呼ばれた。
 根津神社門前の根津(文京区)は岡場所となり、1841(天保12)年の天保の改革で一時は姿を消したが、1869(明治2)年に復活、1885(明治18)年には遊女943人に達した。しかし東京帝国大学が開設されることとなり、大学の近くに遊郭の存在は許されないと、1888(明治21)年に海面を埋め立てて強制的に移転された先が深川洲崎である。
 根津から移転してきた業者は83軒だったが、1909(明治42)年には、160軒、従業婦1700人、1921(大正10)年には277軒、従業婦2112人となった。戦後は洲崎パラダイスと呼ばれ、1954(昭和29)年にはカフェー220軒、従業婦800人を数えたが、1958(昭和33)年4月1日の売春防止法施行によって廃止された(東京紅團、2006)。
4. 進駐軍兵士慰安所
 敗戦直後、進駐してくる兵士による日本女性への性的被害を危惧して、1945(昭和20)年8月26日、特殊慰安施設協会(Recreation and Amusement Association、RAA)が設立され、「性の防波堤」として慰安所が作られた。その第1号として8月28日に開設されたのが大森海岸の小町園である。その後大森海岸への増設を始め、都内に次々と設置されたが、翌年には、エリナ・ルーズベルトの反対と性病蔓延のために廃止された(原田、1994)。
IV 死
1. 寺、墓地
 生物としての人は死ぬ。生者の世界である都市に死体を放置すれば腐敗し、悪臭を放ち、伝染病が蔓延したりするし、何よりも死というもっとも恐るべき自然を体現するものであるから、都市空間から排除しなければならない。
 江戸ではその排除先である寺院、墓地は、埋め立て地に真っ先に作られた。それゆえ今日の中央区は元々ほとんどが墓地である(小木、1991)。築地本願寺も、1617(元和元)年関東の布教拠点として浅草に作られた西本願寺別院を、明暦の大火後に、摂州佃(大阪市)の門徒たちが海を埋め立てて移転したものである(清水、1995)。霊厳寺も当初は、埋め立てられた霊厳島(中央区)に作られたが、埋め立てが進むとさらに深川霊厳町(江東区)に移転しており、寺が無くなってしまった霊厳島の地名は霊岸島と変えられている。つまり、陸化の端緒で死者を葬送する墓地とされ、やがて年月が経って地盤が良くなると、町地に変えられていったのである。
 これは内陸部でも同様で、まず街道を通し、低湿地、荒地といった地理的条件が良くない所に真っ先に寺、すなわち墓地が設けられ、やがて町地に組み込まれると、寺はさらに外に移動した。〈鈴木、1959) 実際、火事のたびに幕府の命令で寺が動き、石塔からなにからそのまま蹴倒して、墓は使い捨て、土をかぶせれば終わりだったのである(小木、1991)。
 また両国回向院(墨田区)は、明暦の大火の犠牲者を弔うために増上寺の子院を建てたのが始まりで、以後江戸が生み出すすべての無縁の死者、隅田川に漂う水死者などを葬る寺となったが、元々隅田川河口の牛島という中洲にあった(司馬、2005)。
2. 火葬場
 江戸時代の中ごろまで,江戸市中のほとんどの寺院がその境内に,火屋とか火家と称された簡易火葬場を設置していた。元禄以降の新開地である隅田川以東の現在の江東地区でも、幕末に至るまで火葬場を持つ寺院は多く、深川の霊厳寺や浄心寺は併設の火葬場で名高く、砂村新田の極楽寺も上落合村の法界寺、桐ケ谷村の霊厳寺などとともに、寺院としてよりも火葬場で有名となり、しだいに火葬場を専業としていった。
 近年でも大田、港、品川、目黒、世田谷5区共同運営の臨海斎場が大田区東海1丁目に、品川区の区民斎場なぎさ会館が品川区勝島3丁目に、中央区立セレモニーホールが中央区勝どき1丁目に開設されている。
3. 刑場
 犯罪者を江戸市中から裸馬に乗せて送り出して処刑し、また牢で斬首された首を獄門に晒したのが、日光街道の小塚原刑場(荒川区)、東海道の鈴が森刑場(大田区)である。鈴が森刑場は、1651(慶安4)年に同じく海のそばの品川から移転されたもので、東海道の東側に海が広がる場所であった(尾河、1999)。
 明治以降では、1884(明治17)年、竹橋事件の53人の処刑が越中島(江東区)で行われた、という例もある。
V ケガレ
1. 禊
 人が生活していくと、種々のケガレが累積してくる。そのままにしておけば、種々の不測の出来事を招き、コスモスが攪乱されることとなるから、それを祓う方法が考え出された。
 大山詣の人々は江戸を出立するにあたって、ケガレを祓うための水垢離を取ったが、その場所は両国橋東詰(墨田区)であった。
また現在でも大国魂神社(府中市)の大祭では、品川沖で汐汲み、お浜降りの海上禊祓式を行い、持ち帰った海水で朝夕潔斎を行っている。
2. 潮干狩、流し雛
 中国では人形(ひとがた)を水に流せば、穢れが人形に移って流れ去ると考えられたから、桃の花の頃川で沐浴し、一年のケガレを祓い清め、野外で飲食を楽しんだ。日本では、それが雛祭りとなり、その雛祭りの頃、浜辺に出て人形に一年の災厄を込めて流し、飲食したのが潮干狩りの起源とされるが(中江、2000)、現在でも神田川では毎年日本橋女学館中高校による流し雛が行われている。

第4章 タブー空間としての湾岸
I 他界としての海
1. 死者の世界としての海
 コスモスとカオスの出会う湾岸は、他界、異界に通じる境界的空間として、人々によって、タブーの空間として扱われてきた。
 江戸で身投げというと、隅田川がまもなく海に出る吾妻橋が有名で、今日でも落語で身投げというと吾妻橋が登場する(佐藤、1988)(司馬、2005)。隅田川そして海は、他界として認識されていた。
 深川の回船問屋徳蔵は頼まれて大晦日に船を出したところ、海坊主に出会い、撃退はしたものの、女房が死んでいたという。江戸の人々にとって大晦日の夜は、死者の霊がやってきて家族と共に祝う日であり、川で死んだ者たちの霊も水から上がってくるので、その邪魔にならぬよう船出は禁止されていた。人々にとって海、川は死者たちの空間と認識されており、(田中、1999)他界との境界としての湾岸は、多くのタブーに包まれた空間でもあったのである。
2. 水死者の祟り
 水辺に川崎大師(川崎市)、多摩川弁財天(大田区)、穴守稲荷(大田区)など、多くの聖地が集まる多摩川河口近くの五十間鼻(通称かめのこ、大田区)には、水上に張り出した桟橋の先に無縁供養堂が建てられている。この周辺は潮流の関係で漂流物が多く、水死者もかなり多く漂着するため、水死者の幽霊が出るという噂があり、拝み屋さんが占ったところ、多摩川の上流で身投げした人や、関東大震災で死亡した人などの霊魂がまだ彷徨っているということで、漁師たちが供養堂を建てたのである。元々死体が漂着すると念仏講中が集まって供養をし、身元不明の場合は、正蔵院のムエン塚に埋めたし、かつてお盆には多摩川に出っ張った形でヨシズ張りの四角の棚を作り、位牌を納め、お供えを置いて供養し、通りかかる人々も礼拝していった。そうしないとムエンの霊が崇ると、冨士講、御岳講の行者、イチコなどの拝み屋が説いたのである(宮田、1995)。
 またお台場海浜公園(港区)には、震災、戦災の際、流れてきた死者を供養する塔が立てられているし、現在でも荒川区の寺が8月初めに船で川施餓鬼の供養を行っている(読売新聞社会部、1992)。
II 異界としての海
1. 狐の祟り
 1966(昭和41)年、富士山上空で乱気流のため旅客機が墜落、124名全員死亡という大事故が起きた。この事故は埋立地にある穴守稲荷の鳥居の移転工事に踏み切ろうとする矢先に起きたため、羽田の住民の間では、土地霊であるお狐さんの崇りが生じたという噂が立っている(宮田、1995)。
2. 七不思議
 江戸では多くの七不思議が語られた。品川には満潮時には水が溢れ、干潮時には涸れるという水鉢「潮見の石」、片身を切り取られた鱸に和尚が「喝」と一声発して池に投げ込むと元気に泳ぎだしたという「片身の鱸」などの東海寺七不思議、本所(墨田区)では「置いてけ堀」、「片葉の芦」などの本所七不思議が知られる。
 こうした七不思議が発生したのは、東海寺、本所を始め、霊岸寺、新川(中央区)、麻布(港区)、千住(足立区)など、いずれも江戸周縁部で、とりわけ海、堀、川などの水辺に多く発生している。これらは当時、開発、すなわち自然の排除と統制が進んでいた地域であり、コスモス対カオスのせめぎあいの中で、土地に宿っていた地霊が呼び覚まされ、不思議な現象が引き起こされた地域なのである。
3. 妖怪 
 水辺には妖怪も出現した。中でも河童は、頭上には水をたたえた皿、手足に水かきを持つ童子姿で、水中に人馬を引き込んで尻玉を抜くなどの悪さをするとされ、海や川、池、沼など水辺に棲む妖怪である。
 合羽橋のかっぱ寺曹源寺(台東区)に伝わる河童伝説でも、氾濫し住民を苦しめていた新堀川に合羽屋喜八が私財を投じて水捌け工事を行った際、かつて喜八に命を助けられた隅田川の河童たちが協力したといわれ、水との戦いという自然の排除、統制が、河童という水中、陸上の境界に生息し人と獣の境界をまたぐ妖怪の出現を招いたわけである(中村、1996)、(宮田、1985)、(櫻井、2000)

第5章 パワー源としての海

I 海からのパワー
1. 二十六夜待ち
 江戸では万治年間(1658〜60)頃から始まった行事で、陰暦正月、7月の26日夜半、月光の中に阿弥陀如来と、脇士である観世音菩薩と勢至菩薩(阿弥陀三尊)が現れるので、これを拝めば除災、繁栄の霊験あらたかとされていたから、多くの人々が月の出を待って拝礼した。二十六夜待ちにもっとも良い場所とされたのは、高輪の大木戸、車町(港区)から八つ山(品川区)あたりの海岸で、多くの人々で賑わうようになった(俵元、1979)。
2. 雛遊び、潮干狩り
 江戸では旧3月3日の雛祭りの頃に雛遊びが行われた。これは、川の畔で禊ぎ、沐浴して一年のケガレを払い清め、その後野外で飲食を楽しむ上巳(じょうし)という行事と、日本で古くから行われてきた紙の人形で体をなでてケガレを人形にうつし、水に流す日本の行事が合し、平安時代に始まったものである。
 潮干狩りは江戸では元禄時代に始まり、『東都歳時記』によると旧3、4月、午の半刻には海辺が陸地に変わるので、芝浦、高輪、品川沖、深川洲崎、中川沖などに繰り出した人々が、牡蠣、蛤、平目、塩たまりに残された小魚などを獲って小宴を楽しんだ。
 この潮干狩も元々ただの遊楽ではなく、人形を水に流す習俗から始まった儀礼の一つである(陣内、1993)。浜辺に近い農漁村では、春の農事に先立って家中揃って浜辺に出て、人形に1年の災厄を込め、海へ流し、食事を楽しんだが、丁度1年で一番干満の差が大きい大潮の頃なので、浜辺で貝や小魚を拾うことができた。こうした浜遊びが潮干狩りの起源とされている(中江、2000)。
3. 海水浴
 医療目的で海水を浴びることは古くから行われていたが、1886(明治19)年陸軍軍医総監松本順が大磯海岸(神奈川県大磯町)を海水浴場として推奨したのをきっかけとして、医療とレクリエーションを兼ねた海水浴が次第に盛んになり、江ノ島(神奈川県藤沢市)、逗子、鎌倉、鶴見(横浜市)、新子安(横浜市)、そして羽田、大森、大井(品川区)、芝浦などの海岸が海水浴場として利用されるようになった。
 このほかにも釣り、船遊び、月見、雪見、花火、夕涼みなど、身体を水と密接に結びつけて開放感を満喫する遊びが多く見られる(川本、1988)。
 海は、江戸の人々にとって、ケガレを流し去る排除先空間だったと同時に、他方でそこから生きるパワーを取り入れるための空間でもあったのである。
II 海辺の遊興 
1. 芝浦、高輪
 芝浦は明治時代、海水浴や鮮魚料理の料亭街、花街として栄えたが、鉄道が通り、大正時代にかけて埋め立て工事が進められて工業地区、港湾地区となったため、水辺は工場、倉庫など産業施設が並び、潮干狩りもできなくなり、花街は内陸化してしまった。
 一般人にはあまり縁のない倉庫街として忘れられた芝浦が、再び脚光を浴びたのはバブル期である。ニューヨークのソーホー地区同様に、安くて広いスペースの取れる倉庫の上階(ロフト)がギャラリー、アトリエ、イベント会場、演劇の稽古場などとして使用されるようになり、カフェバー、レストラン、ディスコなどが話題を呼び、ウオーターフロントブームの先駆けとなった。 
 また東海道品川宿手前の高輪も埋め立てが進んで、現在は海から隔たっているが、江戸時代には台地が海岸に迫り、寺院が多く、房総半島まで見渡す景勝地で、二十六夜待、潮干狩りに加えて月見の名所、そして東海道を旅する人々の送迎の場でもあったから、茶屋、岡場所ができ、賑わった(陣内、1993)。
2.臨海副都心
 臨海部は工業化とともに埋め立てが進んだ。埋め立て地には港湾施設、工場、倉庫、貨物駅などが並び、人々にとっては縁遠い空間だったが、1980年代、産業構造が重化学工業中心から、情報通信、サービス業中心へと変化したため、不要施設、移転施設が生じ、跡地のウオーターフロント開発が注目されるようになった。親水思想も広まり、水辺を見直す機運が高まった。
 臨海副都心は、元々黒船来航時に砲台として造成した台場とその周囲の埋め立て地であるが、第三台場周辺(港区)が整備され、お台場海浜公園、デックス東京ビーチ、フジテレビなどが並び、人工砂浜から対岸の都心を望む風景が人気を集めている。また有明、青海地区(江東区)にもパレットタウン、ワンザ有明、大江戸温泉物語、東八潮(品川区)にも船の科学館などが作られ、全国から観光客が集まる海辺の一大観光地となっている。
3. 大森海岸
 埋め立て前の大森海岸は風光明媚で、八幡海岸には料亭もあった。鉱泉が湧いた森ケ崎には明治30年代以降旅館、料亭が立ち並び、戦後まで潮干狩りなど行楽地として賑わった。
 また海水浴場地先を埋め立てて作られた平和島(大田区)には、1954(昭和29)年に競艇場ができ、1957(昭和32)年には平和島温泉会館も開業、現在は「BIG FUN平和島」として、競艇、クアハウス、シネコン、ショッピングセンターなどが賑わい、隣接の埋立地勝島(品川区)のしながわ水族館も人気である。
4. 穴守稲荷
 穴守稲荷は、文化、文政(1804〜30)の頃鈴木新田を開拓した際、風浪により堤防が破壊され中腹に大穴があいたため、堤防の上に稲荷大神を勧請して祠を設けたのが起源で、以後風波がおさまり、五穀豊穣がかなったという。
 1885(明治18)年公衆参拝の公許を得て穴守稲荷となったのを機に、急速に商人、花柳界に信者が増え、各地に穴守詣の講中もできた。1894(明治27)年には塩水鉱泉が発見され、神社に続く参道の右側には料亭がひしめき、左側は芸者屋が軒を連ねるようになって栄えた。また潮干狩り、海水浴に好適な海岸に近く、競馬、鴨猟も行われ、格好の保養地、日帰りの行楽地として賑わった。多摩川対岸の大師河原(川崎市)と結ぶ渡し船もあり、川崎大師と周遊もできた。1902(明治35)年には参詣者輸送のために京浜電車(現京急羽田空港線)が開通、1913(大正2)年には神社の前まで延長され、門前は無数の鳥居、茶店が並ぶ一大歓楽街として繁盛した(宮田、1995)。
5. 銭湯 
 今日でも銭湯には、富士山とその前景としての海のペンキ絵が多く描かれ、その前の浴槽は海のうつしのように作られている。海山まで行かなくても、裸になって山を望み、海に入る疑似体験が可能なわけで、さらに金杉新浜町や新橋(港区)では海水温浴が行われていたし、埋め立てが進む前まで海水を汲み上げて沸かしていた「海水湯」(品川区)は、現在も残っている(斗鬼、2001)。
6. 水族館
 世界最古の水族館は1853年のロンドン動物園フィッシュ・ハウスといわれる。日本初は上野動物園(台東区)に1882(明治15)年開設された観魚室(うおのぞき)、二番目は民間の浅草水族館(台東区)である。その後も多数開設されたが戦争で頓挫、戦後復活し、現在日本は世界一の水族館王国である。 
 ビル10、11階にあるサンシャイン国際水族館(豊島区)は、温帯、寒帯、熱帯雨林から珊瑚礁、南極、そして東京の海まで、世界各地の自然の生態系をそのままに再現し、海、空、陸の生物を自然環境とともに混合展示して紹介しているし、埋立地にある葛西臨海水族園(江戸川区)は、太平洋、インド洋、大西洋、カリブ海、北極、南極、そして東京の海を再現している。また海から遠い丘の上のよみうりランド(稲城市、川崎市)には海の生物専門の海水水族館が設けられている。特にしながわ水族館では、東京湾の干潟と荒磯の水の動きを演出して荒瀬やアマモ場を再現、東京湾の砂地、泥地、磯にすむ生物を展示しているし、地元品川の湾岸地域と生き物もミニチュアで再現され、ヒトデなどに直接さわることができる「ふれあい水槽」も設けられている(斗鬼、2004)。
III 海辺の神仏
1.海辺の寺社
 海、川のほとりの水の辺は、古くから神域、霊域とこの世との接点と考えられていたので、寺社の適地とされた。
 たとえば、丘と海が近接している高輪海岸沿いには多くの寺社が作られ、独特の空間と雰囲気を持っていた。また、品川洲崎の突端の洲崎弁天(品川区、現利田神社)、同じく深川洲崎の深川弁天など、海に張り出した突端に立地する寺社は多いし、江戸では埋め立てが行われると、真っ先に寺が作られた。
 佃島に立地する佃住吉神社(中央区)は、水際に鳥居があり、そこから参道が伸びていることに象徴的に現れているように、海との深いかかわりが示されている。祭りでも八角形の御輿が鳥居をくぐり、石段から浜に下り、海に入っていたし、船に乗せて東京湾を一巡することによって、海を清め、豊漁と安全を祈願したのである。
2.漂着神
 鹿島神社(港区)は常陸の鹿島神宮の小祠と本地仏の十一面観世音菩薩像が漂着したのを祀り始めたものだし、補陀落山海晏寺(品川区)の本尊の聖観世音菩薩像は鮫の腹から出現している。品川寺(ほんせんじ)(品川区)の本尊水月観音は海中発見の黄金の聖観世音菩薩像で、寄木神社(品川区)は日本武尊の東征の際に走水で犠牲になった弟橘姫の船が砕け漂着したのを祀ったのが始めである。大森磐井神社(大田区、鈴が森神社)には海中から出現した烏石が祀られている。
 荏原神社(品川区)の天王祭では都内で唯一御神面を神輿につけての海中渡御が行われるが、これは1751(宝暦元)年、霊夢によって海面に神々しい光を放つ牛頭天王(須佐之雄尊)の御神面が見つけ出されたことから、御神域として禁漁区となり、京都の祇園祭に倣う神輿洗いの神事が行われるようになったといい、その海域は現在の天王洲である。
IV 海に対抗する神仏
1. 漂着した神仏
 今日のような強固な堤防が作れなかった江戸の町では海に対抗するにも神頼みだったが、その神仏も海からやって来た。
 鉄砲洲稲荷(中央区)の起源は、万治年間、埋め立て工事が荒波で思うように進まなかったところに、波に運ばれてきた御神体を祀ったことから始まる。
 波除稲荷神社(中央区築地)は、明暦の大火復興のため、焦土を利用して埋め立てを行ったが、荒波のため進まなかった1659(万治2)年、海面を稲荷大神の御神体が光を放って漂っていたので社殿を作り祀ったところ、波風がおさまり、工事が進んだという(波除稲荷神社、2006)。
 波除稲荷神社(中央区佃)も、文禄年間に埋め立てがうまくいかず、困っていたところ、海面に稲荷大神の御神体が漂っていたため早速奉ったところ、その後、工事は順調に進み無事終了した。
富岡八幡宮(江東区)も埋め立てが難航したために、富岡(横浜市金沢区)を津波から守った富岡八幡宮から波除八幡として分霊したものである(石川、1991)。
 その他にも、砂村波除地蔵尊堂(江東区)、大正時代までは波除観音堂と呼ばれていた森ケ崎観音法浄院(大田区)などが知られている。
2. 海の神をうつす
 弁財天は、サンスクリット語で水を持つものを意味するサラスヴァティーが転じたもので、竹生島(滋賀県びわ町)、江ノ島とともに日本三弁天に数えられる厳島神社(広島県宮島町)も、島そのものを神と見て洲浜を敷地としているが、東京でも多数の弁天堂が海を模した池の中に設けられている(神崎、1993)。
 不忍池の弁天堂(台東区)は、下館城主水谷伊勢守が中島を築き、堂を建てて祀ったのに始まり、寛永寺の境外祠堂となっている。上野とともに日本初の公園に指定された浅草公園(台東区)にも、1884(明治17)年田圃の一部に大池とひょうたん池が掘られ、弁財天が祀られて、周囲は飲食店などが集中し、日本一の盛り場浅草六区となった(田中、2000)。
 品川区の厳島神社には弁天池があり、鮫洲八幡神社も池の中にある。目黒区の碑文谷公園の厳島神社は碑文谷池の小島に、大田区の厳島神社も弁天池にある。さらに海からは遠く離れた練馬区石神井公園の三宝寺池にも、池に突き出た場所に厳島神社があって、弁財天が祀られている。
 先述の深川洲崎神社も、元は厳島神社から分霊された弁天社であるし、佃住吉神社の本社である大阪市住吉区の海辺に立地した住吉大社は、伊弉諾尊があはぎ原に禊祓いしたとき、海の中から生まれた底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神を祭り、海上無事を祈願する神社である。

おわりに
1.コスモスからカオスへ
 東京というコスモスは、常に撹乱する要因によって脅かされている。すなわち侵入しようとする水、動物、植物、人々自身から発生する闘争、性、死、廃棄、排泄といった、自然である。こうした撹乱要因を放置すれば、コスモスたる都市空間はたちどころにカオスへと引き戻されてしまうわけで、これらを排除し続けることこそ、都市にとって最も重要な、不可欠の本質的機能である。
 その際、海という空間は、それ自体が都市空間を飲み込んでしまう最も恐るべき自然であり、さらには動物、植物、そして異人、異文化と、東京というコスモスをカオスへと引き戻す撹乱要因を次々ともたらす空間なのである。
2.ケガレと湾岸という境界的空間
 ケガレとは、人間の属する秩序を攪乱するような事象に対して、社会成員の抱く不安、恐怖の念が作り上げた観念である(山本、1972)。東京という都市空間においても、動物、植物、そして浸水した水、内部で人が発生させたゴミ、し尿、瓦礫、そして犯罪、性的行動、死などが、ことごとく汚い、恐ろしい、変なものとされ、排除すべきものとされている。
 こうしたケガレの排除は空間的には、都市の中心から周縁へ、さらには、外部へという移動であり、都市というコスモスとカオスたる海とが接する湾岸は、まさに排除の最前線としての境界的空間である。
3.海の浄化力
 自然がもたらす水は一方で恐るべきカオスであるが、他方ですべてのケガレを流してくれる力を持つとされてきた。人々は神社参拝に際して口を漱ぎ、トイレから出ると手を洗うし、禊ぎ、祓い、水中渡御といった多くの水とのかかわりを持つ祭りも、都市空間を浄化するために行われる。
 それゆえ東京という都市においても、海とその水は、排除された瓦礫、汚水、し尿を飲み込むだけでなく、人々自身から発するケガレをもまた取り込み、浄化してくれる。海は、他方で、その浄化力によって、コスモスを維持するために、利用されているのである。
4.海という他界の力
 人はコスモスを作り出し、死と言う最大のカオスを排除して生きていく。しかしそうしたコスモスへの安住は、人から段々に活力を奪っていく。だから人は、死、他界を想像、認識することによってこそ、この世、現実の世界を実感し、より豊かなものとして、活性化することができる。死霊の支配する世界とは、他方で人に限りない自由を保障する世界でもある。それゆえ江戸、東京という都市もまた、死者の世界、死霊の支配する恐るべき他界である海に祈り、海からやってくる神仏の力に頼ってコスモスの維持が行われている、というわけである。
5.都市と人の鏡
 エリアーデは、人が生来中心的な象徴との接触の欲求を持ち、それにより、カオスに一定の秩序が与えられ、中心をもったコスモスが創出されるという。それゆえ中心には聖性が付与されるが、他方で周縁とされた空間には、両義的性質が付与されることとなる。すなわち、周縁は聖なる中心から遠く離れているという意味で不浄な空間とされるが、他方で、境界内外にまたがって不明確な範疇に属する非日常的な性質から、時として聖性を帯びる場合もあるというのである。さらにメアリー・ダグラスは、社会におけるあらゆる強力な力は、黄泉の国を含む神話的な宇宙と境界を接することで生まれるという。
 江戸、東京という都市空間においても、海、湾岸は、コスモス撹乱要因の侵入を阻止し、内部の撹乱要因を排除する場であると同時に、カオスとしての海のパワーを取り入れる、文字通り両義的性格を持った境界的空間、というわけである。
このように、一方でカオスとして畏れながら、他方でコミュニケーションが不可欠という海と東京とのアンビバレントなかかわり方は、まさに人という動物の自然とのかかわり方、生き方そのものを表しているといってもよいだろう。


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