「鉄道という異文化と日本」
斗鬼正一
2004(平成16)年月2月
『情報と社会』第14号、江戸川大学
概要
鉄道は、交通に大変革をもたらしただけでなく、交通手段であることを越えて、新たな空間関係を創り出し、人々の視線、空間認識にまで大きな影響を与え、大きな文化変容をももたらした。
異文化として導入された鉄道が、なぜそうした、社会、文化を大きく変容させる力を持ち得たのかを、他方で鉄道が人々によって、畏怖、嫌悪の対象ともされたことに注目して検討した。
p13-23(全76ページ)
鉄道という異文化と日本
斗鬼正一
はじめに
鉄道は幕末に日本にもたらされて以来、全国に網の目のように張り巡らされ、世界一の技術を誇るばかりでなく、私たちの日々の生活に不可欠の、極めて重要な交通手段となっている。しかし異文化としての鉄道はまた、単なる交通手段としてではなく、一方で畏怖
、嫌悪の対象とされ、他方で日本の文化、社会に大きな影響を与え、変化させてきた。そこで本稿では、まずは鉄道が、交通手段としてどんな力を持つ新技術だったのか、そして単なる交通手段をこえた文化としてどんな力を持っていたのか、さらには日本人がそうした異文化としての鉄道とどのように関わり、評価し、その力を利用し、日本の文化、社会をどのように変えてきたのかを考察していきたいと思う。
第1章 鉄道という異文化の導入
1.異文化としての鉄道の伝播
イギリスに始まった鉄道が、日本に伝播したのは幕末で、1853(嘉永6)年には、ロシア艦隊司令官プチャーチンが艦上で鉄道模型を運転している。1854(嘉永7)年には、ペリーがアメリカ大統領から将軍への贈り物として持ってきた、実物の4分の1の蒸気機関車と客車の模型が、横浜村の海岸でアメリカ人によって運転され、人々を大いに驚かせた。さらに1855(安政2)年には、佐賀藩が蒸気機関車の模型を製作し運転を行っている。
2.明治政府による東京、横浜間鉄道建設
幕末にはすでに、日本在留の外国人から江戸、横浜間、大阪、神戸間の鉄道建設が出願され、1867(慶応3)年には、アメリカ公使館書記官のポートマンが幕府から江戸、横浜間の建設免許を得ていたが、明治政府はこれを認めず、政府が自ら建設することを決定した。
1868(明治元)年には、東京、横浜間の鉄道敷設案が提唱されたが、街道筋の旅籠、駕籠屋、飛脚などは猛反対、政権内部でも鉄道よりも軍備増強を主張する西郷隆盛はじめ、「鉄道は金を失う道」、などと圧倒的に反対が強く、大隈重信は暗殺されそうになったほどだった(田中、2000)。それでも伊藤博文、大隈らは、1869(明治2)年に国有鉄道建設計画を立て、1870(明治3)年3月、新橋(汐留)、横浜(桜木町)間29キロが着工された。
反対にあって用地を確保できなかった高輪海岸では、海中に築堤を築いて用地を確保するという綱渡り的な方法で建設が進められ、1872(明治5)年5月7日(旧暦)には、イギリスから輸入した車両により品川、横浜間が仮開業、10月14日に全線が正式に開業した。鉄道発祥から47年後であった。
3.鉄道網全国に
その後鉄道は国土の動脈として全国に張り巡らされることとなり、最重要路線として官設で真っ先に着手された現東海道本線は、1889(明治22)年に新橋、神戸間全線が完成、同じ年には大船で分岐して横須賀軍港と結ぶ横須賀線も開業している。
民間でも、1881(明治14)年には日本鉄道会社が創設され、政府の協力により1883(明治16)年上野、熊谷間(現高崎線)が開業。1885(明治18)年大宮から分岐して宇都宮まで(現東北本線)開業し、1891(明治24)年には青森まで全線が開業。日本鉄道海岸線(現常磐線)も1896(明治29)年田端、土浦間、1898(明治31)年には岩沼まで全線が開業、1906(明治39)年には上野に乗り入れている。現中央本線は甲武鉄道によって1889(明治22)年新宿、立川間開業、1895(明治28)年には飯田町がターミナルとなり、1919(大正8)年、名古屋まで全線が開業している。
現総武本線は総武鉄道によって1894(明治27)年本所(現錦糸町)、市川間開業、189(明治30)年銚子開業、1904(明治37)年には両国橋(現両国)がターミナルとなった。
この他にも1885(明治18)年から1889(明治22)年にかけて山陽鉄道、九州鉄道、水戸鉄道などが相次いで開業し、民設鉄道は全国の営業路線の50%をこえるまでになった。
4.鉄道国有化と全国統一
1892(明治25)年には鉄道敷設法が公布されて、政府は鉄道建設政策の指導にあたり、 官設、民設とも営業距離、輸送力が増大した。しかし軍部が、日清戦争では軍港広島までの軍事輸送の効率化、日露戦争後には朝鮮半島、中国東北部侵出をめざして、南満州鉄道などとの一貫輸送体制を求めたため、1906(明治39)年に鉄道国有法公布、翌年までに全国の主要民鉄17社が買収、国有化され、全路線の約90%、旅客輸送量の約84%、貨物輸送量の約90%を国有鉄道が占めることとなった。
国有化された鉄道はその後、1907(明治40)年に逓信省から帝国鉄道庁へ、さらに1908 (明治41)年には鉄道院へと管轄が変更されたが、車両の形式番号、車両番号制度が明治
40年式と呼ばれる方式で整理、統一されたのは勿論のこと、運賃制度や標識、職員の制服から制帽の徽章まで全国で統一されている。また1909(明治42)年には線路名称が制定され、各線が現在に続く東海道本線、山陽本線、東北本線などされるようになった。
5.東京の玄関新橋駅
1872(明治5)年開業時に横浜駅とともに、ターミナルとして汐留の竜野、会津、仙台藩邸敷地に開業したのが新橋駅である。その後の延伸とともに東海道本線のターミナルとなり、東京の玄関口であり続けた。1909(明治42)年、近くに都心縦貫線烏森(からすもり)駅が開業した後は汐留貨物駅となり、1986(昭和61)年の廃止まで、都心の貨物駅として利用された。現在の新橋駅は1914(大正3)年の東京駅開業時に烏森駅が改名したものである。
6.東京駅の開設
1884(明治17)年芳川顕正東京府知事は、市区改正意見書を山県有朋内務大臣に提出、道路、公園、運河、市場、上下水道などとともに、都心縦貫線と現東京駅の位置への中央駅建設を提案した。費用対効果、町が分断される不便さから反対があったが、府はイギリスなどでも都心を通過する例が増えていること、車両運用、人件費などでも無駄が省けること、アメリカでは中央駅が作られ、ヨーロッパでも新市街地では中央駅が作られていると反論した(藤森、1987)。
また内務省主導の市区改正計画に反対の外務省が1886(明治19)年、ドイツ人建築家エンデとベックマンに依頼して別の東京改造案をまとめ、横槍を入れた。これは海寄りに縦貫線を通し、中央駅は銀座商店街をつぶして作るという計画だったが、結局外務省案は現存する赤煉瓦の法務省庁舎など一部が実現しただけで終わった。結局中央駅は現東京駅の位置となり、1908(明治41)年起工、1914(大正3)年に完成した(藤森1987)。
当初のバルツァー案は、長大な駅舎ではなく、5軒を並べ、煉瓦造り西洋館の屋根に瓦葺きや、日本風の棟、出入口の上に唐破風をのせるといった、和洋折衷案だった。しかし彼の案は採用されずに解雇、コンドルの弟子で明治期の欧風建築を主導した東京帝国大学工学科教授辰野金吾が設計を担当することとなったのである(藤森、1987、武田、1995)。
第2章 鉄道への嫌悪
1.鉄道建設への反対
品川駅の所在地は品川区ではなく、東海道品川宿からは1kmも離れた港区港南である。これは宿場の人々が、宿泊、飲食業、運送業などの客を奪い、宿場が寂れると、鉄道に反対したためで、結局品川宿に鉄道(京浜電気鉄道、現京浜急行)が通ったのは、1904(明治37)年になってからだった。その後宿場は遊廓、待合としての営業で一応命脈を保ったが、1957(昭和32)年の売春防止法施行で壊滅、現在は周辺住民を対象とした静かな商店街となっている。
2,鉄道は真都心に入れない
江戸幕府は開港の要求に対して、江戸から隔たった横浜を開港した。それも当初は東海道の宿場神奈川が検討されたが、結局さらに離れた小さな村横浜が選ばれたのである。その横浜と結ぶ交通手段として鉄道が計画されたが、起点として選ばれたのは、日本橋から東海道を約2.3キロも下った新橋であった。とりわけ官僚は外国人を宮城に近づけたくないと反対で(サイデンステッカー、1986)、鉄道を江戸、東京の真都心である皇居前や日本橋には入れず、東京駅が開業したのは、42年も経った1914(大正3)年である。
他の方面でも、日本鉄道のターミナルは上野駅で、東北、上信越方面からの東京駅乗り入れは1991(平成3)年、東北・上越新幹線の上野、東京間開業でようやく実現した。山形新幹線は1992(平成4)年、秋田新幹線、長野新幹線は1997(平成9)年である。在来線は一時常磐線の有楽町発着、東北本線、高崎線の一部電車の東海道本線との直通運転が行われたことがあるだけである。
甲武鉄道も新宿、飯田町始発で、御茶ノ水乗り入れは1904年(明治37)年、昌平橋が1908(明治41)年、1912(明治45)年に辰野金吾設計のターミナルが建設されたのも万世橋である。結局近距離電車が東京駅に乗り入れたのは1919(大正8)年になってからであり、その後も長距離列車は飯田町発着のままで、1933(昭和8)年には新宿発着となり、今日まで続いている。
総武鉄道は本所(現錦糸町)起点で、両国橋(現両国)乗り入れは1904(明治37)年、その後お茶ノ水駅が開業したが、房総方面への長距離列車ターミナルは長く両国で、総武快速線開業により東京駅に乗り入れたのは1972(昭和47)年のことである。
これは他の都市でも同様で、福岡の場合、1889(明治22)年九州鉄道会社によって駅が設けられたのは、旧城下町で県庁、市役所もある福岡ではなく、商業の町博多である。
1874(明治7)年に開業した大阪駅も市街地の北の外れ、西成郡曽根崎村字梅田の水田を埋め立てて作られたし、1877(明治10)年の開業式典に明治天皇も行幸した京都駅も、南のはずれ七条である。1886(明治19)年開業の名古屋駅も、市街地から西に遠く離れた水田が広がる笹島に設けられ、市街地と駅を結ぶ広小路が後年の繁華街に成長している。
ヨーロッパの都市でも、鉄道は都心には入れず、周辺部、市壁の外側に頭端式の駅が設けられた。そのため、逆方向に出発するのに機関車を付け替えねばならない。またパリのように各地への路線が集まる都市でも、方面別にそれぞれ異なったターミナル駅から発着するため、乗り換えは大変不便である。列車は異郷からやってきて、都市と外界を隔てる城壁の内側に少しだけ入って、いったん鉄路を収束させ、次なる異郷へは、新たなもう一本の鉄路で出て行くのである(松葉、1997)。
3.経済的打撃、公害への警戒感
こうした鉄道への嫌悪には、第一に、経済的理由と、今日でいう公害を理由とするものがあった。甲武鉄道の場合も、当初は甲州街道沿いに計画されたが、府中、布田5宿が宿場が寂れると反対、農家も汽車は火を吹くので作物が痛む、桑が枯れるなどと反対した。町が煤ける、火の粉で火事になる、さらには地面が割れるなどという反対まであって、青梅街道沿いに変更したが、それも反対され、結局街道、宿場からまったく離れた人家のないところを、中野から立川まで24km一直線の経路となった。甲州街道沿いの笹塚、調布間に京王電気軌道(現京王電鉄京王線)が開業したのは、1913(大正2)年である。
鉄道の利便性、経済効果が理解され、一転して地域振興、集票の目玉商品として、盛んに誘致されるようになったのは、ずっと後のことであった。
4.よそ者への警戒感.
鉄道は、それまでの徒歩、駕籠、馬といった交通手段とはまったく違うレベルで、大量の見知らぬよそ者を運んでくる。とりわけ創業時の新橋、横浜間の場合は、横浜の港を通して、外国人を東京へ運んでくる。さらにそうしたよそ者たちが、伝染病は無論のこと、異国、都会の淫らな風俗を持ち込み、自分たちの伝統の美俗が破壊されるから、といった警戒感もまた、鉄道への反対の理由であった。
5.汽車は魔物
こうした当事者にとっては合理的といえる反対に加えて、およそ合理的とはいえない反感、嫌悪感も強かった。
汽車は当初煙を吐く魔物とされ、キリスト教の呪術、人身供御といった噂が流れた。汽車は魔術によって動かされているものだから、乗れば殺されてしまうなどと、恐れ、嫌悪、反対する人々が多数いたのである。実際当時の汽車を描いた版画は、いつも晴れていて、夜でもむやみに明るく、けばけばしく、桜が咲いている中で煙を吐く、といった異様な姿に描かれているものが多い(サイデンステッカー、1986)。
6.狸が化けた汽車
1878(明治11)年11月27日の読売新聞には、品川駅から少し横浜寄りの八ツ山下で大狸が線路を横切り、ひかれて死んだというニュースが載せられているが、その後明治から大正にかけては、狸やむじなが汽車に化けて汽車と競争し、はねられた、といった話が全国各地に伝えられている。
たとえば八ツ山下では、汽車に化けた狸が本物の汽車に向かって走って来て衝突したが、何も起こらず、翌朝狸の死体が発見されたといった「事故」が起きているし、葛飾区亀有の常磐線線路沿いにある見性寺には、田端、土浦間開業当時、汽車に化けて汽車と競争し、はねられて死んだむじなを葬ったという「むじな塚」が残されている。
また1887(明治20)年頃、五反田の踏切では、汽車がやってくるのを待っていた人が、いつまでも通過せず変だと思って手許を見ると、買ったばかりの油揚げがなくなっており、狐にだまされたか、と思ったとたん汽車は消えていた、という話もあった(田中、1999)。文字どおり、鉄道は、化け物とされたのである。
第3章 駅への嫌悪
1.駅周辺という場末
荒俣宏は、吉屋信子の小説に登場するお嬢様の生活圏に新宿、渋谷などが含まれないことについて、辺境への入り口となる郊外私鉄駅のある町などは、寂寥を抱かせる場末の悪場所としか映らなかったからだと述べている(荒俣、1987)。また今和次郎によれば、東京では細民街も、鉄道線路の近くに多かったという(今、2001)。
確かに現在でも、新宿、渋谷、池袋は日本有数の商業集積地ではあるが、真の老舗、一流店は日本橋、銀座といった真都心に立地し、それらターミナルには駅ビルなどに支店を出しているだけである。仮に本店を移したとしたら、売上は上がっても老舗、一流としての店の格は落ちてしまう。百貨店の場合も、一流の条件は日本橋、銀座に立地することであり、駅直結の私鉄系ターミナル百貨店は、呉服店から発展した老舗と比して格下とされてきている。
これは地方都市でも同様で、通例、その都市一番の一流店、老舗百貨店などは古くからの中心部にあり、駅前にはない。札幌の場合なら、冬は長期間雪に閉ざされるから、まちへ出かけることはハレの心弾む出来事であるが、この「まちへ行く」という時のまちとは、往時の繁華街、中央区の三越、パルコのある南一条十字街を中心とした100m位のことで、西武、東急のある札幌駅周辺は入らない。それゆえ「長靴を履いて来ちゃったけど、まちではないから構わない」といった言い方をするという(SIGNATURE、2001)。
田中聡は、駅にはなにか暗い雰囲気が漂い、亡霊が出そうな雰囲気があるのは、漂泊者に対して抱いてきた畏怖の感情が、町中にあってヨソへつながっている通路と、そこを司っている人々に投影されてしまうからだ、と述べているが(田中、1999)、実は多くの文化で、駅はそれ自体が嫌悪すべき対象とされ、立地も、権力者から見て上品でない、問題
のある場所、差別されている場所、わざわざ辺鄙な場所が選ばれていることが多い(栗本、1983)。
ヨーロッパでも、駅は長い間都市に存在するにはあまりに異様なものとされ、市壁の外側に作られた。そして周辺には侘びしさが漂い、人々は緊張と裏ぶれた気分で行き来するような場所だったし、駅に接する一帯が工場街と無産階級の悪名高い駅周辺地帯となっていた場合も多いのである(シベルブシュ、1982)。
駅は、事故死者、自殺者も多い。常磐線三河島駅(荒川区)付近は、1962(昭和37)年、脱線した貨物列車に下り列車が衝突、乗客が脱出した所にさらに上り列車が突っ込み、地獄絵図の中、160人もの死者が出た三河島事故の現場である。同じ常磐線を数キロ下った足立区五反野は、国鉄総裁の轢断死体が発見された下山事件の現場である。多くの駅のホームは、転落事故、触車事故、そして自殺が後を絶たない。花束が供えられたりする道路違って、すぐに痕跡は拭い去られ、目には見えなくなるが、ホームはいわば断崖、線路は谷底、激流であり、駅は死のイメージが拭えない場所と認識される。そして実際、駅は異界に通じる門と考えられる場合も多く、宇奈月(富山県)ではエビス様が出稼ぎから帰ってくるのを駅に迎える行事がある(田中、1999)。
2.裏駅、駅裏という場末
駅自体が場末ととらえられていたが、さらに「駅裏」あるいは「裏駅」は都市の中でも忌避されるような空間とされてきた例は多い。居住地が社会的地位を表現する重要な要素となるアメリカでは、鉄道を挟んで町の性格がまったく異なり、駅の裏にあたる側は、格下の、貧しい人々の多く住む地域となっている町は多いが、日本でも各地で、裏駅(大分、小田原、鎌倉、逗子駅等)、駅裏(長崎、熊本、名古屋、仙台、盛岡、札幌駅等)といった通称名が使われている。表駅は駅長室のある側、1番線側であり、反対側が裏駅であるが、元々駅は片側にしか出入口のない場合が多く、線路や駅舎で分断された裏側は発展せず、倉庫、工場、貨物駅などが設けられ、暗くて治安が悪く、裏ぶれた、寂しい風景になっていく場合が多い。
東京では表駅、裏駅といった呼称はないものの、人々が表口、裏口と意識している場合は多く、品川駅の場合、1番線側の高輪口には、戦前は皇族、財閥の邸宅、現在は一流ホテルが並んでいるのに対し、港南口は東海道新幹線駅開業を控えて再開発が始まる数年前まで、小さな駅舎の周辺には、倉庫、工場、東京都食肉市場(芝浦屠場)、下水処理場などしかなかった。駅の長く、狭く、暗い地下道も、屠場労働者たちが操車場の下に自力で掘
らざるをえなかったものである。
大阪駅の場合も、百貨店やオフィスビルが並び華やかな南側に比して、裏口の北側は現在も広大で殺風景な梅田貨物駅が広がり、とても大都会の都心とは思えないくすんだ倉庫や工場が並んでいる。名古屋駅の駅裏(西口、太閤通口)も戦後は闇市で、現在でも百貨店、超高層ビルの並ぶ華やかな桜通口とは対象的に、古びた商店、市場、大衆食堂、居酒屋、格安ホテル、駐車場、そして風俗店などが密集している。
第4章 鉄道建設の政治的目的
1.鉄道建設の政治的目的
263年続いた徳川幕府を倒した明治政府は、京都から東京に移った天皇を新たな支配者として、東京、宮城を中心としたnation stateとしての一体的な中央集権国家たる大日本帝国を作り上げる必要があった。こうした政治的目的のために利用しようとしたのが、異文化としての鉄道だった。
まず政府内でも圧倒的に強かった反対を押し切り、東京、横浜間の建設を綱渡り的方法で進めたのも、基盤が磐石ではない新政府が、新政権と新時代の到来を目に見える形で見せることによって、危機を脱し、人々に文明開化、殖産興業路線を受け入れさせる必要があったためである。また大隈らが当初、東京、京都間の建設を目標としたのも、中央集権的国家体制を作り上げ、強化するために有効と考えたからであった(田中、2000)。
こうして新橋駅は、各藩による地域支配を突き崩すことを象徴するかのように、竜野、会津、仙台各藩邸間にあった堀を埋め、藩邸を破却して建設された。さらに手形を持ち、関所を越えなければ行けなかった全国各地へと、各藩境を踏み越えて建設が進められ、宮城の正面に、全国への距離測定基準点たるゼロキロポストを設けた東京駅が建設されたのである。
2.東京駅建設の政治的目的
中央駅建設に関しては、当初東北の荷物をいかに横浜に運ぶかという実用性が重視されていた。ところが辰野に対して、帝都の中央停車場として壮観を呈するようなものをと注文があり、さらに鉄道院総裁後藤新平が、日露戦争の勝利を記念して東洋一の大駅を作るう命じたため、完成した駅は、アムステルダム中央駅を思わせる洋風煉瓦造りルネサンス様式の東洋一の巨大な駅となった。
欧米の例とは異なり、帝都の名そのままに命名された東京駅には、正面中央に車寄せのある皇室専用口が設けられ、貴賓室松の間には天皇、皇后の玉座が置かれ、ホームへは、赤絨毯が敷かれた貴賓用特別通路が設けられた(高田、1987)。
開通式には、日露戦争で活躍した独立第18師団指令官神尾中将が、この日東京、横浜間で運転を始めた電車で凱旋、1500人もが招待され、大隈首相自らが祝辞を述べるという盛大な式典が行われ、引き続き、市民のために東京市主催の開通祝賀会、凱旋祝賀会も行われた。その後は3日間一般に縦覧され、駅周辺は多くの出店が出て、大にぎわいとなった(武田、1999)。
丸ノ内の利用計画でも、当初案では駅から宮城に向かう大通りはなく、町地として開放する計画だったが、実行された「市区改正新設計」では、日本の街路ではほとんど見られないスケールの、広大な大通りが作られている(今、2001)。この行幸通りの中央部は現在も車の通行が許されず、日本に着任した各国駐日大使の信任状捧呈式の際、皇居までの馬車行列に使われている。
辰野自身が「帝室御専用口を設けた一事は、実に我が鉄道院の名案。我が国の国体にあっては、特に之れを設くることが必要である」と述べているように、東京駅の意味は国家によって相当に変更され、利便性よりも帝都の玄関、天皇の駅、さらには大日本帝国のシンボルとされたのである(藤森、1987)。
第5章 鉄道の力
そこで次に検討しなければならないのが、なぜ鉄道は一方で、嫌悪、忌避され、他方で政治的目的のために利用され得る強力なメディアたり得えたのだろうか、という点である。
1.距離の破壊 縮地の術
「動」物としての人は、生きて行くために空間を移動しなければならない。そのために人は歩く、走るという移動方法を持っているが、当然速度、距離などは限定される。ところが鉄道は、開業当初、あまりの早さに到着を信じられない客がどうしても下車しようとしなかった(田中、2000)、という話が伝わるように、まさに「縮地の術」(柳田、1910)であり、こうした生物学的限定を打ち破り、目にも止まらぬ速度で、長距離を移動させてくれるようになった。
ところでふたつの地域の間に存在する空間、距離は、それぞれの地域がアイデンティティを持った別々の地域であることを明確にする。旅する人々は、時間をかけ、運動感覚と疲労感と共に移動することで、それぞれの地域の空間的独自性を認識する。ところが鉄道は、そうした隔たりを抹殺してしまったのである。空間をただ単に突き抜けるだけで、場所として知っているのは出発地、停車場、終着地だけ、間の空間、距離は抹殺され、残されるのは所要時間だけとなってしまう。距離を無化し、座っているだけで疲れ知らずに、移動させてしまう鉄道は、それぞれの地域の独自性を破壊する力を持っている、というわけである。
2.新たな距離の創造
さらに鉄道は、こうしたそれまでの物理的遠近関係を単に壊しただけではなく、あらたな遠近関係へと改変してしまう。古くは都を起点に、近くが畿内で、他方東に隔たっているのが東海道、陸奥はさらに遠く隔たった最果てとされ、江戸時代には、起点が京都から江戸日本橋にかわったが、同様に遠近関係が設定され、東北は依然として「みちのく」だった。ところが、鉄道ができると、当初新橋駅のゼロマイルポスト、後には東京駅のゼロキロポストを起点として、全国土が東京駅からの遠近関係の中に位置づけられることとなったのである。
また、鉄道は地域と地域を新たに結び直したから、それまで遠かった地域、近かった地域が混乱し、時には逆転する。それまでは街道沿いでも、鉄道ができなかった地域、鉄道はできても遠回りになってしまった地域は、うんと遠くになってしまう。また、醒ケ井、関ヶ原、赤坂などは、中仙道の宿場町として京、江戸と結ばれていたはずが、鉄道では東海道本線に組み込まれ、名古屋、豊橋、浜松といった東海道沿いの地域と直結されてしまった。在来の空間的関係を破壊し、新たな空間的関係の間に、諸地域を再配置してしまったというわけである。
3.地形、高低差の破壊
国土空間は本来山あり谷あり、川あり、海ありで、高低差があるから、移動には無数の上り坂、下り坂を越えて行かなければならない。ところが鉄道は自然をねじ伏せるようなすさまじい土木工事を行い(武田、1999)、坂も山も、そして海底さえも、あたかも平準な地形であるかのように貫いてしまう。人、馬が喘ぎながら登るであろう坂も、平坦な土地と同様、息を切らすことも、疲労することもなく、風雨にも妨げられることなく走る。鉄道は人々に、自然の不規則性をねじ伏せる力を見せつけるのである。
峠、川などは、しばしば部落境、藩境などとされ、自分たちと、峠を隔てた向こう側に住む人々とは異質で、アイデンティティ上隔たっていることを示すのに用いられてきた。物理的高さ、低さもまた、たとえば、今日でも身近な上座、下座から、台地上に高くそびえる天守閣と川を隔てた下町低地に密集してつくられた庶民の居住地の例まで、階層の上下を目に見える形で示し、社会の構成と秩序を維持していくために不可欠の要素として利用されてきた。
鉄道は、こうした社会的機能を与えられた自然の障壁を無化してしまったわけで、それは鉄道が、社会の構成自体を揺るがす巨大な力を持っていたことを意味するのである。
4.新たな高低差の創造
JRで一番高い所にある駅としては、長野県の小海線野辺山駅が海抜1345.67mで、旧国鉄時代以来よく知られている。他方一番低いのは、津軽海峡線青函トンネル内の吉岡海底駅で-149.5mである。東京で一番深いのは、2000(平成12)年開業の都営大江戸線六本木駅(地下42.3m)だが、JRでは1990(平成2)年開業の京葉線東京駅(地下29.19m)で、その前も1972(昭和47)年に地下5階にホームが作られた横須賀線、総武本線の東京駅だった。
ところがその東京駅は、海面下にもかかわらず、野辺山駅よりも高い所にある。すなわち、東海道本線も、中央本線も、東京駅に到着するのはすべて上り、発車するのはすべて下りである。新幹線博多行きは下りだが、反対方向に発車する長野、新潟、秋田、新庄、八戸行きも下りである。横須賀線、総武本線、京葉線の場合は、ホームは地下深い海面下であるにもかかわらず、到着する電車はすべて上り、発車する電車は、海面下から地上に向かうにもかかわらず、すべて下りとされているのである。
この上り、下りは、新橋、横浜間開業時にすでに使われていたが、新橋駅、後には東京駅から各地に幹線が伸び、支線が枝分かれし、私鉄、バス、船、ケーブルカー、ロープウエーと接続し、全国津々浦々まで、葉脈のごとくネットワークが形作られた。そしてすべての線区において幹線に、東京駅に近づく列車は上り、反対が下りとされ、鉄路を上り上
りとたどっていけば、中央へ、帝都東京へと上っていく。こうしてすべての列車が上ってきて、下っていく東京駅こそが日本で一番高い駅、とされることとなったのである。
このように鉄道は、一方で地形的高低差を平準化してしまったが、他方で新たに象徴的高さ、低さを作りだし、東京駅、そして帝都東京、さらに宮城、天皇の崇高さを、明示するものとして、機能したのである。
5.人と人の空間関係の改変
人と人の間に存在する物理的空間もまた、文化によって、社会の構成と維持のために利用されてきた。封建社会では、身分の異なるものは物理的距離を隔てることによって身分上の差異を明示されていた。江戸の都市空間においても、大名たちは徳川将軍家との親疎に対応して、江戸城内の御三家から、譜代、外様へと「のの字」型の渦巻状に距離を隔てて配置され、庶民はさらに隔たった外側に住むこととされていた。全国土についても、江戸周辺や要所には譜代が配され、九州、東北などの遠隔地には外様が隔てられていた。そして日常生活でも、座順から路上でのすれ違い方まで、武士と庶民、武士の中でも身分の上下によって、空間的距離を隔てるべきとされていたのである。
ところが鉄道は、都市に誰でも自由に入ることができる駅という空間をもたらした。また乗車券さえ買えば、個性は消え、身分、性別、年齢、職業、住所など一切問われることなく、乗客として、待合室、車内などに空間を占め、移動する権利が平等に保証されることとなった(原田、1998)。
また乗合方式は、異なるムラ、異なる階層の人々など、これまで距離を隔てられ、話すことなど有り得なかった人々が一つの車両に乗り合わせる、未知の人々が空間を共有し話すこと無く見つめ会う、といったこれまでにない空間的経験をもたらした。
これは、人々を身分関係の中にがんじがらめにする封建社会を側面から支えていた空間的秩序を突き崩すものであり、空間という側面からも、新たな未知の人々どうしが相手を互いに人間として認めるという、近代社会における新しい社会関係を生む契機となるものであった。
他方で鉄道では、優等列車と普通列車、車両の等級制、等級による待合室の分離など、新たな空間的分離が導入された。中でも天皇、皇室に関しては、東京駅自体が宮城の玄関として作られ、さらに専用口、専用通路、そしてお召し列車、という別格の空間的分離が導入され、人々を新たな身分関係の秩序の中に封じ込めるものともなったのである。
6.視線の改変
鉄道では、徒歩や馬車といった低速度の旅とは異なった風景の見方が求められた。すなわち鉄道の旅によって人々は、対象と接触することなく、視覚優位で、奥行きが無く、流れるような風景を見る、連続する無関係な風景を次々に短時間のうちに見る、パノラマ的に風景を見る、川の真ん中から川下を見る、といったそれまでありえなかった見方を初めて経験した(佐藤、1994)。
また幕末にアメリカで初めて鉄道に乗った遣米使節団の人々が、車窓の風景が流れてしまい、縞模様にしか見えなかったと記しているように(武田、1999)、風景と親密だった伝統的な旅の知覚をそのまま転用しようとした人々は、負担過重で疲労困憊することとなった(シベルブシュ、1982)。鉄道は、人々に新しい視線を要求し、新しい風景を作りだして見せるという力を示すものだったのである。
7.空間像の改変
さらに鉄道は、人々の頭の中に刻まれた地図ともいうべき、広域の空間に関する認識をも改変する。マラルメは、鉄道によって地方は切符で買えるものとなり、全国土は、駅名という値札の付けられた多様な商品の並ぶ大百貨店と化す、と述べているが、それまで主観的知覚によって実感してきた国土空間が、鉄道によって、測定可能な距離、所要時間、運賃、という数字で把握できる抽象空間、記号化された空間となり、座標系のゼロ点との関係で組織化された一つのまとまった空間として、人々の前に現前するようになったのである。
今日の我々自身を考えてみても、日本の国土空間、あるいは東京の都市空間を思い浮かべる、描く、といった場合、場合によっては輪郭以上に一般的なのが、鉄道路線図である。日本列島を貫いて新幹線が走り、幹線から支線へと、津々浦々に張り巡らされた鉄路は、我々の日本列島像の骨格となっている。また東京郊外に本来漠として広がっているはずの空間も、東急沿線、京成沿線といった地域分類がなされ、さらに沿線イメージも付加されて、明確に分類された地域となる(中村、2003)。そして東京という巨大で複雑な迷路
のような都市空間も、張り巡らされた鉄道網によって、駅名とその順序、乗換駅が描かれた路線図へと図化され、我々の頭の中に刻み込まれているわけで、鉄道は、人々の国土像
から都市像に至るまで、頭の中の地図を改変してしまう力を持っていたのである。
結 論 異文化としての鉄道の象徴的機能
1.明治政府と鉄道の象徴的機能
すべての道はローマへ通じると言われるように、帝国を作り上げた支配者は、どこにでも軍隊がいち早く到達し、物資を容易に運搬し、情報を迅速に伝達できるように、領土全体を睥睨するかのごとく、交通網を作り上げようとする。日本でも朝廷は街道を作り、駅逓制度を設け、全国土を街道にそって五畿七道に分け、都からは街道を通って高級官吏が赴き、逆に貢納物が都に運ばれ、一体の国土であることが示されていた。
これに対して、新たに権力の座についた徳川幕府も、街道を再編成し、江戸日本橋を起点として五街道や、そこから分岐する支道で全国を網羅する街道網を作り上げ、宿駅、飛脚などの制度を整備した。そして参勤交代制で全国の大名に江戸との間を往復させ、それによって、大名行列というきらびやかな、目に見える形で、徳川による全国土の一体的支配と江戸の中心性を人々に見せつけたのである。
さらに、江戸では、江戸城本丸から「のの字形」に御三家、親藩、譜代、外様と、屋敷を順次隔てて配置し、全国土においても、小田原、川越、水戸などの江戸周辺や名古屋など主要都市に御三家や親藩、譜代を配置し、他方外様は九州の辺境へというように、徳川との親疎によって距離を隔てて配置した。東海道五十三次も、華厳経善財童子が53人の善知識を訪ね、最後に普堅菩薩の十大願を聴いて、西方阿弥陀浄土に往生せんと願うにいたるという故事にちなむもので、京都を西方阿弥陀浄土として江戸から隔て、天皇を生きたまま死者の国に閉じ込める仕掛けであるとされる(内藤、1996)。
要するに、街道は、国土の一体化をはかると同時に、物理的距離の遠近を用いて、国土空間とそこに配置された人々の序列、支配、被支配の関係、すなわち封建社会の社会秩序を示すために利用されていたのである。
また人々の生活空間も同様に、都市計画、身分別居住地から家の造り、座順にいたるまで、身分、序列に応じて使い方が定められ、それを象徴的に明示、固定するために用いられていた。そしてこうした権力者によって統制された空間で生活し、街道を移動することによって、人々は空間的秩序とその背後にある封建的社会秩序を体感させられ、いわば頭の中の地図として刻み込まれ、固定されていたのである。
これに対して明治政府は、街道という江戸幕府による遠近関係設定経路を廃し、より明確に東京から地方へ伸びる鉄路という新しい道を設けた。その上を日々走る列車は、大日本帝国の全国土の一体性を示し、東京駅から全国津々浦々へ下り、東京駅へと上ってくる。これは参勤交代の大名行列同様に、目に見える形で、帝都東京の、とりわけすべての列車が上ってくる東京駅の中心性を示し、その東京駅を玄関口とする宮城が、全国土で一番「高い」地点に位置することを象徴的に明示することとなったのである。
さらに鉄道は、国土を葉脈状に覆い、国有化により一つの系となり、日本を抽象的な一つの単位とみなす鉄道網として、国土を統括する中心を析出した。そして、単に個人の視線の用い方を改変させるだけでなく、人々の頭の中の地図をも改変させる力も持つゆえに、鉄道は、国土を帝都東京を中心とした帝国として認識させ、中心とそれに従属する地方とに二分化、序列化された地図を、人々の頭の中に明確に刻み込むメディアとして利用された。異文化としての鉄道は、想像の共同体、抽象的な統一体としての大日本帝国を形作る上で重要な役割を果たしたのである。
3.明治政府が利用した新技術の力
電話を発明したグラハム・ベルは、相手と顔を合わせないで話しをする不道徳な道具を発明したと非難されたし、日本でも、電信はキリシタン、バテレンの魔法として恐れられた。今日でも携帯電話に対して、一部の人々は、単に車内でうるさいから、ということとは違った感情的反感を示している。
われわれは存在するためには、一定の空間を占めることが不可欠であるが、さらに空間は、知覚、認識し、考え、記憶し、伝達する上で、重要である。つまり人もものも、物理
に距離を隔てたものは意味分類上も別のもの、近いものは意味分類上も近いもの、と認識するし、同じであることを明確にするためには、物理的距離を隔てない。そしてこうした空間の使い方、距離のとり方は、それぞれの文化によって統制され、学習され、日々生活していく上で不可欠なものとなっている。
ところが、電話、携帯電話、鉄道といった新技術は、そうした空間、距離関係を改変してしまう力を持つ。電話は本来声が届くはずもない遠い場所の声を耳もとにまで届け、他方で電話がない場所なら、たとえ見えていても声は届かない。車内にいながら携帯電話で話す人は、すぐそばにいる人々とは没交渉でありながら、他方で遠く離れた場所を車内に引き寄せてしまう。そうした空間、遠近関係を破壊するものであるがゆえに、われわれはそうした縮地の術に畏怖、嫌悪を感じる。中でも鉄道は、自然の地形、距離、そして国土の空間像を改変し、空間の用い方を変えて社会的秩序を一変させ、さらには、もっとも基本的な、人々一人一人の視線の用い方、空間の知覚、認識のしかたまでをも変えてしまう強大な力を持った新技術だったのである。
ある文化が人々にとって安定したシステムとして機能している場合、人々はそれを当然と受け止め、その中で、それにしたがって生活していれば、特別考えることなく、日々を安定的に送ることができるから、それを改変し、脅かす新しい外来の文化に対しては、強い畏怖、嫌悪を感じる。それゆえ、明治の人々にも、鉄道という異文化、新技術に対して、当然強い畏怖、嫌悪が生じた、というわけである。
4.異文化の象徴的機能
人は生存を阻害するものに対する対抗手段として文化を作り上げた。しかし自ら作り上げた文化ですべての阻害要因に対抗できるわけではない。そうした場合、文化内部に新たな要素が作り出される文化変化による対応が行われるが、それでも対応できない場合に利用されるのが、異文化という「外なる力」である。
マレビトとしてムラを訪れてくる遊行神や巡礼者は、一方で共同体の外の未知の世界からやって来る畏怖すべきものだったが、他方で不治の病を治してくれる、といった強力な力を持つと信じられてきた。疫病の侵入を防ぐ祇園祭で知られる八坂神社も、日本の神々だけでなく、インドの神である牛頭天王をも祭る。日本の神だけでは防ぎきれない疫病に対抗するために、本来畏怖すべき外来の異文化の神を利用したのであり、畏怖すべきものであるがゆえにこそ、そうした内なる力では持ち得ない、強力な力を持つものと考えられたのである。
異文化として外から入って来た鉄道も、他の異文化同様に、当然多くの人々にとって、既存の秩序を脅かすものととらえられ、畏怖の対象として、嫌悪された。しかし明治政府は、こうした人々を畏怖させる強力な力を持つものであるがゆえに、鉄道を、単なる交通手段にとどまらず、人々の頭の中の地図までも改変し、大日本帝国全国土を一元的に支配することを可能とする強力な象徴的メディアたり得るものと評価し、利用した。こうして異文化としての鉄道は、その後の日本の国家、社会、文化を大きく変化させる結果となったのである。
文 献
荒俣宏、1987、『異都発掘 新東京物語』、集英社
ヴォルター・ベンヤミン、1999、『複製技術時代の芸術』、佐々木基一訳、晶文社
藤森照信、1987、「東京駅 誕生記」、『東京駅の世界』、かのう書房
原武史、2003、『鉄道ひとつばなし』、講談社
原田勝正、1998、『鉄道と近代化』、吉川弘文館
小松和彦、内藤正敏、1985、『鬼がつくった国・日本 歴史を動かしてきた「闇」の力と
は』、光文社
今和次郎、2001、『新版大東京案内』上、筑摩書房
栗本慎一郎、1983、『都市は、発狂する そしてヒトはどこに行くのか』、光文社
松葉一清、1997、『帝都復興せり!「建築の東京」を歩く 1986-1997』、朝日新聞社
永瀬唯、1993、「機械仕掛けの神の峰」、『is』59号、ポーラ文化研究所
内藤昌、1985、『江戸と江戸城』、鹿島出版会
内藤正敏、1996、『魔都江戸の都市計画 徳川将軍家の知られざる野望』、洋泉社
中村良夫、2003、『風景を愉しむ風景を創る 環境美学への道』、日本放送出版協会
日本ダイナースクラブ、2001、『SIGNATURE』2001年3月号、日本ダイナースクラブ
小木新造、前田愛編、1978、『明治大正図誌 東京1』、筑摩書房
岡本仁編、1992、『鉄道唱歌』、野ばら社
奥井智之、1996、『アジールとしての東京 日常の中の聖域』、弘文堂
佐藤健二、1994、『風景の生産・風景の解放 メディアのアルケオロジー』、講談社
ヴォルフガング・シベルブシュ、1982、『鉄道旅行の歴史 十九世紀における空間と時間
の工業化』、加藤二郎訳、法政大学出版局
エドワード・サイデンステッカー、1986、『東京下町山の手 1867-1923』、TBSブリタニ
カ
鈴木博之、1999、『都市へ』日本の近代10、中央公論新社
高田晋、1987、「東京駅物語」、『東京駅の世界』、かのう書房
武田信明、1995、『個室とまなざし 菊富士ホテルから見る「大正」空間』、講談社
武田信明、1999、『三四郎の乗った汽車』、教育出版
田村明、1994、『江戸東京まちづくり物語』、時事通信社
田中聡、1999、『東京妖怪地図』、祥伝社
田中聡、2000、『地図から消えた東京遺産』、祥伝社
山本駿次朗編、1999、『百年前の東京絵図』、小学館
柳田国男、1910、「峠に関する二三の考察」、『太陽』16巻3号、博文館