都市にうつした海−銭湯の都市人類学−
斗鬼正一
2001(平成13)年11月
『東京湾学会誌』1巻5号、東京湾学会
はじめに
銭湯は身体の汚れを落とし、疲れを癒すとともに、コミュニケーションの場としても重要な施設であり続けた。現在も東京23区には約1200の銭湯があるが、東京の銭湯といえば、寺院を思わせる建物と、海を背景にした富士山のペンキ絵である。唐破風の入り口を入ると、三保の松原、由比などの海岸を背景とした海が描かれ、絵の中の海と連続するかのように、本物の水をたたえた大きな湯船が設けられている。そしてその背後には巨大な富士山がそびえているのである。では汚れを落とし、疲れを癒し、人と出会う場になぜ寺院、富士山、そして海なのだろうか。本稿では、銭湯を他界をうつした疑似他界、海、山をうつした疑似自然ととらえて銭湯の文化的意味を考え、さらに文化とは、都市とは、そしてそれを作った人という動物とは何かを考察することとする。
I.東京の銭湯の歴史
1.沐浴から遊楽へ
日本では古来から、神を礼拝、祈願するに際して沐浴し、身体を清める風習があった。この禊は、宮中の御湯殿の儀というような儀礼的な行事の一つとなった。
仏教でも沐浴は仏に仕える者の大切な仕事とされた。「温室教」には沐浴の功徳が説かれ、入浴に必要な七物(燃火、浄水、澡豆、蘇膏、淳灰、楊枝、内衣)を整えると七病を除去し、七福が得られるとされている。仏教の伝来とともに寺院には温浴の設備がつくられ、奈良時代の大寺院では僧侶が穢れを清める禊に湯屋、浴堂、温堂が用いられた。
後には参詣者のために潔斎浴場として大湯屋が設けられた。光明皇后が法華寺浴堂(奈良市)で施浴を行い、病人の体を洗い清めた話はよく知られるが、こうした寺院における施浴によって人々が入浴の快さを経験したことが、日本人の入浴好きの要因となった。
施浴は鎌倉時代に入ってもっとも盛んになった。中でも『吾妻鏡』にある、1192(建久3)年源頼朝が後白河法皇の追福に鎌倉山で行なった100日間の施浴や.幕府が北条政子の供養に行なった長期問の施浴は有名である。
室町時代にも、幕府や寺院による大衆への施浴は「功徳風呂」などと呼ばれて受け継がれた。個人にも広まり、足利義政夫人の日野富子は、毎年未に両親追福の風呂を催し、縁者たちを招待、風呂や食事をふるまった。
このころから、人を招いて遊ぶことを「風呂」というようになり、入浴にさまざまな趣向をこらし、浴後に茶の湯や酒食を提供する「風呂ふるまい」が行われた。庶民でも富裕な者は近隣に風呂を提供したり、薬師堂や観音堂に信者が集まり、風呂に入り、宴を楽しむ風呂講も行なわれた。
こうして大寺院に始まった風呂は、しだいに上流公家、武家などにも取り入れられ、保健衛生目的に加えて遊楽的なものとなっていったのである。
2.江戸の銭湯
日本における銭湯の始まりは、『日蓮御書録』に「湯銭」という文字が登場することから、1266(文永3)年といわれる。『祇園執行日記』にも元享年間(1321-1323)に銭湯があったという記録がある。室町時代には、公家も町湯、町風呂を貸し切って利用したし、室町後期から戦国期には、旅の塵を落とし入洛するために、京の入口等に湯屋があったという。
江戸の銭湯の始まりは明確でないが、記録に残るものでは1614(慶長19)年刊の『慶長見聞録』に、1591(天正19)年頃銭瓶橋(千代田区大手町)の近くで、伊勢与市が初めて銭湯を営業し、永楽銭一文で蒸し風呂に入浴させたので、人々が珍しがって入ったとある。その後各町々に設けられ、慶長年間(1596-1614)には、「町ごとに風呂あり」といわれるほどに広まった。文化年間(1804-18)には江戸中に銭湯が600軒余りといわれ、1810(文化7)年には仲間が営業権擁護を図る湯屋組合が公認された。当時は各戸で湯殿を持つことは希で、保健衛生面からも、また市街地発展のためにも、銭湯の増加が必要だったのである。
当時の風呂は蒸し風呂の一種で、「戸棚風呂」という形式である。三方をはめ板で囲まれた小室の浴槽の底に、膝を浸す程度に湯を入れて下半身を浸し、上半身は湯気で蒸す。湯気の漏れるのを防ぐために、浴室の出入り口の天井から仕切りの羽目板を低く下げる柘榴口が工夫され、その下の隙間をかがんで入った。柘榴口の上には唐破風がついていて、唐獅子牡丹の絵などが描いてあったり、彫り物で飾ったものが多かった。
今日のような首まで湯に浸かる「すえ風呂」ができたのが慶長末ころで、庶民の家庭にも広まっていった。当初は湯を桶に入れる汲み込み式で、後に桶の中に鉄の筒を入れ、下で火をたく「鉄砲風呂」が発明され、江戸で広まった。
江戸時代には内風呂は限定されていたから、銭湯は繁盛し、裸の付き合いができる庶民の憩いの場所だったが、初期には女性をおく「湯女風呂」もあった。普通の営業は夕方で終わり、脱衣場に屏風などを立てて座敷風にし、三味線、小唄などの遊興や売春が行われたのである。大評判になり、吉原を脅かすまでになったが、その後風紀上の理由で禁止された。
この代わりに考えだされたのが「二階風呂」である。不要になった2階を男客の憩いの場として湯茶、菓子の接待をしたり、碁、将棋なども備えたもので、格好の社交、娯楽の場として人気を博したのである。
また江戸の銭湯は入れ込みの湯といわれ、男女混浴の銭湯が多かった。禁令が繰り返し出され、入口、板の間、流し場と徐々に別々になっていったが、浴槽は一つで中央を仕切っただけのものが残り、なかなか改まらなかった。
3.東京の銭湯
明治に入ると、1879(明治12)年衛生上の理由から柘榴口は禁止され、1877(明治10)年頃には鶴沢紋左衛門によって神田連雀町に「改良風呂」が作られた。これは屋根に湯気抜きが作られ、浴槽と板流しを平面にしたりして、洗い場も広く評判になった。後には、湯船の縁を少し高くして、汚れが入らない工夫もされた。
政府は外国人の目を意識して、風紀の管理を強化しようと1869-70(明治2-3)年混浴を禁止、守らぬ業者を営業停止処分にしたり、たびたび通達を出たりしたが改まらず、実際に混浴がなくなったのは、1890(明治23)年、子供でも7歳以上の混浴を禁止する法令が出されて以降のことである。
大正時代には板張りの洗い場や木造の浴槽は姿を消し、タイル張りになった。大正時代の初めには、壁に富士山などの風景を描いたペンキ絵が出現した。また屋根が宮造りになったのは関東大震災後、昭和になってからである。
第二次世界大戦後、1968(昭和43)年には、銭湯数2408と最盛期を迎えたが、内風呂の普及が進んだため1970(昭和45)年ころから減少、毎年40軒近くが廃業という状況に至っている(東京都公衆浴場業生活衛生同業組合、2001)。
II.疑似他界としての銭湯
1.宮造りの歴史
東京で銭湯といえば、まるで寺院のような建築である。白漆喰塗の外壁、軒が多重に構成された瓦葺きで、千鳥破風の大屋根、その下に張り出した玄関は中央が起り、左右が反った形の唐破風、内部は高い格天井、そして高い煙突がそびえるという、豪華かつ霊柩車を思わせるキッチュな建築は、宮造り、唐破風造り、御殿造りなどと呼ばれ、全国的にも東京とその近郊だけの独特なものである。
関東大震災前には他地方同様に町屋造りの地味な建築だったが、震災後、入り口に唐破風、脱衣場の天井が吹き抜けの宮造りが普及した。宮大工の技術を持つ棟梁津村享吉が発案したものが評判となって広がり(町田、2001)、今日でも、東京では銭湯といえば宮造りを思い浮かべるまでに一般化したのである。
2.寺院との類似性
現在も都内には唐破風の銭湯は114軒あるが(東京都公衆浴場業生活衛生同業組合、2001)、初めて見た人は寺院と見間違える。足立区千住元町から江戸東京たてもの園(小金井市)に移築保存され、映画『千と千尋の神隠し』のモデルとなった「子宝湯」のように、煙突さえなければどう見ても寺院という銭湯も多い。銭湯研究で知られる町田忍が研究を始めたのも、オーストラリア人の友人から銭湯がなぜ寺院と似ているのか問われたのがきっかけだという(町田、2001)。
内部も寺院との類似が多い。千住元町の「タカラ湯」には、入り口上に七福神が彫られているが、柴又帝釈天題経寺(葛飾区柴又)と同じ木彫師二世園田正信によるものである(町田、2001)。また天井はしばしば、格子の上に天井板を置いた寺院同様の格天井であり、格子の枠の中には寺院の天井絵を思わせる花鳥風月が描かれている。
3.霊柩車、仏壇との類似性
今日霊柩車といえば地方差はあるものの、おおかたは宮型で唐破風のキッチュなデザインを思い浮かべる。最初の霊柩車が作られたのは1915(大正4)年の大阪であるが、宮型の霊柩車も大阪で1927(昭和2)年以前には作られていたという。この様々な装飾で飾り立てられたデザインは、豪華、壮麗と大衆に歓迎されたが、藤森照信が「銭湯と霊柩車は兄弟かもしれない」というように(藤森、1983)、銭湯、霊柩車、そして仏壇は、唐破風を共通の特徴としている。
4.他界、極楽浄土をうつした銭湯
藤森は、唐破風のデザインは記念碑性と共に、極楽性を意味するという。唐破風は鎌倉時代に始まり、江戸時代には最も格式の高い破風作りとされた豪奢で華やかなデザインで、他界、極楽浄土を表現しているというのである(藤森、1983)。
寺院には墓地があり、人は死後都市空間から寺院に入ることで死者の世界へと移行する。寺院は都市の中に開かれた他界への入り口である。霊柩車は寺院へ、墓地へと向かう他界への乗り物である。また仏壇は、寺院を各家庭にうつしたものである。これらと同様のデザインで建てられた銭湯もまた、他界をうつしたものであり、疑似他界としての銭湯に入ることは、他界、死者の世界への擬似的な接近と言えよう。
5.門前の歓楽街と銭湯
江戸時代、埋立地、新開地には真っ先に寺院が作られ、その周りに町が形作られていったし、人口の郊外移転が進んだ関東大震災後にも、まず寺院に似た銭湯が作られ、その周りに繁華な町ができていった。また浅草寺、回向院などに見られるように、聖空間である寺院の門前は、悪所、歓楽街として、人々の遊楽の場となったが(陣内、1985)、銭湯もまた、それ自体が、人々の遊楽の場として親しまれてきたのである。
III.疑似自然としての銭湯
1.背景画
1)ペンキ絵、タイル絵、ガラス絵
銭湯といえば、浴槽の後ろに描かれた巨大な背景画、いわゆる風呂屋のペンキ絵である。元々は板張りかキャンバスで、現在は防火の為にトタンの上に描く。柘榴口廃止とともにその上にあった装飾の絵、彫刻もなくなったが、入れ替わりに背景画は1912(大正元)年に登場した。東由松経営の「キカイ湯」(千代田区猿楽町)が、増築を機に、静岡県出身の画家川越広四郎に依頼して、流し場周囲の板壁に絵を描いた(町田、2001)。子供に喜ばれるようにとの意図だったが、評判となり、以後一般的になった。現在でも職業として描いている絵師が東京に4人、神奈川に3人おり、巨大な絵2枚を朝から始めて開店前には描き終わるという。
また関東大震災後にさかんに取り入れられ、東京の銭湯の特徴となっているのがタイル絵である。浴槽の上、周囲などのタイルに絵柄を描いたもので、多くが金沢市の鈴栄堂、とりわけ石田庄太郎作の九谷焼である(藤森、2001)。絵柄は風景や鯉、おとぎ話、そしてやはり富士山が多い。また背景画のように大きなものではないが、ガラスの裏に塗料を使って富士山などを描いたガラス絵も、かつてはよく掲げられ、ガラスのモダンさ、色彩の華やかさが人々に受けていた(町田、1994)。
2)自然の風景を写す
背景画、タイル絵などの絵柄には、子供向けのキャラクターものなども見られるが、人物はほとんど登場しない。そこに描かれるのは、富士山を代表とする山々、こがね色の畑、茅葺きの農家、あずまや、清らかな渓谷、滝、そしてうららかな海、白い砂浜などの、自然と日本的な風景である。雪の富士山が冬を、さざ波の海岸は穏やかな春を、森林、山並が新緑の初夏を、入道雲が真夏の日をと、季節感あふれた絵柄でもある。もくもくと湧く雲で風を、渓谷を流れる水で音を、そして磯の匂いなど、自然の音、光、匂いも意識させる。銭湯に見られる絵柄は、いわば日本の自然のうつしなのである。
3)名所をうつす
絵柄には想像上の風景もあるが、多くは日本三景の松島、天の橋立、日本三名園の兼六園、そして三保松原や富士五湖と富士山といった全国的によく知られた名所である。中には富士山と天の橋立の合成、ヨーロッパアルプスなどというのもあるが、銭湯には日本全国の名所がうつされているのである。
4)背景画の海
背景画に水は無くてはならない。富士山などの山が中心の場合も、前景として描かれているのは、ほとんどの場合水、とりわけ海である。富士五湖と富士山、渓流や谷川の奥に雪山、といった図柄も見られるが、何と言っても富士山と三保松原、千本松原や由比の海岸などがもっとも良く知られている代表的図柄である。
2.海をうつす
1)湯船
洗い場の中央に湯船のある場合も多い関西とは異なり、東京の銭湯では、湯船は脱衣場から一番遠い、一番奥の壁ぎわにあり、ちょうどペンキ絵が背景となっている。すなわち背景画に描かれた海の手前に、本物の水をたたえた大きな湯船が横たわっているわけで、洗い場側から見れば、文字通り、海とその遠景としての遠くの海岸、そして富士山、という、いわばパノラマが作られているのである。
さらには背景画の前には太い蛇口があり、湯、水が流れ出る。本物の岩などが置かれ、その中を実際に水を流し、渓流や磯のようにした例もある。
いわば湯船は、背景画に描かれた海とつながった、実際に水をたたえた、海のうつしとなっているのである。
2)海水湯
東京では現在、海水をそのまま湧かしている銭湯はないが、大田区などの臨海部周辺では、淡褐色や黒褐色の黒湯と呼ばれる温泉が古くから銭湯などで利用されている。25℃以下だが、大昔の海水が地中に閉じ込められて出来た化石水で、メタけい酸や炭酸水素塩類(重曹)などが含まれている。
かつて海水を用いていた歴史を残す屋号で現在も営業しているのが、品川区東品川の「海水湯」であり、すでに廃業したものでは、新橋駅前にも「海水湯」があった。1892(明治25)年の『東京名所鑑』によれば、金杉新浜町(港区)には海水を湧かして入る海水温浴があり、有名だったという(陣内、1989)。
都外の例では、群馬県前橋市のスーパー銭湯「ふろ一休」が、毎月1−2回、千葉県鴨川沖から海水をタンクローリーで陸送、タンクで殺菌保存して利用している(スーパー銭湯ふろ一休、2001)。
大阪府堺市の「湊潮湯」の場合は、平安時代の貴族達が熊野詣に行く際、この付近で禊をしてから出かけたという言い伝えがあり、かつては海水を手作業で汲んでいたが、埋め立てでコンビナート化してしまった現在も、沖合2.5キロまで敷設したパイプで汲み上げて、タンクに貯め、濾過して使用しているという(湊潮湯、2001)。
三重県伊勢市は、伊勢参りの人々に風呂を提供したことに始まる銭湯発祥の地といわれ、県内99軒中18軒と現在でも銭湯が多い(三重県公衆浴場業生活衛生同業組合、2001)。「汐湯おかげ風呂舘旭湯」は、二見町の御塩殿から神宮に塩を運ぶ「潮の道」沿いの、勢田川に架かる清浄橋たもとにあり、伊勢参りの人々が禊をした二見浦から満潮時に海水を汲み、毎日2回トラックで運んで湧かしている。銭湯内には夫婦岩のミニチュアも置かれている。さらに江戸に最初の銭湯を開いたとされる伊勢の与市を顕彰した胸像がたてられ、与市風呂夏至祭を開き、二見浦の海水を汲んだ舟が、与市の里帰りを演じながら勢田川を上り、清浄橋で二見太鼓と民謡を踊って出迎え、餅播きなどを行う。夏至の日には、二見浦の夫婦岩で日の出を拝んだ後、汐風呂に入る催しもある(旭湯おかげ風呂舘、2001)。
この他兵庫県西宮市の「大箇温泉」、香川県観音寺市の「永楽温泉」、山口県吉敷郡阿知須町の「塩湯」、大分県宇佐市の「長洲潮湯」、中津市の「汐の湯」などが、現在も海水を用いている。
3.温泉をうつす
1)温泉を用いた銭湯
現在23区内には温泉を用いた施設が大田区24、世田谷区5、港区、台東区、品川区各4、墨田区、目黒区、江戸川区各2、そして新宿区、江東区、渋谷区、中野区、豊島区に各1あり、麻布、白金、西新宿といった都心でも温泉が楽しめる(東京都衛生局、2001)。
2)温泉をうつす
江戸時代、温泉の湯を沸かし直したものを薬湯と称し、徳川家康が1597(慶長2)年に初めて入湯、1604(慶長9)年にも滞在した熱海温泉では、湯を江戸に運び、将軍家へ献上する献湯が行われた例がある。
明治初年には前述の改良風呂が普及していったが、この改良風呂は別名温泉式風呂とも言われ、全国各地の温泉場の湯槽を模したもので、銭湯の温泉化をもたらした。湯は「再生温泉」と呼ばれるもので、原湯を運んで涌かす汲み湯と、湯の花を取り寄せて溶かして使うものの2種があった。また駒込、池上など近郊にできた「新温泉」は、鉱泉の沸し湯であるが、草津、有馬など有名な温泉の名が付けられていた(小木、前田、1978)。
近年も銭湯の生き残り戦略の一環として、各地の温泉の成分を溶かし、東京で草津温泉を味わえる、といった宣伝も行われている。温泉の宅配業者もあり、コインをいれると一定量の温泉が出る温泉スタンドも現在都内に8か所ある。また他県の温泉地からタンクローリーなどで運んできて利用している施設もある。さらには、全国各地の温泉成分を粉末にした温泉入浴剤も市販され、家庭の内風呂でも簡単に温泉を楽しむことができる。
結論
1.汚れ、穢からの離脱の仕掛けとしての銭湯
1)垢、汚れを落とす
人は生活するうちに、垢、フケ、汗などがたまり、悪臭を発するようにもなる。これは動物として自然なことであるが、人は他の動物とは異なり、垢などがついている状態を汚いとし、排除しようとする。そのための最も重要な方法が入浴することである。銭湯は、放っておけば動物と同じ状態になってしまう自らの身体を清潔にし、動物とは異なった、文化によって統制された、人であることを明確にするための仕掛けであるといえよう。
2)穢を祓う
人は生活するうちに様々な穢が蓄積するから、多くの宗教で穢から免れるために清めが行われる。火、煙、香料によるものもあるが、もっとも一般的なのは水によるものである。ヒンドゥー教徒は、ガンジス川を神聖視し、水浴すればすべての罪から免れるとして、1日1回水浴した。ヨルダン川における聖ヨハネによるキリストの洗礼から、洗礼はキリスト教入信の儀式となった。イスラム教でも、沐浴により罪穢から解放されるという。神道の禊も、『古事記』によれば伊耶那岐命(いざなぎのみこと)が妻の伊弉冉(いざなみ)尊を黄泉国に訪ねたのち、その身体についた汚穢(おえ)を祓い清めるために、日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわぎはら)で禊祓をした故事を起源とする。そしてその禊が行われる神聖な場所として選ばれたのが、海や海に通じる川の淵、枝川や池、湖の入り江なのである。仏教でも、入浴の「七病を除き七福を得る」功徳が説かれ、入浴が重視されてきた。そして現代でも、祭、正月、入学試験、卒業式、結婚式といった年中行事、通過儀礼の際の入浴は普通に行われている。
湯の語源は斎(ゆ)であるとも言われるが、斎は神聖であること、清浄であることを意味する。水で身体の汚れを洗い落とすことは、単にそれだけにとどまらず、穢をも清め、祓うことになると考えられているのである。海、川、湖をうつし、湯をたたえた銭湯は、一種の禊の場として、多様な穢を祓うための仕掛けとして用いられているのである。
2 .自然の力を得る仕掛けとしての銭湯
1)いながらにして温泉、海水の医治的効用を得る
温泉浴には、温泉成分による化学的作用、水圧や温度の刺激、浮力による運動効果などの物理的作用、日常生活を離れることによる精神的作用など、多くの医治的効用がある。そのため古くから各地の湯治場が利用されてきた。
海水浴もまた、海水のミネラル成分が浸透することにより細胞が活性化する新陳代謝促進作用、マグネシウムによる自律神経安定作用、ミネラルによる皮膚にたまった老廃物排出作用などが知られ、多くの民族で海水療法として行われてきた。日本でも海水浴が水泳、レクリエーション目的へと変わっていったのは、1917(大正6)年隅田川の汚れで水泳が禁止されたため、水練場が海に移動したことがきっかけであり、『吾妻鏡』に源実朝が病気治療のために海に入った記録があるように、古くから潮浴(しおあみ)、潮湯治が行われてきたのである。
銭湯は、こうした温泉、海を東京にうつし、海、山に行かなくとも、その医治的効用を手に入れる事を可能にした仕掛けである。
2)いながらにして生命力を得る
自然には治癒力があり 森、温泉、そして海などの自然の力が強いところに行くと、癒されると信じられ、そうした場所が聖地とされてきた(荒俣、1997)。
また古代日本では、生命力蘇生の季節である春、自分たちの住む土地を見下ろせる丘陵、小山に登り、歌舞、飲食し、妻問いをし、秋の豊饒を予祝する農耕儀礼である春山入りが行われた(樋口、1981)。山磯遊びは、3月3日の節句に野山や磯に出て遊び祝宴することで、物見遊山の遊山も元は山遊びを指す言葉であった(郡司、1993)。こうした行事は今日の花見の源流となったものであるが、海、山の持つ生命力を、そこに入ることで取り込もうとしたのである。
銭湯は、森や温泉、生命の源たる宇宙山で不死の山とされてきた富士山、そして海を東京にうつし、本来は自然に分け入らない限りは不可能であった自然の生命力を手に入れることを、いながらにして可能にする仕掛けなのである。
3.文化からの離脱の仕掛けとしての銭湯
1)裸になること
人は家族、地域、企業などの中で一定の地位を占め、父として、商店主として、部長としてといった役割が期待されている。また男性として、女性として、子供として、老人としてふさわしい服装から言葉遣いまで決められている。まして身分制度にがんじがらめにされていた江戸の人々にとっては、体面を保たねばならなかった武士も含めて、大変に窮屈な社会だった。そうした性別、年齢、職業、社会的地位、収入などを明示するのが服、髪型、化粧である。
ところが銭湯で入浴することは、まずは裸になることである。化粧も落とし、洗髪すれば髪型も崩れる。大竹誠が「脱衣室で衣服を脱ぐ私たちは、一枚ずつ脱ぐことによって身体がのびやかになっていく・・・あとは生まれたままの姿になって、背景画の前の空間に飛び込むだけだ」(大竹、1994)と述べているように、それは社会の中での地位、役割から離れ、生まれたままの、動物としての一個体に還ることを意味する。銭湯は文字どおり、命の洗濯ができる裸天国を可能にする仕掛けなのである。
2)銭湯と性
吉田集而によれば、ヨーロッパでは風呂は裸体を連想させ、裸体は性を連想させ、そして性は不道徳に結びつくから、風呂はキリスト教の影響で弾圧されたとされる。ところが風呂で売春が行われた古代ローマ、湯女のいた日本では不道徳ではなく、風呂と性は結び付けられていたという(吉田、1995)。現代でも特殊浴場は性と密接に関わっているが、銭湯では性的情報を発信する身体を覆い隠す服を脱ぐことが許され、江戸時代には混浴で、湯女が売春していたのである。
文化は性行動を統制し、人はそれに則った行動を求められる。ところが人も他の動物と同様に性本能を持ち、本来は本能のままに行動するはずの動物であり、行動が統制されることは、動物としての生命力、活力をそがれることにもなる。それゆえ銭湯は、そうした文化による統制からの一時的離脱を可能にするために用意された仕掛けとなっているのである。
4.死と再生の仕掛けとしての銭湯
1)死への接近と疑似他界
現実世界とは別の世界、死後の世界、来世、あの世を指す他界は、垂直方向の天上、地下にあるとするものもあるが、水平方向では、山、遠い地上、そして海に想定される。日本でも山を他界とみなし、霊山を想定して山岳信仰を発達させた。竜神、海神、乙姫などが住むとされる竜宮は、古くは常世と呼ばれ、岩穴の奥、川や淵の底、そして海底、海のかなたにあるといわれてきた。南西諸島ではネリヤ、ニラヤ、沖縄ではニライカナイと呼ばれ、太陽の昇る方角である東の海上に想定されている。
死、他界への接近は、文化にがんじがらめにされた生活からの最大の離脱である。遊園地では、安全保証付きではあるが、墜落、転落、衝突など、死に直結する状況を疑似体験させ、お化け屋敷では死者達の世界を垣間見せる。浅草寺の浅草、回向院の両国、寛永寺の上野山下など、歓楽街は寺院門前に発達する。現在の盛り場も、六本木は寺町で墓地が多く、池袋も雑司が谷霊園、護国寺墓地、豊島ケ岡御陵に隣接し、ラブホテル街は寺院が並ぶ通りにある。新宿には大葬が行われた新宿御苑がある。大阪でも梅田、千日前、新世界という三大盛り場はすべて墓地跡に発達している。また遊郭、色街も同様で、吉原、千住は小塚原刑場や火葬場に、品川は鈴が森刑場に隣接した場所である。
銭湯が現世と他界の境界に位置する寺院を模した建築であることは、銭湯が他界への入り口であることを象徴する。唐破風をくぐって中に入れば富士山が聳え、海が水をたたえ、極楽浄土が表現されているわけで、銭湯とは、いわば疑似的死、疑似他界を体験することを可能にする仕掛けなのである。
2)再生
風呂の起源は恍惚だという吉田集而は、北米インディアンの成人儀礼で、風呂は死と再生、すなわち子供から成人への移行を象徴的に示すために使われていると述べている(吉田、1995)。苦行で倒れたり失神した男は死んだと見なされ、その後小さな真っ暗な風呂に入る。風呂は母の胎内のメタファーで、風呂から出ることは生まれること、再生とみなすのである。
さらに水も、波平恵美子によれば、水杯、洗礼、湯灌、死に水、そして産湯などに見られるように、ある状態から別の状態への移行を順調に行わせる、移行と融合の象徴的意味を持つという(波平、1987)。体を水に触れることによって、俗的状態、汚穢の状態から、聖なる清浄な状態へ、生の状態から死の状態へ、そして胎児から社会的存在へと移行させる力ないし媒介としての意味をもっているのである。
人は年月と共に生命力が衰え、死へと近づいていく。ところが銭湯は、死への過程と共に、水に触れることによって、再び生まれ出ることまでも疑似体験することを可能にする仕掛けとなっている。銭湯の玄関から入ることは、生者の世界から離脱し、他界に入ることを、湯船に入ることは、母胎、羊水に還ることを象徴する。そして再び柘榴口を通って明るい世界に出ること、湯船から上がることは再生を、着衣し、銭湯から出ることは、再び世俗世界へと生まれ変わって戻ってくることを象徴すると考えることができるのである。
5.銭湯から見た文化、都市、そして人
人は自然に対抗して文化を作り出した。ところが他方では、人は自ら作り出した文化にがんじがらめとなり、自然が排除された都市での生活によって活力を失っていく。ところがそうした文化の統制から離脱し、失った活力を取り戻す必要があっても、まったくの自然に還ることはできない。結局都市にうつしという疑似自然を作り、疑似的死と再生を可能にする仕掛けとしての銭湯を初めとした、さらなる文化の仕掛けを作り出すこととなる。銭湯でくつろぐ人々の姿は、自らが自然の一部であることを否定しつつも、しきれず、結局は自然と文化の間を揺れ動く人という動物、そしてその人が作り上げた文化、都市というものの真の姿を示していると言えよう。
文献
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