ラジオ関西『兵庫県高齢者放送大学』
2010年6月12日6時30分−7時00分放送


      男と女の境界線 斗鬼正一   

 

変、差別

 おはようございます。先週もお耳にかかりました、江戸川大学で、文化人類学、を教えております、斗鬼正一です。

 先週は「変と普通の境界線」という、文字通り変な話をさせていただきましたが、実は今週もまた、変な話しからスタートです。

 私斗鬼正一は、男ですが、実は、いつもスカートをはいて、お化粧して、人形が大好きなんです。というのはウソですが、もし本当にそうだったら、皆さんどう思われますか?変な人、ゲッ!気持ち悪い、とうとうあいつも狂ったか、などと、みんなが白い目で見るでしょう。でもこれは一体なぜなんでしょう。

 女子中学生、女子高校生の男言葉も、女の子なのに何ですか、とうるさくいわれますし、ましてや女言葉の男子高校生、となると、変を通り越して、気持ち悪い、といわれてしまいます。

 言葉や服以外にも、女の子の名前が太郎だったら、男の子の名前が花子だったら変、男がしなをつくったら変、女が坊主頭だと変、男の子が赤いランドセルだと変、といった具合に、男らしい、女らしい、が決められていて、外れると、変、気持ち悪い、というレッテルが貼られてしまいます。自分の身体と心の性が一致しない性同一性障害、と言われる人々は、困ったことに、偏見、差別の対象にされてきました。

迷惑ではないのに

 考えてみると、男がスカートをはいたところで、女言葉を使ったところで、法律で禁止されているわけではないし、そもそも誰の迷惑でもなさそうです。ましてや男子小学生のランドセルが赤くても、社会には何の迷惑にもならないような気がします。考えてみれば、変といわれること自体が、実に変な話し、にも思えてきます。

 男がスカートはいて、化粧して、人形が好きだと、いったいなぜ変なのでしょうか?へんなものは変、気持ち悪いものは気持ち悪い、そんなこと常識、当たり前、といえば確かにそうですが、良く考えてみると、実は良くわかりませんね。

社会の仕組みと性別

 私たちの社会は、誰が男、誰が女かが明確になって、初めて成り立ちます。批判的な見方もありますが、実際問題どの民族でも、家事、育児、狩猟、農耕など、分業の第一歩は性別分業です。沖縄のように世俗の王は男、聖職者は女、といった分業もあります。学歴などといったものが存在しない伝統的社会では、何といっても一番分かりやすく、単純に人間を分類できるからです。当然父、母、オジ、オバ、といった親族名称も性別で決められて、父なら子どもにどんなことをして上げなければいけないか、オジなら、オバならどうかなどと、決められています。子どもも、長男、次男、長女、次女などと分類されて、伝統的には長男が跡取りで、日ごろから特別扱いされたりして家を継ぎ、親の面倒を見るとか、関東、東北地方などでは次三男は、家と田畑をもらい、分家として外に出る、といったことが決められていました。そして、こうして決められた通りにしていれば、社会も人々の生活も、問題なく、ちゃんと動いていく、というわけです。

 日常生活でも、たとえば、電車内で隣に立っている人が同性か異性かによって、どの程度接触してもよいか、どの部分が接触してもかまわないか、などと決められていて、その通りにしていれば、問題は起きません。

 ただ、いずれにしろ、こうした仕組みを機能させるためには、誰は男、誰は女と、性別が明確であることが必要なのは、いうまでもありません。

 さらにはそもそも、動物としての人類が存続していく上で、配偶者探しは極めて重要ですが、相手が同性か異性かが確認できなかったら、誰にアプローチするべきかわからないし、せっかくアプローチした後に、同性だとわかった、などということでは、生物としての存続に大変不利です。

自然のままでは境界不明確

 しかし、実際には、日常生活で、誰が男で、誰が女か、なんてことは、わかりきったことに思えます。あの人は男だろうか、女だろうか、などということをあえて考える必要はほとんどないですよね。前を歩いている人、隣に座っている人の性別など、普通は一目瞭然です。

 でも、ちょっと待ってください。顔の一部を隠しても、性別がわかるかどうか、実験してみたらどうでしょう。片側だけ隠すくらいなら、だいたいわかるかもしれませんが、頭を隠す、頭から目まで隠す、と隠す部分を増やせば増やすほど、どんどんわかりにくくなります。鼻だけ見て、おでこだけ見て、などとなると、たいていはわからないです。こんな実験、ご家族やお友達とすると、喧嘩になるといけませんから、有名人の写真など使って、是非やってみてください。結構難しいことがわかると思います。

 男と女は声が違う、というのもあります。でも昔、田中角栄首相と声がそっくりな女詐欺師が、まんまと電話詐欺に成功、なんて例があったくらいで、これも結構怪しいです。そういえば、ドラエモンの声だって女性です。

 顔や声だけではわからなくても、とにかく体は生まれながらに違うじゃないか、となりそうですが、これも実際は必ずしも当てにはなりません。体型は確かに性別で違いますが、個人差も大きく、男勝りの体型の女もいれば、男でも胸が大きな人はいます。年をとるにつれてお年寄りの体型になり、男女差が小さくなります。性器にしたところで、実際には必ずしも明確でない人、両性具有の人もいます。

 たくましいのは男、やさしいのは女、などというのが凄く怪しいことは、誰でも良く知っている通りですが、生物学的にも、生まれたまま、自然のままでは、実は男と女の境界線は、そんなに明確ではないのです。犬や猫なら、優れた嗅覚で、相手の性別を嗅ぎ分けますが、視覚に依存している人間には、意外と難しい、というわけです。

境界明確化の仕掛け

 そこで次に取り上げるのが、アフリカのテソ人です。テソの男は、煙草を、私たちと同じようにくわえて吸いますが、女は、男のようにくわえて吸うことが、タブーとされています。では女はどうやって吸うのか、といいますと、何と、男たちとは逆に、火のついた方を口の中に入れて吸う、ことになっているのです。

これはいったい何のためだと思われますか。そう、男と女で違うマナーを作り出し、それを強制することによって、男と女の境界線を明確にするためです。先ほどお話しした、私たち日本人が、男と女の名前を違えること、男言葉と女言葉を違えること、髪型や服を違えること、ランドセルの色を違えること、などももちろん同じ仕掛けです。様々な仕掛けのおかげで、人の性別が、一瞥しただけですぐわかる、という仕掛けなのです。

同じように、ケニヤのカンバでは、料理や空間が、男と女の境界線を明確にするのに使われます。つまり、焼いたリ灸ったりする調理法は男性的、煮る料理は女性的、ということになっており、獲物を焼く調理は男が家の外で、煮ものは女が家の内でしなければいけない、ということになっています。

 右、左も用いられます。ヌアー人は、右手が男の力、男性的なもの、善、父系親族を表し、左手は女性的なもの、邪悪を表すことになっています。

南米のデサナでは、右側、右手は男性的なもの、幸運、保護、冷たさ、権力を意味し、左側、左手は女性的なもの、不幸、無防備、熱、服従を意味します。

 方位を使う民族もいて、バリ島では山の側と海の側という方位が、吉(きち)と不吉(ふきつ)、聖と邪、生と死、そして、男と女、に結びつけられる、などという例もあります。

ずいぶんいろいろなやり方があるものですが、いずれも、社会が普通に動いていく上でとても重要であるにもかかわらず、自然のままではさほど明確でない男と女の境界線を、文化によって明確にする仕掛け、というわけです。

変とは

 そこで「変」の意味です。こうしてせっかく性別の境界を明確にする仕掛けを作り出したのに、これを曖昧にされ、壊されては困ります。そこでそうした危険なものを排除する仕掛けを用意したのです。それが「変」、「気持ち悪い」というレッテル、烙印というわけです。変、気持ち悪い、という烙印を押すことによって、男と女の境界線を曖昧にしてしまう、例えば、女の子の男言葉、男のスカート姿、などを排除しよう、というわけです。

そういう意味では、やはり男が化粧してスカートをはいて女言葉で話すのも、男の子が赤いランドセルを使うのも、太郎という名の女の子が男言葉で話すのも、法律で禁止されているわけではありませんが、実はある意味、社会の迷惑、ということになります。

文化により異なる

 このような仕組みのおかげで、男と女の境界線が明確化され、社会が、生活が、何事も無く動いていく、というわけですが、こんな仕組み、境界線を決めているのは、それぞれの民族の文化です。ですから、当然のことながら、文化によって異なります。そこで次に、世界の様々な男と女の境界線、を見ていくことにしましょう。

性別分業

 まずは性別分業です。世界中どの民族も、父親といえば男、といいたいところですが、実は、なんと、女が父親になる民族がいるんです。

 ナンディ人は、ケニヤ西部で牛、山羊、羊を育て、稗、トウモロコシを栽培する民族です。このナンディ人の女が、子孫を持ち、先祖としての名を残したい、と思った場合には、自分が「夫」として結納の牛を支払い、「妻」を娶る、ことができます。もちろん生物学的な父親にはなれませんから、「妻」に愛人をあてがって、子どもを生ませます。生まれた子どもは社会的には、「夫」である自分の子ども、とされますから、女ながらに、父系社会の家の主、「夫」、「父」になれる、というわけです。

スーダンのヌアー人も、女が男として結婚します。夫である女は、別の男に頼んで妻に子を産ませ、自分が父になるんです。

シベリアのチュクチ人の場合は逆さまで、男が女として結婚し、身代わりの女に子どもを産ませて、自ら母になります。

性別は3つ

 性別分業は文化が決めてしまう、というわけで、かなり驚きですが、それどころか、性別自体を文化が作り出してしまうと、いう凄い例もあります。

ファカファフィネ

中国の宦官は有名ですが、ポリネシアでは「ファカファフィネ」という「女写し」を意味する「第三の性」、があります。幼少時に選ばれた男の子を「ファカファフィネ」として育てるのです。男は漁業、女は農耕という社会で、彼?でしょうか彼女?でしょうか?は家事を好み、縫い物が得意で、花を飾ったり、香水をつけたりします。男と女の境界線上にいる「ファカファフィネ」には、社会的に認められた特権もあり、普通男と女は人前で話したり手を握ったりできないこの社会で、彼ら彼女らだけは、女といつでも接し、女たちの相談役になったり、女たちを代弁して、男たちをからかったりすることが認められているのです。ただし異性、同性どちらとも性関係は持ちませんから、同性愛とも異なり、いわば「第三の性」というわけです。        

ベルダーシュ

 アメリカの平原インディアンの諸民族には、女装するシャーマン「ベルダーシュ」がいました。ベルダーシュは神からの夢のお告げを受けた男たちで、去勢するわけではなく、日常生活でも髪を伸ばし、女装し、女の役割とされる仕事をして暮らすことが、社会的に認められていたのです。さらには呪術医や呪術師の役割を果たす者もいましたし、部族の会議で彼らの助言が不可欠、というほど高い地位にありました。つまりこの場合も、女になりきろうとした男たち、なのではなく、重要な社会的役割を果たす「独自の性」として認められていたというわけです。その後キリスト教宣教師や政府の干渉で、ほとんど消えてしまいましたが、現在もラコタ人やス一人にはわずかに残り、シャーマン、呪術医、名づけ親、老人、子供の世話役、助言者として、尊敬されているそうです。

ヒジュラ

 現在も数万から数十万人いるといわれるインドの「ヒジュラ」は、「両性具有者」という意味ですが、生まれつきの人と、手術による“元”男たち、がいます。  

 女装し、髪を伸ばし、アクセサリーを身につけて、入念な化粧を施し、シヴァ神や母なる女神と同一化した存在として、誕生、結婚などの儀礼で歌舞音曲による祝福を与える聖なる芸能者、という重要な役割を与えられています。

 人々はヒジュラを女だとはみなしておらず、ヒジュラ自身も自分たちが女だとは認識していません。これもまた「第三の性」というわけです。

チャラバイ

 もう十分驚かれたとは思いますが、まだまだあります。インドネシア・南スラウェシのブギス人の「チャラバイ」は、「偽りの女]、という意昧で、女装し、女言葉で、女のようなしぐさで振る舞います。“彼女たち”はしばしば、結婚式ビジネスに携わり、客をもてなす料理の準備、披露宴を盛り上げる歌謡、舞踊ショーを繰り広げます。

 ところがチャラバイは、チャラバイをやめて、男として女と結婚すること、も認められているのです。つまり男と女が簡単に入れ替わってしまうわけで、越えてはいけないはずの、男と女の間の一線を、いとも簡単に越えてしまう、という人々なのです。

男らしさ女らしさ

 性別すら文化が決めてしまう、というのですから驚きですが、さらにはアメリカの文化人類学者マーガレット・ミードは、男らしさ、女らしさも、文化によって決められる、という例を紹介しています。

 まずはパプアニューギニアのアラペシュ人です。男も女も温和で物静か、人と争うことを絶対にしないし、競争も非常に嫌がる民族ですので、アメリカ人のミードや、我々日本人の目で見ても、男も女も女性的な人々、ということになります。

 近くに住むムンドグモル人の場合は逆さまで、男女ともに男性的、という民族です。男は首狩が大好きで、武勇と腕力があることが大事とされ、厳しく訓練され、勇敢で、芯の強い男になります。他方の女ですが、農耕や漁など生産活動に従事して生活を支えています。ですから、女の子だからと優しくされることもなく、他人からぶたれればぶち返す、というほど攻撃的なのです。男も女も男性的な人々、ということになります。

やはり近くのチャンブリ人は、女が漁業などに従事して生計を支えていますが、男に期待されているのは、お面を描き、彫刻し、籠を編み、踊り、優れた芸術家になることです。ですから、肉体労働に携わる女は、はなはだ逞しいのに対し、男はおとなしく、経済的に女に依存して、引け目を感じています。そのためか、大の男も、何か言われるとすぐ傷つき、ヒステリーを起こします。私たちのステレオタイプとは、男と女が逆さま、という民族ですね。

さらには、ニューギニア北東のアドミラルティ諸島の一つ、マヌス島では、農作業は女の仕事で、一日中働きづめです。立てるようになった子どもの育児も、料理も、男の仕事なのですが、この島の女の子は人形に興味を持たず、人形遊びが好きなのは、男の子だったそうです。

結論

本当に世界には色々な民族がいるものですね。でも、こういう民族が変てこりんに見えるのも、私たちが自分達の文化を基準にして見ているからで、逆に彼らから見れば、日本人の方が変てこりん、ということになります。絶対的に変てこりん、というものがあるわけではありません。

男と女という一見生物学的な境界線も、それを明確化する仕掛けも、実は文化によって様々に決められていて、その決め方が様々、というだけのことです。実際男のスカートが変、といっても、スコットランドでは男がスカートを普通にはいています。さらには同じ民族でも、時代と共に文化はどんどん変わっていきます。男らしさも、女らしさも、時代と共に変わるのです。

つまり、二つの性だけが普通、それ以外は変、男は絶対にこうでなければ変、などと単純に決め付けるのは、一面的な見方に過ぎない、ということになりますし、そうした見方は、偏見と差別、さらには世界中に民族間の対立を作り出しかねないのです。

このように考えてくると、女の子らしくない駄目な子、男の子らしくない変な子、といわれて悩んでいる子ども達も、男らしくない草食系、と馬鹿にされている若者達も、実はそんなに深刻に考えることはないのではないでしょうか。

みなさんも、今度私が、ニジェールの遊牧民ウオーダベ人の男のように、化粧に熱中して、「私きれい?」と女達に媚を売り、スカート姿でテレビに出ても、どうぞ変、気持ち悪い、などとお笑いにならないでください。