野蛮だ! と犬好きは頭に血が上るだろう。確かに、あの愛らしいCMスター・チワワの「くぅ〜ちゃん」を食っちゃうなんて、想像しただけで吐き気がする。犬を食ってはいけないなんて当たり前だ。
 しかし頭を冷やして考えてみれば、犬肉と知らずに食べたら吐き気などしないし、そもそも犬肉だなんて見てわかるはずもない。実際、犬、猫どころか、ヘビ、カメ、ヤモリ、サソリ、ムカデ、ウジ虫、アリ、セミと「ゲテモノ食い」民族はテレビでおなじみだし、信州人だって、カイコ、イナゴ、ハチの子、ザザ虫と、何でもありだ。いやそれどころか、人食いでさえ歴史上いくらもあったのだ。
 インセスト(近親相姦)だって嫌悪するのは当たり前、本能だ、と言われそうだが、ここでも頭を冷やして考えてみれば、同姓不婚が伝統の韓民族なら、イトコと結婚するなんて野蛮だ! と頭に血が上るだろうし、生き別れた兄妹が二十年ぶりに出会って互いにわかるはずもない。罪の意識に恐れおののくのは、わかってしまった後のことだ。
 つまりは、ペット食タブーも、インセストタブーも、汚らわしくて書くに書けない獣姦タブーなんてものも、みんな作られたものなのだが、では一体何のために? と考えてみると、当たり前過ぎて見当がつかない。
 こんなタブーという当たり前を、快刀乱麻を断つごとく、種明かししてくれるのが本書なのだ。
 それは、人はカオス(混沌)の中では生きていけない、という大前提から始まる。それゆえ人はコスモス(秩序)を作り出す。たとえば、横に一本線を引けば上下の別が生じ、秩序が生み出される。ただし、その境界線自体は双方に属し属さずの矛盾した存在で、秩序の割れ目にできた、異界を覗かせる新たなカオスとなる。
 そこで作り出された仕掛けこそがタブーであり、コスモスを崩壊させる危険を秘めた境界的存在に、ケガレたものとレッテルを貼り、強い禁忌の対象として制圧しようとする、というのだ。
 たとえば人は、自己と他者という分類が不明確、などというカオスの中では生きていけない。ところが実際は、一親等、二親等……と広がる中で、どこまでが自己、どこからが他者なのか、そんなに明確なわけではない。とりわけ一卵性双生児となったら、かなり首をひねるだろう。
 それゆえ曖昧化の元凶たる境界的存在、つまり近親者をインセストタブーの対象とした、というわけなのだ。
 人と動物の区分だって、そんなに自明ではない。人も動物だし、チンパンジーを殺したら殺人だ、という霊長類学者もいるほどだが、この分類も明確化しないと大変困る。そこで人とともに暮らす動物、とりわけペットが境界的存在というわけで、食べてはいけないし、食べることと類似した獣姦などという行為はケガラワシイ、と強いタブーの対象にされたのだ。
 つまりタブーとは、コスモスとしての社会秩序を構築し、維持するために作られた文化的仕掛けというわけだが、こうしたコスモスも、段々と気が枯れ、エントロピーが増大してくるから、再活性化の仕掛けも用意されているという。
 歌垣の乱交、王によるインセスト、そして儀礼的人食い、といった狂宴がそれで、人食いも、死者が此岸(しがん)、彼岸の境界にある時に、あえて最強のタブーを犯すことによって、聖なる力を取り込む聖餐だという。コスモス以前に回帰することによって、恐るべきカオスの深淵から、始原のエネルギーを取り入れる仕掛けというわけなのだ。
 こうした種明かしは、世の中ほとんど当たり前、で過ごしてしまう我々に、当たり前にもちゃんと理由があり、社会、生活というものはこうして成り立っているのだと、深く納得させ、知的好奇心と探求心の大切さ、面白さを、知的感動とともに教えてくれる。
 そして「くぅ〜ちゃん」たちにドレスを着せ、グルメ缶を食べさせて「人間もどき」にしてしまう現代社会、合理主義の旗のもと、祭りの狂宴もインセストも、ペット食いも人食いも、聖餐どころか単なる異常として、カオスを排除するばかりの現代社会に、いったい「どうする?」と、重い問いをも投げかける。
 年中食べられる真空パック餅という便利さは、正月というけじめを不明確にしてしまった。やはり餅は正月以外に食っちゃいけない。そしてやはり「くぅ〜ちゃん」も食っちゃいけないのだ。
 
 山内昶著『ヒトはなぜペットを食べないか』(文藝春秋社)書評



文藝春秋 『本の話』 2005年5月号掲載
くぅ〜ちゃん」を食っちゃうなんて