日立グループ従業員向け情報誌“NANNOKI”第2号、2003年秋、日立製作所

                     この日何の日、気になる日           

                                
                                     斗鬼 正一

 朝食がすき焼き、夕食にトーストというのは変だ。元旦にカップラーメンをすすって大掃除したり、平日の朝からお節料理で酒を飲んで寝ていたら、もっとおかしい。

 ヒトも動物だから、本来空腹ならいつでも何でも食べ、眠ければいつでも眠りたい。ところが私たちの生活は、体内時計とは無縁に、何月何日、何曜日、平日、休日、朝、昼、晩、何時何分何秒などと、決められた時間の中で、いつ働き、いつ休み、いつ眠り、おまけに朝食には、元旦には、何を食べるべきかまで決められてしまっている。この日何の日、何する日、と私たちの生活を一々束縛している厄介者が暦なのだ。

 ところが、私たちはそうした厄介者の正体を、改めて考えるなどということはほとんどない。一年は四季で、春になったから梅が咲く、と当たり前のように思っている。しかしちょっと考えてみれば、本来、自然界に春などというものが存在するわけではない、ということに気づくだろう。様々な自然現象の中で、梅が咲く、鴬がさえずる、といった特定の現象をものさしにして、一年を区切り、春と名付けたにすぎないのだ。

 だから、別に四季でなくてもいいわけで、実際ニューギニアのワロモ人の暦では九季あり、その時期にとれる魚や用いる漁法が季節の名前になっている。おまけに一年には九季の後の空白期、つまり魚がとれない休みの時期も含まれている。漁に生きる人々にとって、魚の到来こそが重要だから、それに則って区切っている、というわけだ。

 一年、一か月、一日などというのも様々で、台湾のブヌン人は、新月の期間を月の日数に数えないし、カリマンタンのダヤク人は、月の日数の経過自体を数えない。一年の始まりも、夏至だったり冬至だったり、一日の始まりが、日の出だったり日没だったりと、様々なのだ。

 暦の中でも、とりわけ自然現象とかかわりなく、人工的に作られたのが週だ。現在一般的な七日週は、旧約聖書創世記に、神が六日間で天地を創造し、七日目に休んだとあることから、ユダヤ人が七日目を安息日とした週を用いるようになり、ローマ暦のなかで確立された。天体の名がつけられたのはエジプトの占星術によるもので、さらに雷神Thor(トール)が木曜日になったように、ローマ神の一部が北欧神話の神々に置き換えられて、現在の曜日名になった。

 日本の場合も、中国から空海が持ってきた宿曜暦によって伝わり、京暦には十七世紀から記載されてはいたが、占いに用いられただけで、一八七六年になって明治政府が日曜休暇、土曜半日休暇と定めた、というくらい新しい。

 だから元々、今日は世界中が日曜日などということはないし、七日以外にも様々な週がある。ナイジェリアのヨルバ人は定期市の周期と連動した四日だし、ジャワは五日、古代アッシリアは六日、古代ローマは八日、古代エジプトでは十日だった。バリ島のウク暦の場合には、十日週から最短の一日週まで、何と周期の異なる十種類の週が同時に進行する。そしてある日は、三種の週の曜日名を並べて表現され、その組み合わせごとに、何をするべき日か、何をしてはいけない日かが決められているという。

 要するに、暦などというものは、永遠に流れる時を、諸民族が様々に切り分けて作りあげたものにすぎず、絶対的なものでも何でもない。ところが、人は自ら作り出したはずの暦に生活を束縛され、当たり前という枠組みの中に閉じ込められて、自ら窒息してしまうのだ。

 こうなると、いったいなぜこんなものを作ったのだろう、という気もするが、ここでもちょっと考えてみれば、私たちは、区切りの無い時が永遠に流れ、いつ、何をしてもよい、という無限の選択の可能性の中では生きていけない、ということに気づくだろう。暦は時を区切り、この日何の日、何する日、と決めてくれている、そして、その通りにしていれば立派に社会生活が営める、という仕掛けなのだ。

 さらに暦は、日常、つまり「ケ」の日々に対して、非日常の「ハレ」の日をも用意してくれている。「ケ」は「気」とも書くように、活力、生命力のことで、身支度し、通勤し、勉強し、と決まりきったことの繰り返しである日常生活の中で、だんだんと渇れてくる。それを再び蘇らせるために作り出されたのが、盆、正月、祭、そして一番身近な花金、土日といった、「ハレ」の日なのだ。日々の仕事を忘れ、精神を高揚させ、「ハレ」やかな気分で満たす「ハレ」の日という仕掛けこそが、私たちに活力を取り戻させてくれるのだ。

 世界を見渡してみれば、ニューギニアのバクタマン人のように、暦というものを持たない民族もいるし、暦どころか、そもそも抽象的尺度としての時間概念自体を持たない民族だっている。そして無論、動物たちには暦など無縁だ。しかしヒトの体内時計を無視し、私たちを束縛する厄介者も、実は結構うまくできている。上手に働き、上手に休んで自分を取り戻すための仕掛けなのだ。だから当たり前で済まさずに、正体を知って、自分らしく生きるためにうまく使えばいい。絶対的でも何でもないのだから、もっと主体的に、自分の、家族の暦、「ハレ」の日を作ったっていい。

ただし忘れてはいけないのは、休みという「ハレ」舞台には演出が必要なことだ。ユダヤ人の安息日は労働禁止で、町中休業、厳密にはテレビのスイッチを入れてもいけない。だから私たちも、たとえば、お節料理は元旦に、ホームパーティーは週末を待ってからと、この日が何の日かを考えて気になる日を演じなければならないのだ。