神の国ニッポン    斗鬼正一

学生たちの発見ノートには、びっくり体験が多数記録されている。たとえば、スーパーマーケットのレジ係が、座ったまま客に応対するのに驚いた、タクシーの客が助手席に座るのに驚いた、バスの乗客が運転手にThank youとお礼を言うのに驚いた、そして家族の団欒を大事にするから、夜の街には人気(ひとけ)が無いのに驚いた、といったものである。

日本では、少子化が進み、子供たちは、両親、祖父母に取り囲まれ、何不自由なく暮らせるよう、手取り足取り世話される。デパートでは、たとえ5歳、6歳の子供でも、「お子様」と様付けで呼ばれ、 年配の店員が最敬礼で迎えたりする。デパートはさらに近年、祖父母が孫に、良くぞかわいく生まれてきて、自分たちを喜ばせてくれたと、感謝の気持ちを表せ、ということで、「孫の日」などというものまで作り出されている。日本の子供たちは、いわば大勢の家来にかしずかれた小皇帝のようなものだ。それゆえ、皇帝たるせりふ子供たちは、相手の気持ちなど考えず、自分たちの望むところは、何でも要求でき、実現されるのが当然、と思うようになる。

これは大人になっても同様で、「お客様は神様です」という有名なせりふがあるように、消費者、金を払う人は、少なくとも貴族扱いされる。ガソリンスタンドに入れば、大勢の店員が並んで最敬礼で迎え、良く洗った布を何度も取り替えて窓を拭き、吸殻やごみ捨ての心配までしてくれて、帰りは帰りで他の車を止めてまで出発の道を確保し、最敬礼で送りだしてくれるのである。他方店員が声をかけても、多くの「お客様」は無言。これは何しろ神様なのだから、返事などしなくて当然なのだ。

江戸川大学が学生をニュージーランドに送り出してきている大きな理由は、言うまでもなく、英語でのコミュニケーション能力を高めるためである。ただし、言葉が話せればコミュニケーションが成り立つというものではない。コミュニケーションは相手あってこそ成り立つものであり、発信だけでなく、相手の気持ちを受信する能力が不可欠である。それゆえ学ぶべきは、単なる英語力ではなく、受信能力、すなわち相手の気持ちを思いやる能力なのだ。しかし日本は「小皇帝」と「神様」の社会だから、そうした能力を養うにはまったく向いていないのである。

他方ニュージーランドでは、人々は誰にでも気軽に話しかけ、見知らぬ人にも挨拶し、日本では絶滅の危機に瀕している家族の団欒を大事にしている。そのような人々との出会いは、学生たちに語学を学ぶ機会を与えるだけでなく、学生たち自身の生活、社会を考え直す機会をも与えてくれる。この意味ではニュージーランドは、最良の教師の国、といえよう。