ラジオ関西 『兵庫県高齢者放送大学』 
2010年6月5日6時30分−7時00分放送

変と普通の境界線 斗鬼正一  

 

 おはようございます。文化人類学者、江戸川大学の斗鬼正一と申します。

 今日は65日ですが、どなたかお節料理を召しあがった方はおられるでしょうか?無論おられないでしょう。元旦にはカップラーメンとか、朝食は鍋料理、夕食はトーストだった、という方もおられないでしょう。

 でもなぜですか?別に禁止されているわけでもないし、伊達巻大好き、お屠蘇大好きなら、毎日でもよさそうなものですが・・。それに、夕食にトーストを食べたところで、誰の迷惑にもならなそうですよね。でも召し上がらなかったのは、「普通」じゃない、「変」だからですね。

 同じように、オフィスにスーツ姿は普通ですが、その普通のはずのスーツ姿が、プールサイドや海水浴場だったら変です。海岸なら普通のはずの水着姿の人が、オフィスにいたら、ものすごく変ですね。

 便器がトイレに置いてあったら、普通ですが、路上に置いてあったら、変です。まして植木鉢代わりに、盆栽が植えてあったら、もっと変です。植木鉢も、庭に盆栽を植えて置かれていたら、普通ですが、トイレに置かれて、便器になっていたら、やはり変です。

 その盆栽ですが、大好きなのがおじいちゃんではなくて、幼稚園児の孫だったら、やはりちょっと変です。

 まして、その幼稚園児が、大学の教室で、深夜に、水着姿で、盆栽いじりをしていたら、ちょっとした事件です。

 でも、なぜでしょう?変なものはヘンだから変、そんなことは当たり前、といえば当たり前。当たり前すぎて、なぜ変なのか、なんて考えることもないですね。そもそも、考えたところで、プールサイドのスーツ姿は非常識、場違いだから、くらいしか思いつかないです。そんな当たり前なことはどうでもいい、考える意味なんかない、と思われるかもしれません。

 でもちょっと待ってください。そんな当たり前を、ちょっと裏に回って考えてみると、実は、私たちの社会というのが、私たちの生活というのが、どんな仕組みで組み立てられ、動いているのか、当たり前すぎて見えない仕掛けが見えてくるのです。

 そこで今日は皆さんを、そんな当たり前から見る人間探検の旅にご案内しようと思っています。

まずは時に関する変、そして、それを通りこして、タブーにまでなっている例、を見ていきましょう。

昼間は寝ていて、夜に掃除や洗濯をすると、変ですね。でも、髪を梳(す)くとなると、変どころではありません。昼間髪を梳くのは普通ですが、夜に髪を梳くと、縁起が悪い、タブーだ、という地方があったのです。朝コケコッコーと時を告げるはずの鶏だって、地方によっては、うっかり夜に鳴くと大変です。災いがある、と恐れられたのです。昼に爪を切るのは普通ですが、夜に爪を切ることがタブー、という地方もありました。早死にする、親の死に目に会えない、病人が出る、火事になる、犬の爪になる、狐に化かされる、などというのですから、恐ろしいことです。親の死に目といえば、夜、靴下を履いて寝ると、親の死に目にあえない、というのもありました。

 これには、夜に爪を切ると、暗いので怪我や深爪の危険性があるとか、夜爪が世を詰める、余(あまり)を詰めるに通じるから、早死にしたり親の死に目に会えないとか、夜爪を切ると、鬼を刺激して災いをもたらす、などという説明がついたりします。靴下を履いて寝るというのも、死者には足袋を履かせて入棺したため、縁起が悪いのだ、ともいいます。まあただの迷信ですが、注目していただきたいのは、みんな普通昼間にすることを夜にする、あるいは、朝に起こることが夜起こる、という例です。つまり昼と夜という、時の分類を犯す、逆転させる、という共通性があることに気づくでしょう。

黄昏時 

 そこで黄昏時です。黄昏時は、まさに昼と夜という分類の境界線上ですが、様々なタブーに包まれた、恐ろしい時、とされてきました。

 黄昏時には、新しい着物や靴を下ろしてはいけないとか、土佐では、黄昏時は外の光と灯火の光との二つのあかりがありますが、これをフタアカリといい、フタアカリで衣を裁つことはタブー、とされていました。

さらに黄昏時は、「魔物に出逢う」と書いて、逢魔時(おおまがとき)などと呼ばれ、不気味な時とされてきました。黄昏時の村の辻は、辻斬り、妖怪が出現する魔所でしたし、親たちは、黄昏時に子どもが外で遊ぶことを大変心配しました。兵庫県でも、魔物が通るから早く家に帰れ、と言いましたし、子供達も、ヒトサライに対する恐怖感を持っていたそうです。信州でも、黄昏時は、フクロカツギという大きな袋を持って歩く化物が子どもをつかまえに来る、といいましたし、コトリという人さらいが出て、捕まるとサーカスに売り飛ばされてしまうから、早めに家に帰るように、などと言われたそうです。

宵、暁

 宵(よい)と暁(あかつき)の薄明りのころも同じで、井上靖が『幼き日のこと』、の中で、まだ夜が明けきらない暁闇(あかつきやみ)の時刻には、「前生(ぜんせ)の暗さのようなものが、あたりには生臭く漂っている」と書いているように、不気味な時間とされていました。

 柳田國男も、お化けが出現するのに都合の良い時間は、宵と暁の薄明りのころだ、と書いています。そういえば、万一、幽霊、妖怪が白昼に出るとしても、必ず周囲がうす暗くなりますね。

超自然力

まさに境界的時間が、タブーの恐ろしい時間とされているのですが、境界的時間は、ただ恐ろしいだけじゃありません。人間の思うに任せない世の行く末を、超自然的力に接触することで占うのに最適なのも、黄昏時なのです。

 たとえば、東大阪市の瓢箪山稲荷神社の辻占(つじうら)です。ここでは、街道に面した「巫女の辻」に立って、最初に通った人の語った言葉や姿、性別、年齢、持ち物、連れの有無などを、瓢箪山稲荷の宮司に報告し、占ってもらうのですが、その時間は黄昏時なのです。 

黄昏時は、神や妖怪の世界、異界とのコミュニケーション、という特別なことが可能となる特殊な時と考えられてきたのです。

他民族

黄昏時を魔性(ましょう)と結びつけるのは日本だけではありません。

 バリ島では、黄昏時のことを「チャンディーカラ」といいますが、非常に危険な悪霊、という意味です。黄昏時は、「カラ」という悪霊が地上をさまよい歩き、人を呪うための呪力も強力になるといいます。人びとは悪霊が災いを与えぬように供物を与え、外に出ている者は皆急いで帰宅し、子どもを家に入れます。

バリ島の伝説中の巨人「シウルク」も、強い呪力を持ち、不死身なのですが、そのシウルクも、魔力の溢れる黄昏時には、不死身でなくなり、殺されるといいます。

 マレー地方でも、黄昏時は、あらゆる種類の悪霊が一番威力をふるう時であると信じられていて、子どもたちを家に呼び戻し、女性たちは悪霊払いのために、悪霊が嫌う悪臭を放つ木の根を噛みました。

季節、年の境界線にやってくる神の力

 こんなにまで昼夜の境界線は重大な特殊な時とされている、というわけですが、季節や年の境界線も同じです。

 日本では、一年で最初に雷が鳴った時に節分の豆を食べると難を逃れる、と言われましたが、そもそも呪力があるとされる豆をまく節分というのもまた、冬と春の境界的な時間です。

 冬至にはかぼちゃを食べると長生きする、などとも言いますが、冬至も実は、かつて中国で、年と年の境界線とされていました。

 インドネシアのバリ島の南東にあるヌサープユダ島には、疫病や災いをふりまく恐ろしい神ラトウーグデームチャリンが出現します。これは、口寄せ、占い、病気治療などを行なう巫女の祀る社の中などに像がおかれていて、人助けの力も合わせ持つ強い神なのですが、この神が出現するのも、乾季と雨季の境界線に当たる10月から12月、だといいます。

 いずれにしろ、境界的な時間とは、特別な力が発生し、それを得ることが可能な特別な時とされている、というわけです。

 

空間の変

 次は、空間に関する変です。

 電車内での化粧は、化粧品をこぼしたりしない限り、特別迷惑ではなさそうですが、変だ、とよくいわれます。人の家や部屋に入るのには、戸口で、失礼します、などというべき、ということになっていて、無言では変ですし、帽子をかぶったまま、コートを着たまま入ったら、やはり、特に迷惑なわけではありませんが、変です。

 これは実際に台湾であったのですが、トイレで結婚式をした、などという人がいると、日本でもニュースになるくらい、すごく変、ということになります。トイレといえば、隠れたファンも多そうなトイレでの読書、これもバレると、かなり変な目で見られますよね。

 いずれにしろ、化粧という家の中でやるべきことを外でするとか、式場ですべきことをトイレでするとか、空間の分類の境界線を犯す、破壊するようなことが、変とされている、というわけです。

タブー

 変を通りこして、タブーになっているのも、いろいろあります。

 門や、部屋の内外を隔てる建具の敷居、畳のヘリを踏んではいけない、畳の上で履物を履いて外に出てはいけない、などというのは、結構知られていますね。家への出入りの際も、玄関でなく、縁側から直接外に出てはいけない、という地方もあります。

 さらに内井戸といって、家の中に井戸があると病が絶えない、という地方もあります。こんなことが誰かの、何かの迷惑になるとは到底思えないようなことばかりなのですが、ここでも、内、外の境界線を曖昧にするものがタブーとされている、ということがわかります。

上下

 上と下の境界線についてもいろんなタブーがあります。

 昔の日本では、枕の上に座ったり、食卓に乗ったりしても怒られましたが、飯櫃に座るなどとんでもないことでした。今はその辺の躾はあやしいかもしれませんが、1990年代に流行した、地べたに直接座り込む「ジベタリアン」も、だらしがない、変な若者だと白眼視され、やがて消えてしまいました。

 ハワイの伝統文化でも、食物の容器を、歩いたり、腰をかけたりした物で覆ってはいけないし、枕の上に座ったり、足をかけたりしてもいけません。そんな人々にとって、白人たちが寝る時に、同じシーツを下に敷いたり、上にかけたりするのは、ものすごく変に見えたのです。上に属するものを下に、下に属するものを上にするなんてとんでもない、というわけです。そんなハワイ人が、下半身につける腰巻を、上半身の首に巻きつける、ということをわざわざしたのは、酋長の葬式の時だけなのです。

 また、酋長はおんぶされて移動しなければならず、決して足を地面につけてはいけない、などという民族もいますが、ミクロネシアのヤップ島では、酋長のものを運ぶ時は、肩より下で運んではいけない、とされています。

境界的空間の魔性

 そのくらい空間の境界線は重大なものとされてきた、というわけですが、境界的な空間はさらに、神秘性や魔性(ましょう)とも結びつけられてきました。

 通り魔が出るのは、四つ辻、橋のたもと、橋の上が多い、といいますが、人に取り憑く憑きものの動物が現れやすいのも、三つ辻とか四つ辻です。

 江戸の七不思議も水辺、とりわけ橋に多くなっています。本所の七不思議には、有名な「おいてけ堀」の他に、葉が一方だけしか生えない「片葉の葦」がありますが、これも駒留橋の下に生えます。千住七不思議にも「千住大橋と大亀、大緋鯉」、八丁堀七不思議にも「地獄の中の地蔵橋」があります。

 あの淀橋というのは、実は東京の新宿区、中野区の境、神田川に架かる橋の名前ですが、中野長者という大金持ちが、財産を密かに埋めさせた下男を、秘密が漏れないよう川に投げ込んだところ、その祟りで娘が蛇になってしまったという橋です。

 鬼や化け物が出没する百鬼夜行で知られる京都の一条戻り橋は、今も婚礼の際に通ることはタブーとされています。ここは他界との境界で、死者に出逢えるとされ、橋占といって、願い事や吉凶を占うことができる特別な場でもありました。

外国の例でも、バリ島では祭儀、祭りの際に悪い鬼への供え物をする場所は十字路です。境界的空間である十字路こそ、鬼とのコミュニケーションが可能となる空間とされています。

海の場合も同じで、浅草の観音様を初め、海から引き揚げられた、漂着した、という神、仏の言い伝えはたくさんありますし、流木やドザエモンも神聖視されます。海から上がってくるウミガメも、占いに用いられました。海の彼方から境界線を越えてやってくるものは特殊な霊力を持つ、というわけです。

なぜ変は変?

こうしてみてきますと、時間も空間も、なぜか境界線が特別な、重大なものとされ、それを曖昧にするものが変、タブーとされていることが分かります。そこで次に、それは一体なぜなのかを考えていきましょう。

 私たちは当たり前のように、今日は日曜日だから休むとか、元旦だからおめでたい、仕事を休んで祝う、などと思っていますが、そもそもなぜ正月がおめでたいのでしょう。自然界に日曜日とか、元旦とか、2010年などというものはありません。もちろん「おめでたい」などというものも存在しません。ただ永遠に時が流れ続けるだけです。つまり、時の境界線は、自然界にはほとんど存在しないのです。

人は無限の時の流れの中には生きられない

 ところが人という生き物は、永遠の時の流れの中では生きられない動物です。変化を求めます。来る日も来る年もずーと同じ、という生活には、人は耐えられないのです。さらに人が生活していくには、いつ、何をすべきか、を決めなければいけませんが、もし来る日も来る日も同じだったら、いつ、何をすべきか、一々考え、決断しなければなりませんから大変です。

 そこで人が作りだしたのが、時の分類、境界線です。まずは昼間と夜。ある日と次の日、といった分類が作られます。確かに、自然界に明るい時間と暗い時間、はありますが、日の出で突然明るくなり、日没で突然暗くなるわけではなく、そのままでは曖昧です。そこで、午前零時、などという境界線を作り出し、平日と日曜日などという分類も作りました。

もう少し大きな分類としては、月や季節、そして年という分類を作りましたが、自然界にはそんな境界線は存在しません。たとえば121日に必ず寒くなるとか、3月から春だからといっても、1日から必ず、突然、暖かくなるわけではありません。まして2010年元旦、といったところで、午前0時に突然月が明るく輝く、などということはありません。

そこで人は、せっかく作った境界線を明確にするために、いろいろな仕掛けを作りました。たとえば日曜日は安息日で、働いてはいけない日、として、平日との境界線を明確にしました。立春、冬至といった暦の上の境界線を決め、それぞれの季節に着る服や、衣替えの日まで決めたりしました。また正月は晴れ着を着て、仕事はしないのは勿論、お節料理やお餅という特別な料理を食べて、ハレの日を作り出し、「おめでたい」ということにして、年と年の境界線を強調し、明確化しているのです。

それによって、分類され、メリハリの利いた時間の中で、いつ、何をすべきか、すべきでないか、一々決めることなく、生活していくことができる、というわけです。そうして成り立っているのが、私たちが当たり前と感じて考えもしない普通の生活、というわけです。

空間

 空間も同じです。自然界そのままでは、キャンパスも道路も、廊下も教室も、教壇も学生席も、上座も下座も、そしてトイレも台所も、分類はありません。地球、宇宙には、本当は、上下という分類だって存在しないのです。

 こうした自然のままの空間では、私たちはどこで、何をしたらよいのか、してはいけないのか、さっぱりわかりません。正に混沌、カオスです。

 そこで人は、内、外、上、下、トイレ、路上といった分類を作り出し、どこでは何をするべきか、してはいけないか、といったことを決めました。そうすれば、一々考える、決める必要がなく、生活していくことができるからです。

 さらに人は、そうした分類の境界線を確認し、明確にするための仕掛けも作り出しました。それが例えば、部屋に入る時はコートや帽子を脱ぐとか、挨拶するとか、家の中は裸足でも外は靴を履く、などというものです。

人、物

 こうした境界線と分類は、時間、空間だけでなく、人や物などにも作られています。自然のままですと、子ども一人ひとり成長の早さは異なりますが、小学生、中学生と分類したり、20歳の誕生日で成人、と決めたりします。老化の早さも人によりますが、60歳で還暦だとか、75歳で後期高齢者だとか、決めてしまいます。さらには子どもだからこうすべき、老人だからこうするべき、などと決めてしまいます。

 物もまた、植木鉢と便器は異なるもので、それぞれ何に使うべき、と決められています。

 こうした、時間、空間、人、物などの分類は、組み合わされて、いつ、どこで、誰が、何をするべきか、すべきでないか、といったことが、決められます。たとえば、植木鉢は盆栽などを植えるもので、外に置かれ、おもにお年寄りとされる人々の趣味とされ、便器は家の中の、人から見えないトイレに置かれ、排泄に使うもの、ということは当然路上に置いたり、盆栽を植えたりしないもの、といったことが決まっているのです。

 そして、みんながその通りにしていれば、私たちの生活が、社会が、問題なく動いていくのです。ただ、それはあまりに当たり前になっており、意識しないので、「普通」としか思わないし、なぜ、などと思わなくなってしまっています。

変とはなにか

 そこでその境界線ですが、こうしてせっかく作った分類の境界線を曖昧にされたり、壊されたりしたら、大変です。いつ、どこで、誰が、何をすべきかがわからなくなり、生活も社会の仕組みも壊され、混沌のカオスに戻ってしまいます。

だから、そうした危険かつ重大な境界線を曖昧にしたり、壊したりする行為を排除しなければなりません。そのために作りだされたのが「変」というレッテル、というわけです。境界的な曖昧な状態に「変」というレッテルを貼り付けることで、境界線を曖昧にし、壊すものを排除しよう、というわけです。「変」とされるのが、ことごとく境界線を曖昧にする、壊すもの、であるのは、そういうわけだからなのです。

 さらに変のレベルもいろいろあり、便器を外に置くだけだと、空間の内外の境界線を曖昧にするだけですから、少し変、とされるだけですが、外に置かれた便器に盆栽が植えられた、となると、物の分類の境界線も冒しますから、もっと変。おまけにその盆栽が幼稚園児の趣味、となると、人の分類の境界線まで犯すから、きわめて危険なことになり、絶対に排除しなければいけません。だからすごく変、とされる、というわけです。

つまり今日65日に、餅を食べても、外に置いた便器に盆栽を植えても、誰の迷惑でもない、と言いましたが、実はそうではありません。本当は大変な危険、迷惑な行為なのです。

今の子ども達は、昔の子どもほどには正月が特別な時と感じていないようです。大人だってそうかもしれません。メリハリのない生活に流され、平板な日々と感じている人は多いでしょう。

これは一つには、便利という名のもとに、せっかく作り上げた境界線を曖昧にしてしまうものを数多く作り出してしまったからです。交通、通信手段の発達で、世界中から人、物、情報が運ばれてきて、遠い異国も身近な地域も、大きな違いがなくなってきました。温室栽培で野菜や果物は旬と関係なく、いつでも食べられます。そして正月という、「年と年の境界線」を演出する仕掛けだった餅は、真空パックで一年中いつでも食べられるようになり、正月以外に食べるのは「変」と思わなくなってしまったのです。これでは正月が特別な時でなくなるのも無理はありません。

私たちの生活を、世界を、喜びも悲しみも薄い、平板なものにしてしまわないためにも、もう一度、世の中、生活というものが、どのようにして「普通」に動いているのかを、改めて確かめてみることが必要なのです。そしてそのためにも、そんなの普通、当たり前、で済まさず、ちょっと変わった角度から物事を、人間を、生活を見る、ということがとても大事なような気がします。