情報と社会』第25号、2015年、江戸川大学

エスカレーター片側空けという異文化と日本人のアイデンティテ
                      斗鬼正一
 

はじめに

バリアフリー化の推進で駅のエスカレーターが増設され、ショッピングセンター、デパートだけでなく、大学校舎にまで導入されるようになり、私たちの生活、とりわけ都市における生活において、エスカレーターはきわめて身近な、重要な移動手段となっている。

特に地上だけでなく地下も大混雑の大都市では、地下駅はますます地下深く潜り、長大エスカレーターも急増する中、エスカレーターに乗る際に片側に立ち、片側を急ぐ人が歩けるようにする、というマナーは、近年大変な早さで全国各地に広がっている。良いマナー、あるいは新しい常識とされ、他方でその不合理さ、危険性なども指摘されており、日常的なことであるため、関心が高い。

 ところがこの新しい文化は、その起源、なぜ右空け、左空けが混在するのか、などはもちろん、そもそもなぜこのような文化が登場したのかなど、ほとんど知られていない。

 エスカレーターに関する研究は多数みられるものの、安全性、設置技術など技術的な視点によるものがほとんどで、それ以外では、エスカレーターと階段が併設されている場合どちらを選択するかといった心理学的視点によるもの、人の行動に環境がどのような影響を与えるかという行動分析の視点によるもの、などがごく少数見られるだけである。片側空け自体に関する研究としては、大阪式が関西のどこの駅まで実行されているのかを実地調査した論文がある程度である。さらに、あまりに日常的なことゆえ、記録が乏しいという問題もある。

そこで本稿では、新聞、テレビなどメディアでのコメント(注1)をたびたび求められている筆者のこれまでの知見を整理し、まとめることを第一の目的としたい。具体的には、エスカレーター登場の歴史、駅への登場、そして片側空けの発祥と伝播などに注目して、海外の事例を探り、さらに日本にどのように導入され、右空け、左空け混在して広まったのかを、比較的情報の多い新聞記事などをもとに明らかにしていくこととする。

第二には、エスカレーターという異文化、その使い方としての片側空けというさらに新しい文化を、日本人がなぜ導入したのか、その背景にどのような価値観が隠されているのかを、異文化とアイデンティティという視点から考えていくこととする。

第1章 エスカレーターという新文化、異文化の登場

I.欧米におけるエスカレーターの登場

1.博覧会、百貨店とエスカレーター

 エスカレーターは、移動する動物である人が高低差を伴う移動を容易化するために作り出した道具で、電力が不可欠であるため、19世紀後半になって欧米に登場した新文化である。

階段を動かして人は足を動かさないというエスカレーターの原理は、1859年アメリカで特許を取得したナサン・エームズの「回転式階段」に始まるが、三角形の辺に沿って回転する階段に飛び乗り、飛び降りるといった危険なもので、実際に制作はされなかった。

1892年にはジョージ・H・ウィラーが、動力で動くハンドレール(移動手すり)と踏面が平らなステップで構成され、横方向に乗降する自動階段の特許を取得したが、実用化はできなかった。

他方、同じ1892年には、ジェシ・W・レノが、30度傾斜した踏面を連結した「傾斜エレベーター」で特許を取得し、レノ社を設立、1900年には、改良型をニューヨークのマンハッタン高架鉄道に設置している(後藤、2009)。

このほか、1898年には、Piat社がロンドンの百貨店ハロッズに革のベルトが動く「動く階段」を設置している(日本エレベーター協会、2014)。

1899年には、ウィラーから特許を買い取ったチャールズ・D・シーバーガーが、エリシャ・オーチスが創業したオーチスエレベーター社と提携し、史上初めて、現在のエスカレーターの原型である「踏段式自動階段」を開発、1900(明治33)年のパリ万国博覧会に「escalator」の名で出展して一等賞を受賞、出展された2台はフィラデルフィアとシカゴのデパートに設置された(後藤、2009)。

さらに1910年にはオーチスエレベーター社は「escalator」を商標登録し、1950年に放棄するまで、この語は普通名詞ではなく、他社は使用することができなかった(日本オーチスエレベータ、2014)。

2.鉄道と駅のエスカレーター

 世界を眺め渡す仕掛けである博覧会、百貨店とともに、エスカレーターを最初に導入したのが、実際に人々を世界各地へと移動させる鉄道である。

世界で最初の鉄道は、イギリスのストックトン・アンド・ダーリントン鉄道で、1825年石炭運搬を主目的とする40㎞の路線を、ジュージ・スチーブンソンの蒸気機関車ロコモーション号が走った。世界初の地下鉄もイギリス・ロンドンで、メトロポリタン鉄道が1863年に開業している(中野、2012)。

大量の乗客を乗降させるのに、当初は階段だけだったが、その後エスカレーターが導入されるようになった。上記のように、1900年には傾斜エレベーターがニューヨークの高架駅に設置されたが、地下鉄駅にエスカレーターを最初に導入したのもニューヨークで、地下鉄自体はロンドンより遅い1904年開業であるが、1906年バワリー駅にステップ状のエスカレーターが設置された。ロンドンでは、5年後の1911年、アールズ・コート駅にオーチスエレベーター社製の、今日とは異なって正面でなく横方向へ降りるshunt typeが設置されている。

オーチスエレベーター社はその後、横方向に降りる危険性を排除するために、乗降口が櫛の歯状のレノ式と、踏面が水平なシーバーガー式を組み合わせ、踏面と同期するハンドレールを備えた改良型を開発、ロンドン地下鉄では1924年のクラパムコモン駅を皮切りに、1930年代までに今日のものと同様なエスカレーターの設置が進んだ(後藤、2009)。

II. 日本へのエスカレーターという異文化の導入

1.日本のエスカレーターの歴史

日本で初めてエスカレーターが登場したのも博覧会で、明治維新後欧米の技術、文化を導入することを目的に次々開催された博覧会の一つ、パリ万国博覧会の14年後、1914(大正3)年38日上野公園で開催された東京大正博覧会である。この博覧会は、大正天皇即位奉祝と帝国の勢いを示すために開かれたもので、工業館、鉱山館、染織館などと共に、海外への帝国主義的進出により支配した台湾、朝鮮、樺太、南洋などの展示館、美人島旅行館なども設けられ、ロープウエーも登場、入場者は7463400人だった。

 「我が国最新の自動階段」という宣伝文句で登場したエスカレーターは、山上の第一会場と不忍池の第二会場を結ぶもので、現在の東照宮に上る鳥居付近に上下二本設置され、高さ10m、秒速1尺(30㎝)で動き、料金は蕎麦が4銭くらいだった当時10銭だったという。なお、38日が「エスカレーターの日」とされているのは、この歴史を踏まえたものである。(乃村工藝社、2014)。

この年は日本が戦勝国として海外の支配地域をさらに広げることになる第一次世界大戦が勃発し、帝国全土を網羅する鉄道網の中央駅として東京駅が開業しているが、10月1日には、日本橋三越呉服店(現三越本店)新館が開業、1階と2階の間にアメリカのオーチスエレベーター社製のエスカレーターが設置された。このエスカレーターは、関東大震災で焼失するまで稼働していた(日本電気協会、2014)。

2.鉄道、駅への導入

鉄道もまた、日本人が世界へと目を向け、進出をめざす時代に導入し、拡大していった異文化である。

日本人が初めて鉄道に乗ったとされるのは、漂流中にアメリカ船に救助されイギリスに行ったジョン万次郎(中浜万次郎)で、1845(弘化2)年である。日本で初めて走ったのは、1853(嘉永6)年の模型蒸気機関車だが、ロシアのプチャーチンが長崎に入港し開国交渉を行った際に運転して見せたもので、翌年にはペリーも模型蒸気機関車を走らせている。

こうして鉄道という欧米の異文化に出会った日本人は、すぐさまこれを模倣し、1855(安政2)年には佐賀藩が模型蒸気機関車を完成させているし、江戸幕府も江戸、横浜間の鉄道建設を計画していた(中野、2012)。

明治に入り、1869(明治2)年には、北海道の茅沼炭鉱で木製レールに牛馬牽引ながら、石炭輸送が行われたが、初の鉄道と呼べるものは、良く知られるように、1870(明治3)年に着工、1872(明治5)年に完成した、新橋、横浜間29kmである。徒歩で7時間かかったところをわずか53分で結び、「矢を射る如くに陸蒸気」(宇江佐、2010)、「見る間に馳出す陸蒸気」(森脇、2014)と人々を驚かせた。関西でも1874(明治7 )年に大阪、神戸間、1877(明治10)年には大阪、京都間も開通、その後帝国全土を網の目のように網羅し、さらには朝鮮半島、中国大陸侵略とともに、ヨーロッパへと続く路線へと拡大していくこととなる。

雑踏する大都市の地下を駆け抜ける欧米発の異文化である地下鉄が導入されたのは、1927(昭和2)年に開業の現在の東京メトロ銀座線上野、浅草間で、「東洋唯一の地下鐵道」(注2)という点が強調された。関西では1933(昭和8)年に現在の大阪市営地下鉄御堂筋線梅田、心斎橋間が開業、戦中に天王寺まで延伸された。戦前の日本の地下鉄はこの2本だけだが、戦後の高度成長期に東京、大阪で路線が増加し、福岡、神戸、京都、名古屋、横浜、仙台、札幌にも建設されていった。

日本で初めて駅にエスカレーターが設置されたのは大阪で、1925(大正14)年関西初の高架駅として登場した新京阪天神橋駅(現阪急天神橋筋六丁目駅)にはターミナルビルの先駆天神橋駅ビルが作られ、国産のcomb typeのエスカレーターが設置された(中山、2014)。

東京の省線(鉄道省営鉄道)では1932(昭和7)年の秋葉原駅が最初で、高架の山手線のさらに上に設けられた総武線ホームと地上を結ぶ、当時としては大変高くて長いもので、東京名所になった。戦争中は休止したが、1965(昭和40)年に復活、この時も日本最長のエスカレーターと話題になっている。

地下鉄では1933(昭和8)年の大阪市営地下鉄開業時に、途中階からホームへエスカレーターが設置された。(鉄道図書刊行会、2004

戦後の東京では、地下鉄網の拡大とともに地下も過密化し、駅が地下深くに設けられるようになった。1969(昭和44)年には地下5階にホームがある営団地下鉄千代田線新御茶ノ水駅が開業、地上と結ぶ長いエスカレーターが話題になっている。

国鉄では、混雑の激しい横須賀線を東海道線と分離し、新設の総武快速線と直通運転するために、品川、錦糸町間に地下新線が建設され、1972(昭和47)年東京地下駅、1976(昭和51)年に新橋地下駅が開業、ホームは地下5階で、長大なエスカレーターが多数設置された。横須賀線の工事が遅れたため当初は総武線だけで閑散としていたが、1980(昭和55)年に横須賀線が新橋・東京地下駅へ移って、総武快速線と直通運転が始まり、エスカレーター、地下駅が混雑するようになった。

関西でも同様に、1967(昭和42)年 阪急梅田駅(大阪市)の現在地への高架化移転工事が開始され、1969(昭和44)年に完了したが、移動距離が長くなったために、ムービングウオーク(動く歩道)とエスカレーターが設置された。その後も高架化、地下深い地下駅の開設とともに、エスカレーターが設置されるようになった。

第2章 片側空けという新文化、異文化の登場

I. 世界のエスカレーター片側空け

エスカレーターという新文化も、登場して時がたつにつれて、その使い方が決まってきた。右側に立ち、左側を空ける片側空けが世界で初めて行われたのはロンドンの地下鉄駅といわれるが、いつ、どんなきっかけで始まったのかは明確になっておらず、1944年ころ混雑緩和のために公務員が思いついたという説が挙げられているだけである。

その後片側空けは欧米各国に、さらにアジアにも広がり、現在世界ではイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ハンガリーなどのヨーロッパ諸国、アメリカ、アジアでも香港、台湾、中国、韓国などが右立ち、左空けで、圧倒的に多い。

他方の左立ち、右空けは東京を中心とした日本各地の他には、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランドなどで行われている。

II. 日本のエスカレーター片側空け

1.大阪

日本でエスカレーター片側空けが始まったきっかけとなったのは、阪急電鉄による呼びかけである。ムービングウオーク、エスカレーターが設置された阪急梅田駅で右側に立ち、左側を空けるようにという呼びかけが行われたのである。実際には、最初のスウェーデン製はベルト式のためすぐに壊れてしまったというほど歩く人が多かったといわれるが、この呼びかけがきっかけとなり、日本で初めての片側空けが行われたのである。

2.東京

地下深くに建設された千代田線新御茶ノ水駅には長大なエスカレーターが設置されたが、開業当時、乗客は左右構わず立ち、そばに階段もないため、急ぐ乗客も我慢する他ないという状況だった。しかし1989(昭和64、平成元)年ころ、自然発生的に片側空けが始まった。同年の読売新聞には、「新御茶ノ水駅にロンドン方式現る」という記事が掲載されている。ただし、ロンドン方式といっても、ロンドンとは逆の左立ち、右空けである。

もう一つ地下深くに建設された横須賀線・総武快速線東京地下駅、横須賀線新橋地下駅の場合は、明確な年月は特定できないものの、同じく1980年代の後半から自然発生的に右空けが始まっていた。

また東京駅では、1990(平成2)年に京葉線東京駅開業で、京葉線乗り場に通じる長い地下通路に動く歩道が完成、JRが初めて右空けの呼びかけを始めている。

3.都心から郊外へ

 こうして始まった右空けも、当初は超都心の梅田、東京、新橋、新御茶ノ水くらいにとどまっていた。当時は長大なエスカレーターはもちろん、駅のエスカレーター自体がさほど多くなかったこともあり、すぐには広がらなかったのである。

東京の場合、1993(平成5)年の朝日新聞には、欧米では当たり前のエチケットが東京駅では定着しつつあり、効率的合理的ですばらしいが、地下深い都営新宿線、京王新線の新宿駅はまだバラバラ、という記事が見られる。さらに1999(平成11)年の読売新聞には、立川では未だに行われていない、という記事が掲載されている。

他方関西では、1978(昭和53)年の朝日新聞に、二人並ばず道空けて、片側を急ぐ人のために空けて、という記事が見られたが、1981(昭和56)年には京都市営地下鉄が開業し、右空けを呼びかける掲示が行われた。1985(昭和60)年には神戸市営地下鉄も開業し、三宮駅で左空けを呼びかける放送、掲示が行われて広がった。こうして、上からの指示で動くことが嫌いな関西人はなかなか完全には守らないものの、1989(昭和64、平成元)年には京都、神戸の地下鉄ではほぼ片側空けが実行されていると報じられている。

さらに1992(平成4)年には近鉄布施駅(東大阪市)で、1993(平成5)年には京阪電鉄京橋駅(大阪市)などで左空けが呼びかけられ、JRでは1997(平成9)年に開業した東西線北新地駅、大阪天満宮駅、海老江駅(いずれも大阪市)で「お歩きになる方に左側をお空けください」と放送され、2001(平成13)年には大阪駅にも左空け案内板が設置されるなど、大阪府、奈良県、和歌山県、京都府、滋賀県へと左空けが広がっていった。

4.地方の片側空け

東京式の右空けは、東京、新橋、新お茶の水といった超都心の駅で始まり、徐々に郊外へ、近郊の通勤圏へと広がっていったが、さらに新幹線とともに関西以外の地方大都市、主要都市へと広がっていった。

その広がりは、札幌の場合、1993(平成5)年には地下鉄で右空けを奨励しているという朝日新聞記事があり、翌1994(平成6)年には右空けが多いという記事が掲載されている。

仙台の場合は、2001(平成13)年、仙台より京都の方が秩序がある。今年仙台は開府400年記念「仙台国際音楽コンクール」、来年ワールドカップがあり、国内外たくさんの客を受け入れる開催地の市民としてマナーも一流でありたい、という朝日新聞記事で、まだ片側空けが行われていないことが報じられている。その後、JR駅では右空け、市営地下鉄駅では左空けが行われるようになり、現在も必ずしも明確でないながら、行われている。

名古屋では、1990年代末に自然発生的に東京と同じ右空けが行われるようになり、福岡では、1995(平成7)年には、福岡はマナーが悪く、片側を空けないという投書が朝日新聞に掲載されているが、その後東京式右空けとなった。さらにその後も新幹線沿線の、岡山、広島、鹿児島など主要都市の大きな駅にエスカレーターが設置されるとともに、東京式右空けが広がっていった。

それ以外の地方では、たとえば石川県では金沢駅で右空けがみられるものの、その他では特にない、といった状況である。そもそもエスカレーターの数が少なく、駅の利用者数も少なくて大して混雑もせず、さらに運転間隔が広くのんびりした通勤風景で、通勤客が11秒を争うというようなこともない、といった事情から、片側空けはほとんど行われていない。

5.右空け、左空けの分布 

 全国的にみると、現在札幌、仙台が東京式右空け、首都圏の埼玉、千葉、東京、神奈川も右空けである。東京から東海道本線で下ると、静岡、愛知でも多くの駅で右空けが実行されており、名古屋市内も右空け、さらに岐阜県の大垣駅までは右空けである。次の垂井駅は小規模な駅でエスカレーターはあるものの不明確、天下分け目の関ヶ原駅はエスカレーターが無く、その先は山を越える地域のためエスカレーターの無い小規模な駅が続く。滋賀県に入ると、米原駅はかつて左空け、現在は右空けが多いものの、さほど意識はされておらず、滋賀県、京都府内も同様にあまり明確ではない。

 京都市内はJR、地下鉄は右空けが多く、京阪は左空け、阪急、近鉄は不明確、といった曖昧な状況だが、JRは新幹線利用の観光客の影響が大きいこと、市営地下鉄の場合は、開業当時から右空けを呼びかけていたことによるものである。他方京阪は、京都と大阪を結ぶ通勤路線で、大阪への通勤客が大阪式をそのまま持ち込み、京阪自身も京都市内の駅で近年まで左空けを呼びかけていたためと思われる。

 ところが同じく天下分け目の天王山を過ぎて大阪府に入ると左空けに変わり、阪神間、神戸市内、山陽本線神戸から大阪通勤圏の西明石までは左空けである。

 それより西は、岡山、広島、博多、鹿児島中央といった新幹線駅が再び東京式右空けとなる。

すなわち現在のところ、全国的には東京式右空けが圧倒的で、阪神地区だけが左空け、天下分け目の関ヶ原と天王山の間、すなわち滋賀、京都が曖昧な境界地帯となっているのである。

6.駅以外での片側空け

1996(平成8)年には東京で駅以外にも広がってきたという朝日新聞記事が見られるが、2000年代に入ってどんどん拡大し、現在ではデパート、ショッピングセンターから大学のキャンパス内まで、至る所で右空けが行われるようになっており、当然のマナーとされている。そしてこれもまた今後郊外へ、地方へと広がっていくかもしれない。

III.右か左か

1.通行法との一致

片側空けの空け方と通行法の関係を見ると、フランス、ドイツ、イタリア、中国、台湾、韓国など、左空けの国は右側通行の国で、元祖のイギリスが例外であることがわかる。他方東京、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランドなど、右空けの国は左側通行の国で、香港が例外であることがわかる。

すなわち、東京でそうであったように、行政、鉄道会社などの呼びかけ、指示がなければ、左側通行の国では右側が追い越し車線、右側通行の国では左側が追い越し車線という、通行法と同じ空け方が自然発生すると考えられる。実際、なぜそういう空け方をするのかと問われて、走行車線と追い越し車線の関係と同じになっているのだと意識している人々は各国に多い。

他方で、鉄道会社などが通行法と逆の空け方を呼びかけ、指示した場合に、逆になると考えられ、大阪の場合がこれに当てはまる。

なお香港も左側通行であるにもかかわらず左空けで逆だが、これは1997年の中国への返還までイギリス植民地だったために、イギリス式になったものと思われる。

2.ロンドンの右立ち左空け

左側通行のロンドンで、エスカレーターが左空けなのは、イギリスでも長年謎とされ、いろいろな説が出されている。

例えば、1920年代のロンドン地下鉄駅のエスカレーターが、今日のものとは異なり、横に降りる形式だったからとする説がある。

今日のエスカレーターは床面に縦溝があり、終点部分が櫛の歯状になって足先が引き込まれないようになっているcomb typeだが、先述のように、初期のシーバーガー式エスカレーターはshunt typeで、縦溝も櫛の歯もなく、そのまま潜り込む形だったため、足を挟まれる危険性が高いので、終点の床部分が進行方向に対して直角でなく、斜めで、壁も作られ、右側に降りる形式だった。右側に右足から降りるから、右に立ち、追い越す人は左側を歩いたというわけで、1924年以降、comb typeが登場し、終点が直角になった後も、右立ち、左空けの習慣は残ったという説である(Malvern2009)。ただし当時のエスカレーターの写真を見ると、左横に降りる型も、終点に三角形に突き出た壁があって両側に降りる型もあったようで、この説だけでは必ずしも説明できないと思われる。

今一つの説は、初期のエスカレーターは手すりが右側にしかないものがあったから、というものである。実際初期には、手すりだけが動力で動くものもあったし、しかも踏面がステップ状でなく、斜めのものも多かったから、右側の手すりにしっかりつかまる必要があった。それゆえ必然的に右側に立つ必要があった、というわけである。

 

第3章 通行法と民族アイデンティティ

 ロンドン、香港、大阪という例外はあるものの、左側通行の東京、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランドなどが左立ちで右側が追い越し車線、右側通行のパリ、ニューヨーク、北京などは右立ちで左側が追い越し車線というように、世界の多くの地域では、片側空けは通行法と一致している。

 しかし、通行法も、エスカレーター片側空けも、人の移動の仕方の統制は、実は単にどちら側を移動するか、という通行だけの問題にはとどまらない。

I. 世界の通行法

世界の通行法は、右側通行と左側通行に分かれるが、理由は明確でない場合が多い。日本の場合は、イギリスにならったとも、左に刀を差す武士が互いの刀が触れないように左側通行になった、などともいわれるが、明確な理由はわからない。

現在右側通行を採用している国は、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、スイス、チェコ、ハンガリー、ロシア、サウジアラビア、イスラエル、アメリカ、カナダ、メキシコ、コスタリカ、パナマ、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー、モンゴル、中国、台湾、韓国など、広範にわたっている。

それに対して左側通行は、イギリスと元イギリス領だった地域が多い。ニュージーランド、オーストラリア、インド、パキスタン、マレーシア、ブルネイ、シンガポール、ケニア、南アフリカ、キプロス、マルタ、ジャマイカ、ガイアナ、バハマなどは現在もイギリス連邦の一員、中華人民共和国香港特別行政区は旧イギリス植民地である。それ以外では、マカオ、モザンビーク、東ティモールが左側通行だが、これは左側通行だったポルトガルの植民地だったためで、ポルトガル自体は1928年に右側通行に変更したものの、そのままになっている、という例である。

2.通行法と民族アイデンティティ

イギリスに限らず、支配者が、植民地、保護国などに自らの通行法を持ち込んだ例は多く、たとえばベトナム、ラオス、カンボジアは19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスの支配を受け、フランス領インドシナと呼ばれた地域である。

これは異民族を支配しようとするものは、単に政治的、経済的、軍事的に支配するだけにとどまらず、しばしば文化的にも支配しようとするためで、支配者は支配される民族に自分たちと同じ移動の仕方をさせようとする。さらにそれは、その土地の都市風景を自国の都市風景と同じに染めてしまうことにもなる。

無論支配される側にとっては、自分たちの本来の移動の仕方を変更させられ、異文化のやり方に合わさせられ、異国の都市風景に変えられてしまうことであり、しばしば屈辱的と受け止められる。したがって、支配が終われば、支配者の通行法を放棄する、という例も多い。

たとえば、日本も朝鮮半島、中国大陸、台湾、フィリピン、ミクロネシアなどを侵略、支配した歴史の中で、自文化の通行法を押し付けている。上海などのイギリス租界や日本租界、大連の日本租借地、また日本の傀儡国家満州国も左側通行だった。しかし中国では、1949年の中華人民共和国成立後、左側通行を放棄して右側通行に変更したし、台湾、韓国、北朝鮮、フィリピン、ミクロネシアも、日本の支配が終わるとともに押し付けられた通行法を放棄している。

1970年に左側通行から右側通行に変更したミャンマーの場合も、長く国境を接する中国、ラオスに合わせた方が好都合だからという説もあるが、旧宗主国イギリス式を嫌悪したともいわれる。

支配者との関係が薄まると変更してしまう場合もあり、1867年までイギリス植民地で左側通行だったカナダは、イギリスよりも関係の強まった陸続きのアメリカに合わせて、1920年代に右側通行に変更している。

また、そのイギリスも、征服地にフランス式右側通行を命じたナポレオンと対立したために、左側通行にしたとも言われている。

第二次大戦後アメリカに支配された沖縄県の場合は、左側通行からアメリカ式の右側通行に変更されたが、1972(昭和47)年に本土復帰した後の1978(昭和53)年730日午前6時に、左側通行に戻している。離島であり、本土との直接の交通は無く、しかも大変な費用と、実際頻発した交通事故の危険を冒してまで切り替えたわけで、通行法が、民族アイデンティティといかに関係が深いかが良くわかる事例である。

もちろん純粋に経済性、交通の利便性といったことで変更した例もある。スペインの中の人口3万人のイギリス領ジブラルタルは右側通行だが、道路といっても全部で約50キロしかない小さな地域で、スペインとしか陸続きでないため、1929年にスペインに合わせて右側通行に切り替えた。

2011年末に、自国の標準時を日付変更線の西側に移行し、世界で一番早く新年を迎える国になる、という変わった試みをしたサモア独立国は、通行法も200997日に右側通行から左側通行に変えたが、これは日本製の車が多く、またオーストラリア、ニュージーランドから輸入されるのも右ハンドルの日本製中古車であるためである。

3.鉄道の通行法と民族アイデンティティ

鉄道の場合は、支配者は被支配地のゲージ(レール幅)と通行法を自国の鉄道と合わせることで、経済的、軍事的支配を強化しようとするが、これもまた、どのように移動するのかという人々の行動のコントロールであり、また、列車がどちら側を走っているかという風景のコントロールでもある。それゆえ、これもまた被支配者にとっては民族としてのアイデンティティを損なう屈辱的なことと受け止められる場合が多い。

1872(明治5)年新橋、横浜間で初めて走った日本の鉄道は、エドモンド・モレル以下のイギリス人技術者の指導の下に建設された全くの異文化で、運用もイギリス式だったため、現在に至るまで左側通行だが、乗客の駅構内の通行も左側通行とされ、道路交通は1949(昭和24)年に「人は右、車は左」で分ける対面交通となったものの、駅構内は例外とされ、現在も左側通行である。

日本が朝鮮半島、中国、台湾などを支配下に入れたのちに建設した鉄道は、陸続きでないため、ゲージこそ日本の狭軌(1067mm)に合わせることなく、標準軌(1435 mm)だが、通行法は日本式の左側通行だった。通行法の変更はきわめて困難なため、解放後も韓国の鉄道は左側通行のままである。1971年に着工し1974年に開業したソウルの地下鉄1号線の場合は、日本支配時代以来左側通行の国鉄京釜線、京仁線、京元線と直通運転する計画で、しかも日本からのODAと技術協力によって建設が開始されたため、日本製の車両が左側通行で走る、というものだった。しかし経済が著しく成長し、日本の協力が不要になった1980年開業の2号線以後は自国製の車両で、通行法も右側通行になっている。4号線の場合も右側通行だが、左側通行の国鉄安山線と直通運転するために、わざわざ通称「ねじれトンネル」と呼ばれる立体交差を設けてまで左右を入れ替えている(中央日報、2014)。

4.韓国の片側空け廃止と民族アイデンティティ

韓国では、2014年現在、エスカレーターの左空けがかなり曖昧になりつつある。これは2009年に駅構内などの歩行者の通行法を左側通行から右側通行に変更し、それと合わせて、エスカレーターも、両側に立ち、歩かないことが推奨されているためである。

ところでこの変更を、『中央日報』紙が「歩行者の通行方式が1日から交通施設を中心に左側から右側に変更された。日帝時代の1921年に施行された左側通行が88年目にして改められたのだ。」(中央日報、2009)と報じているように、通行法は単なる交通利便性、安全性といった問題ではなく、それ自体が、民族のアイデンティティと密接にかかわるものなのである。

5.関西の片側空けと三都のアイデンティティ

東京、大阪は何かとライバル意識を持ち、互いに違うことを強調したがるが、エスカレーター片側空けもそのひとつである。近年テレビ番組などで、日本では阪神地区だけが左空けであることが知られるようになるとともに、大阪では、その孤立性をいうよりも、大阪式こそグローバルスタンダードなのだと誇り、東京は世界の大勢から遅れている、といった主張がなされるようになっている。

関西でも、梅田での阪急の左空け呼びかけがなかなか他には広がらず、結局京都、滋賀は曖昧になり、完全に大阪式左空けを実行しているのは、神戸市、奈良市、和歌山市とその周辺だけ、という状況であるが、これに対しても、関西人は上からの指示でみんなが一斉に動かされることを嫌うから、という説明がなされる。さらに大阪とともに三都と呼ばれる京都、神戸、そして奈良は、それぞれ長い歴史、文化、誇りと独自のアイデンティティを持っており、それゆえ大阪の文化に合わせるということをしないともいわれる。

どの街もみな東京との近さを強調し、東京スタンダードに合わせて、東京のようになりたがるアイデンティティの希薄な首都圏とは大変に異なるのである。

 

第4章 日本人の異文化観と片側空け

このように、通行法は単なる通行法ではなく、人々の移動という動物としてのもっとも基本的な行動を統制、統一することでもある。その結果都市の風景の一部である人々が移動する風景もまた統一され、それを共有することによって、人々の民族、地域のアイデンティティが確認、強化されるという意味もある。それゆえ、アイデンティティの一体感が無い場合に通行法が押し付けられた場合には、嫌悪、反感をもたらす。

そこで次に検討しなければならないのは、日本人が道路、鉄道、そしてエスカレーター上でも、自らの移動という行動に、嫌悪感がないどころかむしろ積極的に欧米式を取り入れてきた背景には何があるのかという点である。その際、注目しなければならないのが、日本人の異文化観である。

I.国際化と片側空け

1.日本万国博覧会と片側空け

日本で初めて片側空けが行われた直接のきっかけは、先述のように、長いムービングウオーク、エスカレーターを設置した阪急電鉄による呼びかけである。しかし、そうした呼びかけが行われ、人々がそれに応じた背景には、当時の価値観の存在があるはずである。

梅田駅移転が行われた1967(昭和42)年当時は、公害や交通事故の激増など、経済高度成長に伴うゆがみと、日米安全保障条約改定に伴う政治的混乱、学園紛争といった世情騒然とした時代であるが、他方で、敗戦の廃墟から立ち直り、経済高度成長が続き、日本もいよいよアメリカに次いで世界第二の経済大国になったことが強調された時代でもある。そうした中、1970(昭和45)年に大阪府吹田市の千里丘陵330haの会場で会期183日の「日本万国博覧会」いわゆる「大阪万博」「EXPO'70」を開催することとなったのである。

この大阪万博は「アジアで最初」の「国際博覧会条約に基づく第1種一般博覧会」であることが強調され、「人類の進歩と調和」をテーマに、77の参加国・地域、43の国際機関を招き、史上最大の規模で開催しようと準備が進められた。それゆえ、世界の目を意識して、会場だけでなく、交通網など都市インフラの整備が急ピッチで進められた。さらに、多くの外国人の来日が予想され、一般国民にとってはまだ海外旅行も一般的ではなく、地方では外国人自体が珍しいという時代ではあったものの、いよいよ国際化が身近に迫ってきたことを強く感じさせる状況だった。

つまり、世界有数の経済大国となったからには、日本人は国際化を進め、国際舞台に飛び出さねばならない、多くの外国人が来日するのだから、外国人に恥ずかしくない良いマナーで、整然と行動するようにならなければいけない、といった外国人の目を強く意識した時代でもあったのである。

結果的には、博覧会入場者数が当初目標3000万人を大きく上回る64218770人、そのうち外国人が 170万人、一日の最高入場者は95日の835832人。入場券の売り上げが350億円、飲食、売店が405億円、モノレールの乗車人数3350万人、迷子48190人、迷い人127453人、落し物50227件、現金の落とし物4780万円という、世界第二の経済大国として、世界に飛躍することを宣言するかのような巨大博覧会となった(万博記念公園、2014)。

当時の日本では、外国人居住者、観光客は現在とは比較にならないほど少なく、それも東京、横浜、大阪、京都、神戸などに偏っていたから、地方の人々にとっては、まだ外国人自体が見慣れない存在という時代である。国内旅行ですら現在ほど盛んでない中、農協の仕立てた団体列車などで送り出された地方の人々にとって、約170万人もの外国人が入場し、各国のパビリオンが並ぶ万博会場は、ほぼ初めての外国人との出会いの場で、外国人なら相手かまわずサインを求めるといった、今日では考えられない光景が展開していた。

そんな時代に、欧米式のエスカレーター片側空けが呼びかけられ、人々に受け入れられたことの背景にあったのは、単なる混雑、危険回避ではなく、国際化や、外国人の目を意識するという時代背景と、欧米式マナーこそ素晴らしい、学ぶべきものとする価値観だったのである。

 

2.博覧会、オリンピックと片側空け

 こうした外国人が集まる博覧会を期に、外国人に恥ずかしくないように欧米式マナーを学ぼうという意識は、仙台でもみられた。すなわち、「未来の東北博覧会」(1987年)やワールドカップ開催(2002年)を控えて、地下鉄も開通し(1987年)、国際都市の市民にならなければならないと強調された時期に、駅自体が呼びかけたわけではないにもかかわらず、地下鉄駅のエスカレーターで欧米式左空けが登場したのである。

さらに類似例は中国でも見られ、北京では2008年のオリンピック開催が決定すると、マナーキャンペーンが行われ、地下鉄駅では「文明乗車、先下后上」と共に、エスカレーターでも「文明乗梯 右側站立 左側急行」が呼び掛けられ、左空けが行われるようになった。

その後杭州などでも同じようなキャンペーンが行われたが、上海の場合は、2010年、「より良い都市、より良い生活」をテーマに、中国で初めての総合的な国際博覧会「上海国際博覧会」いわゆる「上海万博」が開催されることとなった。開催を控え、都市インフラ整備といったハード面だけでなく、市民のマナー向上が重要とされ、「迎世博我門在行動」(万博に向けて我々も行動しよう)、「用文明的盛宴 迎接世博」(マナーを守り、品格を高めて万博を迎えよう)といったキャッチフレーズのもと、地下鉄駅では、エスカレーター左空けを呼びかける「文明乗梯」キャンペーンが展開された。駅には「請左行右立文明乗梯」、「世博天地・左行 右立」などと書かれた大きな看板が設置され、エスカレーター乗り口にも、「左行右立」、「歩区」「走区」などという表示が取り付けられた。さらに「窓口サービスの日」、「環境清潔の日」とともに「公共秩序の日」も設けられ、多数のボランティアが動員され、地下鉄各駅で、市民に「左行右立、文明乗梯」と呼びかける宣伝活動も行われた。

いずれも、オリンピック、万博という国家の威信をかけた国際的大行事を控え、国際化が進み、海外の目を意識した際に、欧米式左空けがマナーとして導入されたのである。

II.推進者たち

1. 三越モダンとエスカレーター

博覧会場以外では日本で初めてエスカレーターを設置したのが三越であるが、そもそも、フランスで創り出された百貨店という最先端のおしゃれで近代的な商業施設を日本で初めて導入したのもこの三越である。

明治維新後の文明開化では、欧米の異文化を積極的に模倣、導入してきたものの、明治中期になっても、商業は江戸時代のままで、老舗の三井呉服店でさえ経営悪化に苦しんでいた。その再建策として、三井呉服店は「デパートメントストア」という異文化を取り込んだ。1914(大正3)年101日に開館した三越呉服店新館では、美術展などの文化事業を積極的に進め、最もハイカラで高級な、日本初の「デパートメントストア」、「百貨店」となった(注3)。近代国家の臣民たることを求められ、求めてもいた人々は、「今日は帝劇、明日は三越」(注4)と、「デパートメントストア」に憧れたのである。

敗戦後の貧しい時代にも、三越を筆頭とするデパートは、憧れの商業施設、主要な娯楽の場として人々を惹きつけ続けたが、その要因となったのも、欧米文化の香り、当時まだ多くなかった高層建築、そして売り場を眺め渡しながら高みに昇る華やかなエスカレーターだった。実際各デパートは、集客の重要な戦略としてエスカレーターを競って設置し、人々はエスカレーターに乗ること自体を楽しみにやってきたのである(朝日新聞、1956)。

人々を移動させる近代的機械であるエスカレーターは、それ自体が、人々が欧米文化に代表されるモダンな文化にふれ、憧れを実現する道具だったのである。

2.阪急モダニズムとエスカレーター片側空け

海外の目が注がれる万国博覧会を控え、エスカレーターに片側を空けて乗るという欧米式マナーを呼びかけたのが阪急であるが、この阪急もまた、欧米文化を積極的に導入し、今日に至るまで、モダン、上品、おしゃれイメージで知られる企業である。

関西の鉄道は私鉄が主力で、現在の阪急、阪神、南海、京阪、近鉄などに発展した各社が路線網を広げてきた。中でも関西に限らず、日本の私鉄経営をリードしてきたのが阪急である。阪急は1907(明治40)年設立の箕面有馬電気軌道(現宝塚線)に始まり、1910(明治43)年には梅田、宝塚間、石橋、箕面間を開業した。阪神急行電鉄と改称後の1920(大正9)年には神戸線開業、戦中には京阪電鉄と合併して京阪神急行電鉄と改称し、1949(昭和24)年には分離、1973(昭和48)年には社名を阪急電鉄とした。2006(平成18)年には持ち株会社阪急阪神ホールディングスのもと、長年のライバルであった阪神電鉄と経営統合、現在は、大阪梅田ターミナルと神戸、宝塚、京都を結ぶ大手私鉄に発展している。

こうした発展と私鉄経営のモデルとなった基礎を築いたのが、創業者小林一三である。小林は、旅客増のために沿線で宅地開発を行い、昼間の旅客増のために1925(大正14)年梅田駅と合体して阪急マーケット、1929(昭和4)年には日本初のターミナルデパートである阪急百貨店を開業、逆方向の宝塚には1911(明治44)年宝塚新温泉(のち宝塚ファミリーランド)を開設した。さらに1913(大正2)年に温泉内の劇場で始めた宝塚唱歌隊、少女歌劇は今日に続く宝塚歌劇団となっている(阪急阪神HD2014)

これらは今日に至るまで郊外私鉄経営の先進、模範例とされ、東急、小田急など東京の私鉄も追随し、住宅地、遊園地、デパートなどを経営するのは当たり前になっているが、阪急がとりわけ巧みなのは企業、沿線イメージ戦略である。駅にエスカレーター、ムービングウオーク、自動改札機を初めて導入するなど鉄道自体も先進的だが、神戸線沿線に芦屋をはじめ、西宮七園(甲子園、昭和園、甲風園、甲東園、甲陽園、苦楽園、香櫨園)などの高級住宅地を開発し、実業家、文化人、大卒インテリサラリーマン層が住み、美術館、ゴルフ場、ホテルなどで、欧米文化の影響を受けた生活を楽しむ「阪神間モダニズム」と呼ばれるモダン、ハイカラで高級なイメージを作り上げてきた。

電車もまたマンセル値5R1.5/4.7というお召列車と同じ「阪急マルーン」と呼ばれるチョコレート色で、銀色窓枠、木目調化粧板、格子戸風のブラインドと共に、阪急の上品なイメージの象徴となっている。この阪急マルーンは、阪急百貨店の内装にも使われ、現在に至るまで上品でおしゃれなデパートとして富裕層を中心に人々を惹きつけてきたのである。

3. 識者-欧米流エチケットの信奉者たち

197090年代の新聞には、アメリカの駅にはエスカレーターがあるのに、帰国したところ、東京駅ですらいくらも設置されていなかった、日本は思いやりのない社会だ、アメリカを見習うべきだ、欧米と比べて日本の駅の設備は恥ずかしいなどといった、欧米からの立ち遅れという視点で批判した海外渡航者の投書がたびたび掲載されている。

これはマナーに関しても同様で、欧米人のマナーの良さ、とりわけ英国紳士の洗練されたおしゃれなマナーを強調し、他方日本人は公衆道徳もマナーも悪く、エチケットを知らない。日本人も欧米流のエチケットを身につけなければいけない、という主張が繰り返されている(注5)。

その際、フォーク並びとともに、たびたび取り上げられているのがエスカレーター片側空けである。たとえば、「英国ならずとも、欧米から日本に帰国した人は、公共の場所でのマナーが確立していないことに驚く。かたわらを空けておく、英国などでみられるマナーは日本でもまねたいもののひとつだ」、「ロンドンで8年前にマナーを教わった。東京でも・・・」、「欧米では当たり前のエチケットで、効率的合理的」などといったものである。

1989(平成元)年には、美人で、英語ができて、国際舞台で活躍する花形職業とされた日本航空のスチュワーデスがマナー講座本を出版し、レストランでは貧乏ゆすり、ゲップはだめ、たばこはデザートまで忍の一字、などとともに、「海外ではエスカレーターは左空け」と教示している(JALコーディネーションサービス、1989)。 

1992(平成4)年の朝日新聞「エスカレーター新秩序」という記事に、片側空けは英国式マナーで、これまでも識者によって提案されていたがなかなか定着せず、横須賀線東京地下駅でようやく普及し始めた、と書かれているように、こうした主張を展開したのは、欧米生活経験者、ジャーナリスト、評論家など、識者と呼ばれる人々が中心であった。この年には『朝日ジャーナル』に本多勝一の「エスカレーターのカカシ諸君へ」も掲載されている。

1989(平成元)年の読売新聞記事に「新御茶ノ水駅にロンドン方式現る」、1992(平成4)年の朝日新聞投書に「ずいぶん昔だが、私はロンドンの地下鉄で追い越しは左側と教えられた。日本もやっとこのことが話題になるようになったことは喜ばしい。」などと書かれているように、識者にとっても、それに影響された一般の人々にとっても、エスカレーター片側空けは、日本人が学ばねばならない欧米の立派なマナーという意識が極めて強かったことがわかる。フォーク並びの場合も、欧米の公平で合理的なマナーだから学ぶべき、とされたのと同様に、エスカレーター片側空けの背景にも、欧米文化は合理的ですぐれたもの、欧米人は良いマナー、他方で日本人はマナーが悪く、日本文化は不合理な遅れた文化、したがって学ばねばならない、とする価値観があったといえよう。 

4.東京から地方へ

こうして導入された片側空けは、大阪から周辺へ、東京から周辺へ全国へと広がっていった。そしてその際も、「福岡はマナーがひどく、片側空けをしない」、「仙台より京都の方が秩序があった。」「京都、神戸の地下鉄ではすでに実行されているのに」、「東京の人は他の人のことを考えて行動する。すごい」などという新聞投書からもわかるように、地方の後進性が指弾され、他方で、東京、京阪神という大都会の洗練された文化の先進性とそれを学ぶべきことが強く意識されていることがわかる。

さらに東京、大阪を比較するならば、大阪の左空けは兵庫、和歌山、奈良という近郊には広がったものの、その先岡山、広島といった西日本は、阪神地区を飛び越して右空けの東京式、仙台、札幌なども東京式となり、阪神地区だけが孤島のごとく左空け、という状況になっているわけで、地方では、欧米文化を導入した東京の文化こそが先進的でおしゃれとして憧れ、導入するべきと考えられていることがわかるのである。

 

おわりに

I.日本人のアイデンティティと異文化

1.日本人のアイデンティティ

歴史上日本人のアイデンティティとは、現在の日本人が考えるほどには確固としたものではなかった。飛鳥時代の飛鳥には朝鮮半島の人々が多数暮らしていたし、他方東北地方となると、得体のしれない異民族の住む異界でしかなかった。江戸時代に至っても、世界の国々を意識することがほとんどなかった人々には、自らが日本人という意識はあまりなく、むしろ長州人、会津人などと強く意識していたのである。

それゆえ中央の権力者は、征夷大将軍の軍事力で異民族を平定、服属させてきたし、大日本帝国という天皇を最高権力者とした国民国家を作り上げようとした明治政府は、琉球を服属させ、長州人、会津人といったアイデンティティを捨てさせ、大日本帝国臣民としての新たなアイデンティティを作り上げようとした。そして目を海外に向け、アジア、オセアニアへと進出、異民族を大日本帝国臣民へと仕立てあげようとし、敗戦後は一転、帝国臣民としてのアイデンティティを排除し、平和で民主的な新生日本国の国民としての新たなアイデンティティを作り上げようとした、というわけである。

2.意図的文化変容とアイデンティティ

民族のアイデンティティを背景で支えるのは、その民族が共有する文化であるから、アイデンティティに変容をもたらすために有効なのは、旧来のアイデンティティの背景となっていた古い文化を改廃し、異文化、新文化を導入させることである。それが明治の文明開化であり、すべてをアメリカ文化にならおうとする戦後の動きであり、逆に日本文化を押し付けた植民地支配である。

こうした意図的文化変容において、人々がもっとも強く抵抗感を持つものの、他方もっとも効果的なのは、身体に直接かかわる文化や、食べる、排泄する、といった動物としての人の行動を統制する文化である。

たとえば文明開化を進めた明治政府も、1871(明治4)年には外国と対等に付き合いをする支障になるからという理由で男子の丁髷を禁止し、1872(明治5)年には東京府の「東京違式詿違条例」、翌年の太政官布達による「違式詿違条例」によって、外国人に見られて恥ずかしいとされた、裸体、肩脱ぎ、股の露出、混浴、立小便から、蓋のない糞桶の運搬まで、きわめて日常的に普通に行われてきたことを禁止している。

明治政府はそれによって、近代国家の臣民という新たな日本人のアイデンティティを持たせようとしたのであるが、今日でも、裸の付き合い、連れション、同じ釜の飯などといわれるように、身体や本来動物である人が生きていく上で最も基本的な行動を統制し、統一し、共有させることは、社会の秩序を確立し、アイデンティティを作り上げていく上でも大変効果的なのである。

3.歩くという行動の統制とアイデンティティ

こうした統制は、文字通り動く生き物、動物である人にとって、もっとも基本的な行動である歩き方にも及んだ。

明治初期に日本に滞在したお雇い外国人モースは、日本人の歩き方はリズムがなく、ばらばらで、歩調をそろえて歩くということを決してしないとし、その理由として、日本人が旋律を必要とするワルツ、ポルカなどの舞踊や、学校でピアノ演奏に合わせて行進する練習をしていないからだと述べている(モース、1946)。

他方でそのモースは、東京女子師範学校の卒業式で幼稚園児たちが「可愛らしい行進遊戯をし」、「ヴァッサー大学卒業の永井嬢がピアノで弾く音楽に歩調を合わせて」ホールを進む、とも書いているように、すでに学校教育ではピアノなどに合わせた歩行練習が始まっていた。こうした欧米文化による歩き方の訓練によって、日本人はばらばらでなく、歩調を揃えた律動感ある歩き方、欧米人式の歩き方をする近代的国家の国民に変えられていったのである。

歩き方という、思想による統制とは無縁そうな体の動かし方にまで、変容が強制され、それが新たな日本人としてのアイデンティティを作り上げていく上で大変効果的に利用されたというわけであるが、その際も、欧米人の歩き方という異文化が学ぶべき優れた歩き方とされて導入されたのである。今日でも日本人が社交ダンスが下手なのは農耕民族の歩き方が残っているからだ、などと自嘲気味に語られるのも、こうした欧米文化こそ学ぶべき優れたものとする価値観の名残というわけである。

II. エスカレーター片側空けという行動の統制とアイデンティティ

 エスカレーターは、歩く、登るという、動物である人のもっとも本能的で基本的な行動を容易にするものとして作り出された新たな文化だが、このエスカレーターが人類の前に初めて登場したのは博覧会場、百貨店という異文化と出会う場であった。日本でも同様に、異文化、とりわけ先進的な欧米文化との出会いを意図した博覧会場と、同じく欧米文化との出会いの場として重要な役割を果たした、高級でハイカラな三越であった。

こうして欧米の最先端の新文化、異文化として導入されたエスカレーターの使い方の文化、すなわち新たな移動の仕方の文化もまた、欧米文化を強く意識して導入された。つまり大阪万博開催を控えた梅田での呼びかけに始まった片側空けも、まだ海外、外国人になじみが薄かった時代に、日本人もいよいよ世界とのかかわりを深め、国際化に対応した民族にならなければならないということが強調され、海外の目を強く意識したからこそ受け入れられたのであった。

東京での片側空けも、ジャーナリスト、欧米留学・滞在経験のあるインテリ層などの識者が、メディアで、さすが欧米人は片側空けている、日本人はこのままではダメ、すぐれた欧米文化を学ぶべき、といった主張を展開したことが大きく影響している。

歩くことは、食べることなどと同様に、人が生きていく上で必須の極めて動物的、本能的な行動であるために、本来これらへの統制は、される側に強い抵抗感を持たせる。しかし明治政府が風俗、歩き方といった欧米文化を導入した際と同様に、エスカレーター片側空けの場合も、欧米文化こそが輝かしく先進的で、優れた、学ぶべき文化であるという価値観をまぶして導入したのと同様に、優れた学ぶべきマナーという輝かしさをまぶして導入された。こうして明治の日本人のアイデンティティを、近代国家、一等国の臣民という新たなものへと変えさせたように、エスカレーター片側空けという新たな歩き方もまた、国際化に対応した新たな時代の日本人というアイデンティティへと変えていく力の一つになったのである。

さらに、こうした欧米から東京へという文化の流れは、東京と地方という枠組みにもあてはめられ、欧米文化にならった東京文化こそが、華やかで、先進的な文化であり、遅れた地方が学ぶべきで、学ぶことによってこそ遅れた地方人が現代人へと開けていく、といった価値観が背景にあったのである。

III. 片側空け廃止と新たなアイデンティティ

1.廃止の動き

 こうして導入されたエスカレーター片側空けだが、近年この改廃を進めようとする動きが出始めている。

東京では、1996(平成8)年には営団(当時)有楽町駅、桜田門駅、新富町駅、銀座一丁目駅で、歩かないでという貼り紙が貼りだされたのが最初で、その後あちこちの駅にエスカレーターを歩くのは危険、などと呼びかける掲示が散発的に出されている。2006(平成18)~2008(平成20)年には横浜市営地下鉄駅で歩行禁止のポスターが掲示され、2012(平成24)年にはJR東日本などが「手すりにつかまって」キャンペーンを展開、2014(平成26)年には多数の都営地下鉄駅で「手すりにつかまって」との掲示が出されている。

関西でも、1998(平成10)年、阪急が長年続けていた「お急ぎの方のため左側をお空けください」との放送を中止した。大阪市営地下鉄では2002(平成14)年に右空けの案内を中止、2010(平成22)年には歩行禁止啓発が始まり、現在も多くの駅で、エスカレーターは立ち止まって乗るようにといった掲示が出されている。

名古屋でも2004(平成16)年に市営地下鉄駅で歩行禁止の啓発が、福岡でも2006(平成18)年市営地下鉄駅で歩行禁止啓発のポスター、放送が行われ、2006(平成18)~2008(平成20)年には札幌市営地下鉄でも歩行禁止ポスターが掲示された。

こうしたキャンペーンは、歩くなというだけで、2列に立てという案内はないため、片側は歩く人がおらず、他方の側に長蛇の列ができる、という奇妙な情景が現出しただけの結果になっている。

それでも、欧米から東京へ、東京から地方へ、駅以外へと拡大一方で、「違反」など到底できないような状況に至っていたものが、ここにきてようやく、疑問が呈され、廃止への動きが広がってきたのである。

2.弱者への視線

こうした廃止呼びかけの背景にあるのは、一つは、エスカレーター自体の安全性である。つまり日本エスカレーター工業会の公式見解にもあるように、エスカレーターはそもそも歩くように設計されておらず、衝撃で急停止したりする危険もある、というものである。

また、歩く人、駆け降りる人にぶつけられて転倒した、といった事故が絶えないため、利用者の安全のためにも、歩くべきでない、という主張もある。

さらに、そもそも片手、片足が不自由で特定の側に立つことが大変な人もおり、幼児を連れた場合も、親子が段違いに乗らなければならず危険であり、こうした弱者への配慮が必要とも主張されている。

3.効率重視への疑問

急ぐ人を優先して先に行かせなければならない、という効率重視に対しては、なぜそんなに急ぎ、効率を上げなければならないのか、という疑問も膨らんできている。

片側空けは地下駅の深化による長大なエスカレーター登場の結果だが、背景には、速いことは良いことという経済高度成長期、バブル期の、効率優先、強者中心の価値観がある。

明治の文明開化以来、欧米から先進的な技術を取り入れ、産業化の道を歩み続けてきた日本は、戦後の高度成長期に至って、ますますその効率性、合理性を追い求めるようになった。そうした時代は、変化こそが善、停滞は悪であり、もっと速く、というのは高速道路、新幹線、特急重視の在来線など、交通の諸局面でも最も優先される価値となったのである。

そうした社会では、のんびり、ゆっくり、のろのろ、そして弱者などというものは邪魔な、排除すべきものであり、急ぐものが絶対的に優先されなければならないとされてきた。そんな価値観への疑問が強まってきているというわけである。

4.新たな日本人のアイデンティティ

日本人は、産業革命を成し遂げる近代国家の臣民として、アジアに進出する富国強兵の大日本帝国臣民として、そして戦後は民主的な平和国家日本の国民として、そして焼け跡から復興し、経済高度成長を成し遂げる猛烈サラリーマン、次々新しい商品を求める貪欲な消費者としてと、次々とそのアイデンティティを切り替えられてきた。

しかし、経済高度成長も、「モーレツ」も、もっと速くも、過去の歴史となり、環境、資源、エネルギー問題への関心も高まって、経済一辺倒、物質的欲望の充足こそが幸せ、という価値観にも、欧米、とりわけアメリカ文化こそが学ぶべきすぐれた文化という価値観にも、ともに疑問符が付いた。こうしてのんびり、ゆっくり、心の豊かさ、やさしさ、そして弱者を大切にする、日本人としての新たなアイデンティティが求められるようになってきた。

そんな時代を背景に、速さ、効率を絶対視する強者、経済優先の価値観や、欧米文化だから、大都会の文化だから学ぶべきといった価値観に支えられた片側空けに対しても、人々が疑問を持つようになってきたというわけである。

このように、エスカレーターは立ち止まって手すりにつかまって乗るもの、という本来の姿に戻そうとする動きもまた、単に安全対策というだけではなく、成熟型社会の日本人という新たなアイデンティティを求める時代の価値観が背景にあると考えられる。

エスカレーターの乗り方というきわめて身近な、日常的な文化ではあるものの、そこにも単なる移動手段であることを越えて、日本人のアイデンティティ、その背景にある価値観との関係までもが見えてくるといえよう。

 

(1)

日本経済新聞、200716日、「右か左か 片側空けの起源」

日本経済新聞、201142日、「大阪の左空け並びは欧米式」

日本経済新聞、201519日、「片側空け→歩行禁止 マナー変わる? エスカレーター」

日本テレビ、2006114日、「世界一受けたい授業」

 日本テレビ、20081129日、「Perfumeの気になる子ちゃん」

 TBSテレビ、2009514日、「ひるおび!」

 読売テレビ、2014316日、「読売テレビ55年記念番組 OSAKA仰天ヒストリー 諸説あり!!」

 テレビ朝日、20141015日、「モーニングバード」

(2)

 1927年、東京地下鉄道開業時ポスターの杉浦非水によるコピー

(3)

 三井呉服店は1904(明治37)年、デパートメントストアを実現と宣言、1905(明治38)年には新聞に全面広告を掲載し、「デパートメントストア宣言」と呼ばれた。

(4)

 大正初期の三越の広告のキャッチコピー。コピーは浜田四郎、図案は杉浦非水、婦人画は竹久夢二である。

(5)

 欧米文化=おしゃれと考えられていた当時は、「マナー」より「エチケット」というおしゃれなイメージのフランス語が多く用いられた。

参考文献

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新聞

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