江戸・東京と富士山
             −都市人類学的考察−
                  斗鬼正一


2002(平成14)年2月
『情報と社会』第12号、江戸川大学


概要
 自然を排除した大都市江戸・東京は、他方で、「富士憑きの都市」と言われる。地名、都市計画、富士山形建築、庭園や遊園地などの人工富士山、銭湯のペンキ絵の富士山、富士山を食べる食品、といった「うつし」の事例と、富士の仙薬、富士講など富士山を信仰の対象とする宗教の事例から、自然を排除しつつも、自然の力を取り込む仕掛けを準備した、日本的都市の姿を明らかにした。
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はじめに
 富士山は日本を象徴する山である。海外旅行の帰途、機上から富士山が見えれば、いよいよ日本に帰ってきたという実感が湧く。日本人の富士山へのこだわりは、ふるさと富士、あやかり富士などと呼ばれる山が、蝦夷富士(羊蹄山)、津軽富士(岩木山)など、全国に350もあることからもよくわかる。さらには、アメリカ・ワシントン州の最高峰レーニア火山(4392m)が、日系人によってタコマ富士と呼ばれ、1935(昭和10)年に日米親善のしるしとして、この山と富士山頂の石を寄贈しあったなどという例もある。富士を冠する自治体も埼玉県富士見市、群馬県富士見村、静岡県富士市、富士宮市、富士川町、山梨県富士吉田市、長野県富士見町、そして佐賀県にも富士町がある。
 江戸・東京もまた、藤森照信が「富士憑きの都市」と呼ぶように(藤森、1987)、富士山にこだわる都市である。しかし都市とは、本来自然に対抗して作られた文化の一要素であり、基本的に自然を排除しようとするものである。とりわけ江戸・東京はもっとも自然からかけ離れた都市である。にもかかわらず他方で、江戸・東京が富士山という大自然にとり憑つかれてしまったのはなぜだろうか。
 本稿はこれを検討することによって、都市というもの、そしてそれを作った日本文化の一側面を明らかにしていくことを目的とする。

第I章 富士山にとりつかれた都市江戸・東京
1.富士山へのこだわり
1)富士地名
 富士山を望む江戸・東京では、こだわりはなおさらである。現在東京23区の町名で、富士とつくのは千代田区富士見1、2丁目、板橋区富士見町、練馬区富士見台1、2、3、4丁目であるが、1946(昭和21)年には、麹町区富士見町1、2、3丁目(現千代田区富士見1、2丁目、九段北4丁目)、麻布区富士見(現港区南麻布4丁目)、本郷区駒込富士前町(現文京区本駒込2丁目の一部)、駒込上富士前町(現文京区本駒込6丁目の一部、六義園一帯)、本富士町(現文京区本郷7丁目、東大キャンパスの一部)、目黒区富士見臺(現目黒区南3丁目)、中野区富士見町(現中野区弥生町5丁目)があった。また、町名にはなっていないが、板橋区には富士見団地がある。
2)富士を冠した名称
 道路名では、都道千代田練馬田無線の練馬、田無間が富士街道と呼ばれ、中野区、練馬区には富士見橋がある。また横関英一によれば、東京には後に改名されたものも含めて富士見坂が15、富士坂が2あるという(横関、1981)。最も多いのは新坂であるが、単に新しく付けた坂というだけの意味で、意識的につけられた名では富士見坂が最も多い。渋谷の宮益坂も昔は富士見坂だったのである。名が富士見坂でなくとも、富士山が見えるので有名なところ、富士見の茶屋があるようなところもあった。大田区田園調布1-12と30の間にある富士見坂のように、富士山は見えないが、多摩川浅間神社を富士山に見立てて、富士見坂としている例もある。
 富士を冠した駅名では、営団地下鉄丸の内線中野富士見町、京王井の頭線富士見ヶ丘、西武池袋線富士見台がある。
 公的機関では、千代田区役所富士見出張所、本富士警察署(文京区)、富士見郵便局(板橋区)、富士短期大学(新宿区)、富士高校(中野区)、中野富士見中学校(中野区)、富士見丘中学校(杉並区)、富士見小学校(千代田区)、富士小学校(台東区)、富士見丘小学校(杉並区)、富士見台小学校(板橋区)がある。
 企業名でも、富士通、富士銀行(千代田区)、不二家(中央区)、富士写真フィルム、富士ゼロックス、フジテック、富士工、フジテレビ(港区)、富士重工、武富士(新宿区)、富士電機(品川区)、富士製薬(足立区)、そしてフジスーパーや富士食堂、富士学院、富士ビルまで、有名無名の企業が多数ある。
 その他にも、産経新聞社の夕刊フジ、東京、大分間を結ぶJRの寝台特急富士、さらには富士夫、富士山(としや)、富士子、富士といった富士山にちなんだ名前の人物も多い。
2.富士山が見えること
1) 富士ウオッチャー
 富士ウオッチャーと呼ばれる人々がいる。毎日決まった場所から富士山を観測し、写真撮影したりするのを趣味とする人々である。遠距離では320km離れた和歌山県那智勝浦町の大雲取山、299kmの福島県岩代町の日山から撮影に成功したという記録があったが、2001年9月12日には、322..9キロ離れた那智勝浦町の妙法山から熊野灘越しの空に浮かぶ富士山が撮影され、これまでの記録を更新している(毎日新聞、2001)。また富士山可視地域を検索できる自製パソコンソフトで、栃木県宇都宮市や三重県二見町二見浦からも富士山が見えることを明らかにし、富士山可視マップを作った人もいる。また福島県では富士山が見えることを観光開発に利用しようとしている町もある。
 実際通勤途中の電車の中、歩道橋の上などから見える富士山の美しい姿を楽しみにしている人は多い。よく見えた日には格好の話題になり、何か良いことがありそうだ、などと感じたりする。住宅、マンションの売出しでも、富士山が見えるとなると、それが売り文句にもなる。
2)富士見の景観
 荒川区西日暮里では2000年冬、マンション建設反対運動が起こった。といっても日照などによる普通の反対運動ではなく、富士山が見えなくなるからというのである。ここの富士見坂は、山手線沿線十数箇所の富士見坂のなかでただ一つ富士山の全景を見ることができる坂で、1996年には都が呼びかけて作った「美しい景観を作る都民会議」の都市景観コンテストで「この景観を『いつまでも』賞」に選ばれている。
 ところが、約1.5キロ離れた文京区本駒込の13階建てマンション建設のため、左側の稜線が隠れてしまうことがわかり、地元住民が「日暮里富士見坂を守る会」を結成、階数を低くすることを要望、区議会も陳情書を採択した。しかし区は土地利用の権利を制限することは難しいと消極的で、思っても見ない難題を持ち込まれた会社側も応じず、結局唯一の富士見坂も、富士の全景が見えない富士見坂になってしまった。
 ある住民は富士山が見えることについて、「富士を見ると幸せになりますよね。心が穏やかになるとか、ホッとするというのではなく、幸せ、という言葉がぴったりくる」と話している(朝日新聞、2000)。富士山は人々の心をひきつけ、人々の心を癒し、幸せにする力まで持つ。そして人々は富士山に憧れ、こだわるのである。
3)徳川家康も富士山にこだわって江戸を選んだ
 室町幕府将軍足利義教は1432(永享 4)年、富士山を見るためにはるばる下向したと言われるが、初夢に見ると縁起がよいとされる「一富士二鷹三なすび」も徳川家康の好きな物を順に並べたいう山路愛山の説がある(田村、1994)。家康は起請文を書く場合も、通常の日本中の大小神の他に、富士、白山の罰を受けると書いている。その家康が城と城下町を江戸に作ったのは、豊臣秀吉の命によるものとされるが、家康自身も富士山の見える場所にこだわっていたからだとも言われる。家康は岡崎に生まれ、浜松城が出世城と呼ばれるように、富士山を見据えて東へと進出してきた。そしてついに天下をとるに及び、富士山を正面に望む江戸城の地を選んだと考えることもできるというのである。
 たとえば足利健亮の説によれば、家康が1590(天正18)年、関八州を与えられた時、家臣の7、8割は小田原、2、3割は鎌倉を本拠地にするだろうと考えていた。それでも江戸を選んだのは、富士山が見えるからだというのである(足利、1994)。確かに家康は縁起を気にする人物で、江戸は勿論、最後の居所に定めた御殿場も、遺言で葬られた久能山も、富士山の見える場所である。秀吉も最期の地に不死身に通じる伏見を選んだが、富士山は不死山で、富士見は不死身に通じるから、常に死に直面する武士のリーダーとして富士山にこだわった、というわけである。
田村明も、小田原、鎌倉は富士山が見えにくいのに対し、江戸は富士山が望めることに魅力を感じたのではないかと述べている。駿府から江戸に移り、富士山を見て、その向こうの京、大坂、天下を夢見、実際に天下をとると、富士山を間近に見る駿府に移ったというのである(田村、1994)。
3.江戸の都市計画と富士山
 江戸は、都市計画でも富士山とは切っても切れない縁があった。本町(現中央区日本橋本石町、日本橋室町、日本橋本町付近)は徳川家康が都市計画によって作った最初の町人町であるが、桐敷真次郎によれば、本町通りは西南西に100.6km離れた富士山をランドマークとして計画されたという(桐敷1971)。とりわけ駿河町の通り(現中央区日本橋室町1丁目、三井本館と三越本店の間の通り)からは、安藤広重の「名所江戸百景駿河町」に描かれたように、真正面に富士山が仰げる。またこの絵では雲に隠されているが、明暦の大火までは、富士山の手前に、富士山を思わせる白い江戸城天守閣もそびえていた。それゆえここが駿河町と呼ばれ、徳川の故郷駿河の国の山で、同時に日本一の名山でもある富士山は、徳川と日本を一つに重ねるものであり、家康は富士山(国土)、江戸城(統治者)、江戸の城下町(市民)を一つの軸の上に乗せ、三つが三味一体化する場所としての江戸を建設しようとしたというわけである(藤森、1987)。この他にも、法政大学裏手の富士見坂、裏四番町の通り、三番町の通りなど、富士山をランドマークとして作られた通りは多い。

第2章 富士山をうつす

1. 富士山の意匠
1)江戸城天守閣は富士山のうつし
 童門冬二は、江戸城天守閣は武蔵野に作られた富士山の写しであるという(童門、1999)。駿河、遠江、三河から招いた商人たちに、江戸には富士山のような目印がない、と言われた家康が、藤堂高虎に高い天守閣を作らせたというわけである。
 確かに大坂、京都、鎌倉と異なり、江戸は間近に山がなく、しまりがない風景で、その中央に、日本のシンボルともいうべき雪を冠した富士山を写した白い天守閣を作れば、権力誇示には格好の手段になったと思われる。明暦の大火で天守閣は焼けて再建されなかったが、かわりを勤め、かつ富士山がよく見えたのが富士見櫓で、現在も皇居に残っている。
2)富士山建築など
 建築が丸ごと富士の形になりきってしまった例もある。板橋区の羽田彫刻店、荒川区役所前の看板建築は建物ファサードが富士山形であり、さらに荒川区役所前のものは、上端が富士山を宗教対象として描くときに用いられる三つ峰形になっている。また千代田区の額縁店優美堂は、雪を冠したリアルな富士山形の大看板を掲げている(藤森、1987)。
 東京以外でも、東海道線三島駅舎(静岡県三島市)、真理の具現により理想社会,地上天国建設をめざすという神慈秀明会の神苑、教祖殿(滋賀県信楽町)などが知られる。
3)絵画に描かれた富士山
 広重の例でも知られるように、江戸・東京の都市絵でバックの一番良い位置に富士山を描いた絵柄は無数にある。都市内で人間の視点から都市空間を描きながら、その背後にシンボルの山富士山が描かれているわけである。これは陣内秀信によれば「一歩城壁の中へ入ってしまえば、そこはもはや自然から遮断された人工的な都市空間」である西欧都市ではありえないことで、江戸では都市内部と外に広がる自然風景との間に緊密なやりとりがあるのだという(陣内、1988)。
4)富士山の意匠
 藤森は都市探検によって、富士山の意匠を型どったり描いたポスト、防火水槽、かき氷機などを発見しているが(藤森、1987)、社章、ロゴマークなどにも富士山を用いたものは多い。また1872(明治5)年新橋、横浜間の鉄道開業式には、新橋駅に富士山の作り物が飾られた(田中、2000)というが、現在も東京の玄関である東京駅貴賓室松の間に、横山大観の「富士に雲」が飾られている(舟越、1987)し、ロビーなどに富士山の絵、写真が飾られた事務所、商店、飲食店、そして個人の家は多い。
2.人工富士山
1) 庭園の富士山
 浜離宮庭園(中央区)にも富士見山が残るが、江戸の武家屋敷の庭では、多くが池を堀り、その土で富士山を意識した山が築かれた。中には実際に富士山と呼ばれていたものもあり、富士山に見立てた山を下から眺め、そして登って本物の富士山を見た。富士山を自分の庭に取り込んでしまったのである(田中、1994)。また新宿区戸山にあった尾張藩戸山荘の余慶堂では、富士山を見るためにその部分だけ林の上を平らに刈り揃え。緑の額縁で富士山を絡め取り、木の間之富士と呼んで眺めたという(小寺、1989)。
 商人の屋敷でも同様で、清澄庭園(江東区、旧紀伊国屋文左衛門屋敷)の築山は富士見山と呼ばれる。富士山として造られたもので、関東大震災までは芝山、さつき、つつじ、を横に並べてたなびく雲を表現し、枯山水の富士川があった。実際に富士山が見えたので富士見山に変わったのかもしれないという。
 明治の成金の中には、大庭園の中に東海道五十三次を再現、富士山や華厳の滝を作り、芸者と記念写真を撮るといった人もいた(荒俣、1987)。甲武鉄道などで知られる甲州出身の交通王雨宮敬次郎の場合は、還暦の祝いに、230人の人夫を動員、13000本の丸立木を組み、麹町の自邸に高さ75尺(約22.5m)の富士山を作ってしまった。屋上一面は柿葺で、上は水色、浅葱、白3色の木綿で包み、五合目以上の雪を頂いた富士山を写したのである。この富士山は登ることもできたが、そのまま430坪の食堂の屋根となり、裾穴から入り、中で2000人余りの祝宴を開いたという(藤森、1987)。
2)富士山の見せ物
 浅草寺五重塔は明治初年、修理の資金を調達するために工事用足場を有料で公開したところ大当たりで、1886(明治19)年には修理のめどが付いた。
 これを見ていた香具師寺田為吉は、翌年11月、六区4号地に木骨石灰塗り込めのハリボテ富士山を作り、富士山縦覧場として行楽客を集めた。高さ32.4m、裾周り270m、頂上の広さ25坪で、螺旋状登山路を作り、頂上を展望台にした。結局台風で壊れ、2年半で取り壊されてしまったが、跡地はパノラマ館となり、現在はROXがある浅草の一等地である。
3)現代の富士山のうつし
 品川区の旧東海道八つ山橋にある八つ山コミュニティー道路には、東海道五十三次のミニチュアがあり、小さな富士山もうつされている。また江戸川区の堀江八号公園には、江戸川富士がある。昭和40年代、葛西南部地域の区画整理事業の残土で記念物を作ろうという地元民のアイディアで、1988(昭和63)年完成、海抜11mである。
 都外では、日本住宅公団(現都市基盤整備公団)が開発したきよみ野団地(埼玉県吉川市)に、高さ16mのきよみ野富士が作られ、都市景観大賞に選ばれた。関東平野の平坦低地に立地する団地のシンボルとなるものとして、富士山が選ばれたのである。また富士急ハイランド(富士吉田市)には、コースターフジヤマや、内部が富士大科学館になっている実物の1/200の富士山展望台がある。

第3章 富士山の力を取り込む
1.富士山を食べる
1)富士山の溶岩
 明治食品工業(静岡県長泉町)の溶岩糖は富士山の溶岩を砂糖で模したもので、比重こそ軽いものの、色はもとより、ぶつぶつと穴の開いた外観は富士山溶岩そのものである。
 富士山溶岩をスライスしたプレートも販売されているが、ステーキをその上で焼く店もある。銀座スエヒロ(中央区)では、気泡が入っているため、遠赤外線効果で柔らかくおいしく焼けるという。まぐまん(世田谷区)の溶岩焼も富士山で切り出した溶岩プレートを使用し、鉄板焼では得られないふっくら感が味を引き立てるという。これらは客に富士山の溶岩自体が力を与えてくれるとアピールするのである。
 食品以外でも、富士山の溶岩を用いた建材が販売されているが、住宅内に富士山の力が満ちて、元気に暮らせるからと、富士山の溶岩そのものを壁に用いた家もある。
2)富士山をうつした食品
 富士山をうつした富士煎餅などは全国各地に見られるが、富士山の周辺、箱根などでは、富士山の形をした富士山クッキー、富士山と雲海や樹海をヘーゼルナッツとアーモンドで表現したサブレーなどというものもある。また、ほさか(静岡県沼津市)が販売する富士山羊羹は、上部に雪を冠した高さ3cmの富士山形の小さな羊羹である。
 藤太郎本店(富士宮市)のこけもも羊羹の場合は、富士山の火山砂礫地に生え、仙人が不老長寿の実として食し、富士の霊果と呼ばれるこけももを羊羹の中に煉り込んだというのが売り物である。富士の山菓舗(富士宮市)の富士のこけももは、こけももを封じ込んだ落雁の棹物で、切ると霊峰富士の姿が現れる。
 他にも富士山麓産を称した牛乳、富士山麓の湧水を利用したビールなど、富士山にあやかった商品は多い。
3)富士見酒
 江戸時代には上方から樽廻船で酒が江戸に運ばれたが、単に下り物といわずに富士見酒と呼ばれた。海路富士見をして江戸にやってきたから美味になっているとされたのである(田村、1994)。現代では、富士宮市でこけもも酒が作られ、市販されている。
2.風呂屋の富士山
 東京で銭湯といえば、社寺風の宮造り建築に富士山のペンキ絵を思い浮かべる。ペンキ絵は1912(大正元)年、神田のキカイ湯に始まり、各地に広まった。特に多いのが、湯をたたえた大きな浴槽の後ろに海,湖、渓谷などが描かれ、その背後に富士山がそびえる、という図柄である。中には本物の溶岩を据えた銭湯もある。
 銭湯で入浴することは、東京という大都市にいながら、海、湖、渓谷、そして富士山の山懐に行き、マグマによって温められた温泉に露天で入ることを疑似体験することであり、銭湯もまた富士山という自然を東京にうつし、人々が容易に接触することを可能にするしかけである。人々はうつされた巨大な富士山を見ながら入浴することで、垢を落とし、明日への活力を取り戻すのである。
3.富士山を薬に 
 江戸の人々は,富士山の力で治療ができると考え、富士山から持ち帰った山水、黒ボク石は富士の加持薬として珍重された(文京ふるさと歴史館、1998)。富士山頂の湧き水金明水、銀明水は、飲むと病気が治る、とりわけ眼病に効く神水とされ、富士の加持水として山吉講が管理していた。金明水を使って描いた富士図もあったという。人穴内部の赤土を小さくまるめて天日干した人穴のオアカは、熱冷まし、傷、腫れ物、痛み止めに、富士山中に多い石楠花の木で作った箸は疝気に効くとされた(遠藤、1996)。
 また、胎内無戸室神社や裾野の溶岩洞穴は胎内とされて安産信仰の対象となり、江戸時代には、船津胎内の入り口でもらったタスキは産婦の腹帯にし、蝋燭は産室にともして安産を祈った。登山に用いる金剛杖は、富士山の八つの峰と八つの沢を象徴する八角の棒であるが、下山するときは逆さにして、土のついた部分には紙をかぶせ、ミズヒキでしばって持ち帰り、土を虫歯の薬にした。杖は先で突いてデベソを直すのに用いられた(遠藤、1996)。
 さらに富士山の赤土は火防に効果があるともいわれたのである(遠藤、1996)。
4.徐福の仙薬さがし
 司馬遷の『史記』には、秦の始皇帝の支援で、徐福が数千人の童男、童女、五穀、百工(技術者)を率いて、東海の小島の神仙が住む山蓬莱山にあると言われる不死長生の仙薬を求めて出航したという記述がある。徐福伝説は全国に20カ所以上あるが、富士北麓には、徐福が富士山にたどり着き、秦氏の祖先となり繁栄したという伝説があり、現在も富士吉田市には子孫とされる羽田姓が400軒近くある(羽田、2001)。富士山は長生不死の仙薬を産する山とされてきたのである。
第4章 霊峰としての富士山
1.富士山の成立
 古来日本には、山そのものを神の霊の宿る御神体とみなす考え方があった。江戸・東京の人々の富士山へのこだわりの背景にあるのも、実は単に富士山が日本一高い山であることではなく、特別な力を持った霊山だという考えである。
 富士山の土台ができたのは数十万年前で、約80000年前には古期富士山が活動を始め、約10000年前にほぼ今日のような円錐形となった。その上に約6400年前に始まった噴火による降下物が積もって現在の姿になったとされる(羽田、2001)。他方伝承では、「孝霊5年あれを見いあれを見い」という川柳が広く流布されており、富士山が孝霊天皇5年に一夜で湧き出し、その時近江の地が裂けて琵琶湖ができたという。他にも宣化天皇の時に海中から湧き出た、天竺の列擲3年に日本に飛んできたというものもある。南北朝末期から江戸初期には孝安天皇92年説が出た。その年が庚申の年だったため、江戸時代には庚申縁年という言葉がもっぱら使われるようになり、その年は女性の登山が許され、大祭が行われ、孝安天皇92年説が定着した(遠藤、1996)。
 他にも、駿河と甲斐の中間に山を作り、神の集合地として四方を見渡し、悪神を退散させようとした神々と、それに対抗した天狗が山の作り比べをして、負けた天狗が作ったのが榛名山、神が作ったのが富士山となった。神がこのとき土を運んだ窪みが琵琶湖で、土を落としてしまったのが近江富士とよばれる三上山だというものもある。
 すなわち富士山は、神々の威信である悠久と正義を表象したものとして生まれた、とされるである。また噴火についても、岳麓地方の伝説では、山には善悪を裁く神がいて、悪人が増えてくる頃になると火を噴いて怒ると言い伝えられていた(遠藤、1996)。文字どおり富士山は、その成り立ちから神々の山、霊峰なのであった。
2.信仰の山へ
 富士山の火山活動は、生活を脅かしたから、鎮謝するために浅間神社が立てられ、山は神としてあがめられ、位階を授けられるまでになった。山岳信仰の影響が及ぶと、山にこもり、修行する者も現れ、頂上に大日寺が建てられ、南麓には修験道場ができた。
 やがて19才で富士山に登り、剣ケ峰に剣を突き刺して天に昇っていったという伝承があるコノハナサクヤ姫が、人界と天界を結ぶ橋渡し、富士山の開山とされ、江戸初期には富士の祭神、山神としてまつられるようになったのである。コノハナサクヤ姫は天孫ニニギの子を身ごもり、富士山で3児を出産、その場所が胎内無戸室神社であるといった地名伝説も生まれ、溶岩洞穴の入り口が女陰を表し、内部にも産道、えな石、といった出産に関した名称がつけられた(遠藤、1996)。
 裾野にも船津胎内、吉田胎内、印野胎内、須走胎内、精進お穴などがあり、内部の溶岩造形物は母の胎内、父の胎内、エナ石、安産石などと、出産に関わる見立てがなされている。また精進お穴は、生死の胎内とされ、ここをくぐり抜けることは蘇生復活を意味すると教えられた。元々は神山であったのが、山岳仏教が入り込んで仏化され、浅間大菩薩が大日如来とともに山を鎮めてきたが、江戸時代になって再び神が復活したのである(遠藤、1996)。

第5章 富士山の宗教
1.富士講
 富士講は食行身禄によって開かれた、富士山を信仰対象とする江戸時代の宗教組織である。基礎を築いたのは角行藤仏(1541−?)で、役行者から、富士山の神が天地開闢世界の柱であり、日月、浄土、人体の創造主であり、この神から神力を授けてもらうことを啓示された。角行は富士山人穴などで修行を行ない、1620年には江戸の流行病治癒祈願を行ったという。1733年には、弥勒菩薩が地上に下り理想世界を作るといわれる釈迦入滅後56億7千万年後を待たず、自ら弥勒菩薩に代わって理想世界建設を進めようと、六世の身禄が富士山で断食を経て入定、これをきっかけに、江戸市民の関心を高め、「江戸は広くて八百八講、講中八万人」と呼ばれるほどに、多くの講が結成された。
 明治維新後は宍野半によって結成された扶桑教、柴田花守の実行教、伊藤六郎兵衛の丸山教などの教派神道として組織化されたもの、独自の講のまま活動を続けるものに分かれ、今日に至っている。
 富士講は、三千大世界我山の流れなりと言い、富士山を世界山とし、創世神話では富士山があらゆる種のもとを降らせたのであり、富士山から天地すべてが発生したという。富士の内部には呪術的な文字で表す父と母が入っており、神道のイザナギ、イザナミでもあり、火と水でもあり、道教で男女の象徴として使われる土と金でもある。これら男女の象徴が交わり合って富士から万物が生み出されるという。それゆえ富士の人穴は冥界への入り口であると同時に、胎内めぐりとも表現されるように、あらゆるものを生み出す子宮に見立てられているのである。
2.富士講と富士登山
 各講には行を積んだ信仰の指導者である先達、運営の責任者である講元がおり、毎年富士登山を行った。古代からの富士信仰が富士山に足を踏み入れることを厳しく禁止していたのに対し、富士講は富士登山を一番の宗教行事として、登山回数の多さを信心深さの証としていた。富士山に登り、富士山の神、他界に接することで、身も心も清浄にしようとしたのである。登山は、6月1日の山開きから8月26日の山終い(やまじまい)の間に行われ、通常は甲州街道、大月を経て富士吉田に向かい、御師宅で宿泊、上吉田の浅間神社に参拝してから登山、身禄が入定した七合五勺の烏帽子岩で拝み、山頂近くの室に宿泊、翌朝ご来光を拝してから登頂、奥宮に参拝する、というものであった。富士吉田市は、その登山基地として栄えた町である。帰路は須走、足柄峠から大雄山道了尊、大山の石尊大権現に参拝、厚木街道を経て江戸に戻るか、江ノ島、金沢八景を回って帰ることもあった。
 他に、毎月経典を読じゅする「月拝み」、富士山型に積んだ線香を燃やす年数回の「お焚き上げ」などが行われた。
 現在も東京に残る唯一の富士講である高田馬場の丸藤宮元講は、お焚き上げはもちろん、交通手段こそ変わったものの、富士吉田の御師宅に宿泊、浅間神社、烏帽子岩などを参拝、ご来光を仰いでから登頂、奥宮に参拝し、噴火口のまわりで、コノハナサクヤ姫の像を出して参拝、という富士登山を続けている。
3.富士塚
 富士山が須弥山、蓬莱山に見立てられ、その富士山を縮小しながら見立てたのが富士塚である。場所は神社、寺の境内で、低いものは2m、高くて12m、土を盛るか境内の斜面を利用した。富士山の溶岩(黒ボク石)を土盛りの表面に埋め込み、登山道も作り、1合目から10合目までの標石を置く。開祖が風穴で悟りを開いた故事にちなみ、一か所溶岩で洞穴を作る。石材に大日如来、大権現と刻み、富士に住むという大天狗の像を置く(藤森、1987)。足元に富士五湖にちなんで池を掘ったものもある。
 第一号は、高田馬場の植木屋で、身禄の弟子、富士講の先達だった藤井藤四郎が作った高田富士である。1770(安永8)年、高田の水稲荷社境内に、講仲間を集め、まず人々の髪を埋め、その上にそばの山を崩した土を積み、道をつけた。さらには富士山の溶岩で包み、山峯には八葉を型どった溶岩を据え付け、富士山頂上から持ってきた土を埋め込んだ。中腹には小御岳の石尊大権現を祭り、七合五勺の烏帽子岩、裾野の胎内くぐりも設けたのである。毎年6月1日には山開きを行い、江戸にいながらにして、月の障りの女性、病人でも「富士山の正うつし」に登れるようになったのである(遠藤、1996)。
 富士塚は、ミニチュア化が江戸人の好みに合った上、お札に書かれた言葉といった抽象的なものでなく、派手な、見せ物臭い即物的なものだから、富士講にとっては大きな宣伝効果をもたらした。そして次々結成された講が富士山を作りたがり、富士造山ブームとなったのである(藤森、1987)。
 蝦夷地の取締を命じられて千島に渡ったので有名な旗本近藤重蔵もその一人で、現目黒区三田に近藤富士を作ったが、そのために左遷され、さらに留守中に不法占拠した隣家との間で争いが生じて息子富蔵が殺人を犯し、重蔵は近江大溝の分部侯お預け、息子は八丈島へ流罪となってしまった、などという例もある(遠藤、1996)。
 結局明治時代にも13、大正時代に8、昭和時代に8基が築かれ、最後に作られたのは1936(昭和11)年である。都内には39基が現存し、そのうち14基は江戸時代のものである。またこの他江戸時代のものは、神奈川県に13、埼玉県に7、千葉県に1基現存する。
4.山開き 、七富士参り、植木市
 現在も6月1日か7月1日に講の信者が集まって、各地の富士塚を参拝して歩く七富士参りが行われ、駒込富士神社、下谷小野照崎神社などの山開き、浅草浅間神社の植木市なども有名である。富士塚で6月1日に売られる麦藁蛇は厄よけとして人気があったが、1707年の大爆発後は特に人気が高かったという。現在も駒込富士神社では麦藁蛇が招福の縁起物として売られている。
5.新興宗教と富士山
 新興宗教、カルトの中にも富士山にこだわるものは多い。創価学会がここに所属する講の一つとして出発した日蓮正宗総本山大石寺は富士宮市にある。平和運動で知られる藤井日達が設立した日蓮系の教団、日本山妙法寺も静岡県富士郡である。
 近年では、1995(平成7)年に地下鉄サリン事件などを起こした、麻原彰晃を教祖とするオウム真理教が富士宮市に本部を持ち、山梨県上九一色村にサティアンと称する施設を設けていたことはよく知られている。さらに、足裏診断が詐欺として摘発された法の華三法行本部も富士市にある。

結論
 人は自然の力の前ではきわめて弱い動物であり、生活を妨げられ,生命も容易に奪われる。これに対抗して作り出されたのが文化であり、住居は風雨や日射から、医療は病気から、人々を防護する。都市も同様に、自然の気候から隔絶した地下街に見られるように、自然に対抗する大規模な仕掛けとして作られたものである。それゆえ都市もまた、基本的に反自然の空間であり、それは、山の中ではなんとも思われない雑草や野生動物が、都市では汚いと嫌悪されたり、闊歩したらおかしいとされることなどからも明らかである。
 しかしながら文化は万能ではない。医療がいくら進歩したところで、病気を根絶できるわけではないし、まして、なぜ他の人ではなく自分が病気になったのか、などといったことは説明できない。文化によってすべてが統制されようとする都市においても、人はストレスを蓄積し、活力を失い、老化し、病気になり、そして死ぬ。そうした時に企てられるのが、いったん排除した自然の力の導入である。
 江戸・東京においては、その代表例が富士山である。富士山は噴火する。噴火とは地球のマグマの噴出であり、マグマのエネルギーは地球に生きる全生物の命の源である。そうした富士山をランドマークとして江戸の都市計画は始まったが、そこに暮らす人々も、日々拝み、さらには富士山に登ることによって、富士山の力にふれ、自らの生命に力を得ようとした。さらには、富士塚を初め、さまざまなうつしを作り、富士山の力を、江戸・東京に引き込もうとしたのである。
 荒俣宏も風水の見地から、高台に築いた富士塚は龍脈を町内に走らせ、風穴のうつしである胎内は大地のエネルギーを勧請して都市を豊かにするという風水的役割を果たしたと述べている(荒俣、1987)。要するに富士塚をはじめとするさまざまなうつしは、いわば富士山の力を江戸・東京に導き入れるためのコンセントであるといえよう。
 西欧の都市は、自然から完全に遮断された人工的な都市であるといわれる。それに対し、江戸・東京という都市は、富士山という大自然を取り込み、その力を利用する様々な仕掛けが作られていた。都市空間が外部の自然と完全に遮断されているのではなく、緊密なやりとりが行われているのである。江戸・東京も、無論、都市としての基本的な性格から、一方で自然を排除する。しかし他方では、文化の不完全さを補うものとして自然に依存しようとするわけであり、富士山は、江戸・東京という都市、日本文化における都市というものの姿を示してくれるだけでなく、さらには、文化というものの真の姿をも明らかにしてくれるものといえよう。

文献
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朝日新聞、1996年2月24日
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文京ふるさと歴史館、1995、『江戸の新興宗教 ―文京の富士講― 』
童門冬二、1999、『江戸の都市計画』、文芸春秋社
遠藤秀男、1996、『富士山歴史散歩』、羽衣出版
藤森照信、1987、「富士憑きの都市」、藤森照信、荒俣宏、春井裕編、『東京路上博物誌』、鹿島出版会
舟越健之輔、1987、「東京駅24時間の探検」、『東京駅の世界』、かのう書房
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小寺武久、1989、『尾張藩江戸下屋敷の謎 虚構の町をもつ大名庭園』、中央公論社
毎日新聞、2001年9月17日
田村明、1994、『江戸東京まちづくり物語』、時事通信社
田中聡、2000、『地図から消えた東京遺産』、祥伝社
田中優子、1994、『現代見立て百景』、INAXギャラリー
横関英一、1981、『江戸の坂東京の坂』、中央公論社