江戸・東京の身体論
斗鬼 正一
2005(平成17)年2月
『情報と社会』第15号、江戸川大学
概要
江戸・東京という、実は空間的にその存在が明確でない都市のアイデンティティを、身体論的視点から考察。
行政、地理、地名、飛び地といった一般的視点にとどまらず、都市の象徴的門、都市の中の異国、風景や地名のうつし、他界、異界との象徴的境界等多様な境界を明らかにし、さらにそうした境界的空間への、穢れの排除と差別の歴史をたどることによって、アイデンティティの面でも変動の激しい江戸・東京という都市の本質的理解を目指した。
p111-124(全180ページ)
はじめに
1.東京はどこにあるのか
カモシカが出没する奥多摩の山中も、伊豆諸島も、そして小笠原諸島も行政的には東京都だから、南へはるか1,000kmの父島では品川ナンバーの車が走り、MX(東京メトロポリタン)テレビが都政だよりを放送している。北緯20度25分、東経136度5分で日本最南端、北回帰線よりも南の沖ノ鳥島も、北緯24度17分、東経153度59分で日本最東端の南鳥島も東京都で、日本の200海里経済水域のうち3分の1は東京の海、ということになる。
また東京から長野県まで20数キロしか離れていない、などと言われてもまったく納得できない気がするが、行政区画を地図の上で見ると、直接接してはいないものの、東京都西多摩郡奥多摩町から長野県最東端の南佐久郡川上村までは確かに20数キロしか離れていないことがわかる。
こうした東京の姿は、しかしながら、実際に私たちが知っている、考えている東京の姿とはあまりにも異なっているといえるだろう。
2.見えない都市・東京
夏目漱石『三四郎』の主人公が、東京に出て来て驚いたことは、どこまで行っても東京が終わらないことだった(夏目、1988)。地方都市の多くは輪郭が明確で、飛行機からも、田園地帯の中に市街地の姿がはっきりと見える。鉄道、車からでも、田園地帯から住宅の固まる市街地に入ることがわかる、という都市は多い。盆地に広がる都市も周囲が山で、輪郭は明確である。大阪も、衛星都市を含めれば、周囲は山と海に囲まれているから、都心からも良く見える生駒山などで輪郭がわかるし、京都の中心地域も、東山、北山、洛西の山々に囲まれ、洛中、洛外は今日でも視覚的によくわかる。
ところが、東京の場合、飛行機からも、鉄道、車からも、これが東京、という目に見える形はほとんどない。多摩川下流は神奈川県境だが、やはり巨大な川崎、横浜、さらに湘南へとどこまでも家並みが続く。東海道本線でようやく多少まとまった田畑が見えるのは、東京駅から60キロも離れた平塚を過ぎてからだ。千葉県境は江戸川、埼玉県境にも荒川があるが、やはり対岸は市街地である。東京はまさに「見えない都市」(カルビーノ、1977)なのだ。
3.東京という都市の身体論
人にとって、一定の空間を占める身体は、自分が自分であることを、ある人がある人であることを確認する不可欠な要件である。同様に、人が作った都市というものも、一面では、一定の空間を占める、つまり身体を持つものであり、それが東京は大阪とは別の都市であることを、つまり東京という都市のアイデンティティを、背景から支えているはずなのである。
ところが東京という都市は、その空間的背景、つまり姿、身体が不明確なのだ。本稿は、政治、経済、文化の中心であり、日本最大の都市であり、日本人の誰もが密接なかかわりを持つ都市でありながら、東京とはどこなのか、という単純な問いに、実は答えられない、ということにどんな意味があるのかを検討し、都市の空間とそこに暮らす人々のアイデンティティのかかわりを考察することを目的とする。
第1章 江戸・東京の変遷
1.縄文時代の江戸・東京
無論江戸時代以前に江戸・東京という都市は存在しないが、現在の東京に相当する空間で確認された最初の「東京人」は、約5万年程前、現在の多摩ニュータウン稲城市の多摩丘陵に住んでいた人々である。この氷河時代は、今より冷涼な数波の氷期とその間の間氷期があったが、海面が最大130mほど低下、海岸は浦賀水道付近まで後退し東京湾はほとんど陸地で、現東京湾の中央やや西側を古東京川と呼ばれる大河が流れていたこともある(竹内他、1997)。
2万年程前からは気温が上昇に転じ、12000、13000年前には縄文時代となったが、気温の温暖化により氷河が融け海面が上昇、約6000年前の縄文時代前期には、東京湾の海面は現在より3m程高く、海岸線は群馬県藤岡市まで達していた(高橋、1996)。現在上野、赤羽間の線路に沿って見られる切り立った崖は、このころの波食崖である。
2.鎌倉時代以降の江戸・東京
鎌倉初期江戸重長の時代、江戸という地名は、現在の皇居から東京駅、日本橋周辺にかけてのごく限られた地域を指す地名であったと考えられている。
後北条政権下では、北条氏廉が家臣団の知行情況を調査し、基本台帳として作成した「小田原衆所領役帳」によると、石神井、滝野川、中里、市ケ谷、田無、南沢(東久留米市)、石原(調布市)なども江戸地域の中に含まれており(岡野、1999)、豊島郡、荏原郡全域を中心に、北は現在埼玉県の新座郡南部、西は多摩郡東部を部分的に含む広大な地域だったことがわかる(長塚、1992)。
3.江戸時代の江戸
1)江戸の成立と拡大
徳川家康が1590(天正18)年江戸に入り、1603(慶長8)年征夷大将軍となって江戸幕府が開かれ、総城下町として都市計画に基づいた建設が進められた。江戸は江府、江戸市域は御府内と呼ばれたが、家康入国の頃は江戸城周辺二里四方で、「本郷もかねやすまでは江戸のうち」といわれる範囲だった。明暦の大火の直前の1655(明暦元)年の町触では、馬に乗ってきた農民が下馬するように命じられたのは、ほぼ外郭の内側であったが、これも時期が下ると共に広がっている。また明暦の大火の後には、「川向こう」と呼ばれた本所、深川を含み、四里四方に拡大している(岡野、1999)。
2)町奉行支配
江戸には今日の東京都に当たるような統一的な行政組織はなく、支配は身分別に行われたから、町地は町奉行支配、寺社地は寺社奉行支配、武家地は大目付、目付支配と別々で、行政的に江戸の範囲がどこであるかは明確ではなかった。
中でも一般に江戸の範囲と理解されているのは町奉行の支配範囲だが、これも市街地の拡大と共に周辺の農地が組み入れられていった。当初はほぼ外郭内の古町(こちょう)300町と呼ばれる範囲だったが、1662(寛文2)年に芝、三田、飯倉から下谷、浅草に至る街道筋の代官支配の町300町編入、1713(正徳3)年には、本所、深川、浅草、小石川、牛込、市谷、四谷、赤坂、麻布辺りの、代官支配で町屋の成立した259町を編入、併せて933町となった。もっとも町並地の年貢の徴収は相変わらず代官が行ったから、二重の支配構造だった。また1719(享保4)年に本所、深川の開発に当たった本所奉行が廃止され、町奉行の支配となった。1745(延享2)年には、寺社門前地440箇所、境内227町が移管された。その結果、町奉行支配範囲は、下高輪、白金台町、目黒、白金、渋谷、千駄ヶ谷、巣鴨、駒込、谷中、坂本、箕輪、橋場、本所、小梅、深川猿江、永代新田、平野新田となっている。
3)御府内
御府内と呼ばれる範囲も4種存在した。1748(寛永元)年に決められた追放刑である江戸払の場合、立ち入れない範囲である御構場所は、品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸の内である。
寺社が普請、修復などのために、寄付を募る勧化(かんげ)を寺社奉行が許可する寺社方勧化場は、東は砂村、亀戸、木下川、須田村限り、西は代々木村、角筈村、戸塚村、上落合村限り、南は上大崎村、南品川宿、北は千住、尾久村、滝野川村、板橋の川限りとなっていた。
芝口の高札場で変死者、迷子の年令、衣服の特徴を掲示する札懸場の対象地域は、東は木下川村川通、中川通、八郎右衛門新田限り、西は代々木村、上落合村、板橋限り、南は品川より長峰六間茶屋町限り、北は下板橋、王子川、尾久川限りである。
旗本、御家人が御府外に出る場合に届け出が必要とされたのは、1791(寛政3)年の老中の指示では、江戸曲輪内(東は常盤橋門、西は半蔵門、南は外桜田門、北は神田橋門)から四里以内となっている。
4)朱引内
こうした異同はおかしいと、1818(文政元)年、目付牧野助左衛門から御府内外境筋の儀についての伺いが出された。これを契機に、勘定奉行、ついで評定所で評議が行われ、老中阿部正精から江戸絵図面に朱線を引いた幕府正式見解が示されて、御府内の範囲が決められた。これにより、東は中川限り(江東区まで)、西は神田上水限り(新宿区まで)、南は南品川宿を含む目黒川辺(品川区北側まで)、北は荒川、石神井川下流限り(北区南側まで)の、いわゆる朱引内(しゅびきうち)が決まった。この範囲は、町奉行支配地よりは広く、勧化場、札懸場とはほぼ一致していた(岡野、1999)。
4.明治の東京
1)東京府
江戸市街は、幕末の混乱でも上野周辺が焼失しただけで、1868(慶応4)年には、町奉行所、寺社奉行所、勘定奉行所のいっさいの書類が新政府の鎮台府へ引き渡され、町奉行所は市政裁判所(後に東京府)、寺社奉行所は寺社裁判所、勘定奉行所は民政裁判所と改称された。7月には東京改称が宣言され、鎮台府は関東、東北一帯の軍事的支配権を掌握することを目的とした鎮将府に改組された。行政機構は、南北の市政裁判所が江戸府に吸収されて東京府となり、8月には内幸町の旧郡山藩邸に東京府庁が開庁、地方行政体としての東京府が成立した。
旧町奉行支配地であった旧朱引内部は東京府となり、東京府に隣接した近郊農村を中心とする旧代官支配地は1868(慶応4)年武蔵県となった。複雑に入り組みんだ支配、管轄地は組み替え、整理が盛んに行われ、1869(明治2)年には、南西部に品川県(現区部南部、多摩地域南部)、北西部に大宮県(市域北部)、北東部に小菅県(区部北部)、東部に葛飾県(区部東部)が置かれた。多摩西部は神奈川県、一部は韮山県の所属で、入間県、前橋県に所属した地域もあり、さらに伊豆諸島は韮山県、後に足柄県に所属していた。
また東京府では、武家屋敷の荒廃、周辺部の統合などのため、町地と郷村地の境界とされた朱引が実状と合わなくなり、1869(明治2)年朱引を縮小、東は本所扇橋川筋、西は麻布、赤坂、四ッ谷、市谷、牛込、南は品川県境より高輪町裏通り、白金台2丁目、麻布本村町より青山、北は小石川伝通院、池ノ端、上野、浅草寺後より橋場町を境とした(竹内他、1997)。当時の東京府の管轄範囲は、町奉行所を引き継いだため町地に限られ、朱引内面積の20%程度にすぎなかった。
藩の屋敷は、藩の公邸、大名の私邸以外は上知となり、官庁、軍用地、公家の私邸などとされたが、江戸の面積の約60%を占めていた武家屋敷の荒廃が治安悪化を招いたため、1869(明治2)年桑茶政策がとられ、武家屋敷を桑畑、茶畑として開墾した。
1871(明治4)年廃藩置県が実施され、従来の東京府はいったん廃止、あらたに東京府を設置して、隣接の品川県、小菅県、浦和県、長浜県、神奈川県等の管轄地域の一部を編入、ほぼ現在の23区の範囲に拡大した。
また同年ころから、元々町名のなかった旧武家屋敷で、町地や農地に編入されるところも増え、翌1872(明治5)年の地券交付と共に、有楽町、霞ヶ関、内幸町、浜町、三田など新たに町名がつけられた。
1878(明治11)年、東京府の行政区画は再編され、市街化が進み府税納入の多い地域を区部15区、旧宿場町や近郊農村を郡部6郡とした。
2)東京市から東京都へ
1889(明治22)年5月1日、東京府15区で東京市が発足。府知事が市長を兼ね、市役所も職員も置かれなかったが、1898(明治31)年10月1日、一般の市制施行、府庁内に市役所が置かれた。
関東大震災後は、郡部に移り住む人が増えたため、多数の人々が東京市民でないにもかかわらず、東京に通勤し、生活基盤を持つ、という奇妙な、不便な状況が生じたため、東京市が拡大され、1932(昭和7)年、隣接5郡、82町村を編入、新たに20区が設置され、35区、人口580万、ニューヨークに次ぐ世界第2の大都市となった。さらに1936(昭和11)年には、北多摩郡砧村、千歳村を世田谷区に編入、現在の23区の範囲が東京市となった。
さまざまな議論があった都制案は、東条内閣の戦時体制のもと一気に決定され、1943(昭和18)年7月東京府、東京市は廃止、統合されて東京都となり、35区は特別区として都の直轄となった。
3)多摩
多摩地域は、開国以来横浜との結びつきも強く、武蔵県あるいは韮山県に、分割後は品川県などを経て神奈川県に所属してきたが、水源問題に端を発し、政治的利害の中で、1893(明治26)年に東京府に移管された。その後も東京市の膨張を背景に都制案が論議され、1923(大正2)年の帝都制案では、都制施行と共に神奈川県へ復帰させることとなっていたが、多摩は反対、東京隣接5郡と三多摩で武蔵県、多摩単独の多摩県といった案も出された。また1930(昭和5)年には、横浜都制施行と、横浜以外の神奈川県と三多摩を合併して新県をつくる横浜市長提案も浮上した。これらはいずれも実現しなかった。
また伊豆諸島は1878(明治11)年に静岡県から編入、小笠原諸島は1880(明治13)年に内務省から引き継いでいる。
4)戦後のスプロール
戦後1960年代には、経済高度成長が始まり、全国から就業、就学などのために膨大な数の人々が上京、溢れ出た人々は神奈川へ、千葉、埼玉へと移り住み、1980年代のいわゆるバブル期には、茨城、山梨、群馬、栃木といった遠隔地にも長距離通勤者が溢れ出ていった。行政上は別自治体である隣接県にも東京はスプロールしていったのである。
第2章 囲われない都市江戸・東京
1.江戸の門大木戸
江戸から全国に通じる街道のうち、東海道には高輪、甲州街道には四谷、中山道には板橋に大木戸が設けられていた。このうち今も石垣が残る高輪大木戸は、1710(宝永7)年芝口門に創建され、1724(享保9)年現在地に移転したといわれる。当初は柵、土手、石垣そして門があり、門番所もあって夜は閉じられていた。その後たびたび火事に遭い、江戸時代後期には石垣、土塁、高札所だけとなった。一帯は浜遊び、月見の名所だったこともあり、茶屋などが多く、東海道を旅する人々の送迎の場、旅装を整える場として賑わった。伊能忠敬が全国測量の起点としたのもここである。
2.都市の門としての橋
隅田川でもっとも古く、1594(文禄3)年に架橋された日光街道千住大橋は、江戸に入る関門と意識され、松尾芭蕉が1689(元禄2)年、ここから奥の細道へと旅だったことは良く知られている。その後も陸路の帝都の北門と意識され、現在上り線に使われている1927(昭和2)年架橋の橋も、門を意識した桁が頭上に通り、大きなプレートに「大橋」と書かれている。現在でもこの橋は足立区の玄関口と意識されている。
江戸時代東海道の多摩川には橋が無かったが、京浜国道には六郷橋が架けられた。1925(大正14)年架橋、1984(昭和59)年まで使用された旧六郷橋はタイドアーチ橋で、陸路の帝都の南門として、両端がアーチ形の橋門になっている。
水上交通が重要だった鉄道以前の時代に、水上から見た都市の門として作られたのが永代橋で、帝都を代表する水路隅田川に屹立する水路の帝都の門と意識されていた。
東京市と北豊島郡南千住町を結ぶ最初の白髭橋も永代橋に似ており、これも、北からの水路で、千住大橋の次に現れる第二の帝都の門を意識したのではないかと言われる。
また隅田川に注ぐ河川の河口部の橋である第一橋梁でも、遠くからわかる下路式が採用され、橋の形で目的の河川がわかるようにデザインが変えられていた(伊東、1989)。
3.鉄路の門新橋駅、八つ山橋
鉄道の時代に入っても、最初のターミナル新橋駅は、文字通り東海道に架かる新橋のそばに作られ、1927(昭和2)年に至っても新橋を過ぎると帝都らしい(高浜、1999)と言われたように、帝都の門の役割を果たしていた。実際新橋駅舎は、二つの建物の間を通って、ホームに出入りする形であり、門が意識されたデザインだったのである。
また東海道の八つ山橋は、新橋、横浜間の鉄道建設時に八つ山を切り開いたため、日本初の跨線橋として作られたタイドアーチ橋である。凝ったデザインが帝都の門であることを示していたが、上り列車が品川駅到着直前に通過する切り通しの上に架かり、陸路でも東海道品川宿の北端で、実際明治初期には東京府と品川県の府県境、後には東京市芝区と荏原郡品川町の境だった。
4.囲われない都市
ヨーロッパや中国では、周囲が市壁に囲まれ、現在も都市の門として城門が存在する都市は多い。唐の都長安を模した平安京も当初は周囲に囲壁があり、羅城門が設けられたが、やがて壁は消え、門だけが残った。豊臣秀吉がお土居を構築し、都の一部を囲ったこともあったが、これもまたじきに消えている。
江戸の場合も、庶民の居住地を包含して市壁が囲うということはなく、入口、出口とされたのも点であった。現在でも、東京都の行政区域は一部未確定地を除いて周囲を囲む形で設定されてはいるが、都県境を示す標識は主要道路上に点として立つだけで、線としての境界は標識がないだけでなく、あまり意識されることもない。
第3章 江戸・東京の中の異国
1.江戸の中の異国
江戸には全国諸藩の藩邸、すなわち江戸屋敷が設けられていた。当初は各藩1カ所だったが、1657(明暦3)年の大火後、危険分散のため上中下の3屋敷が与えられた。大名は徳川家の家臣ではあるが、各藩は独自の法を持ついわば独立国であり、文化的にも今日とは比較にならないほど異なっていた。そして各屋敷には、参勤交代の大名や単身赴任の家臣達が、国元からかわるがわるやって来る。さらに大名の妻子は江戸屋敷に暮らすことを義務づけられていた。屋敷内は町方の立ち入ることのできない治外法権の空間であり、物理的には江戸にありながら各藩そのもので、たとえば長州藩邸の内部空間は長州だった。
加えて江戸には幕末で、大名屋敷地が2771ha、一般武家屋敷地が1878haあったが(正井、1975)、町人地のような町名すら付けられていなかった。つまり江戸の面積のうち69%は、江戸でありながら江戸でない、という奇妙な空間だったのである。
2.江戸の中の彦根藩領
現世田谷区の地域では、寛永年間以来20か村は井伊家江戸屋敷賄料として彦根藩領で、現在も屋敷が残る代官大場氏が支配していたし、駅名にもなっている豪徳寺は井伊家菩提寺である。1869(明治2)年の版籍奉還で私有地から一行政区画に変わったが、旧藩主が知藩事として支配を続けたから、明治になっても、東京にありながら旧彦根藩領は彦根県、という状況だったのである(竹内、1997)。
3.東京の中の異国
日米修好通商条約によって、江戸にも外国人のための居留地を作ることとなり、1868(明治元)年、隅田川河口の武家地であった築地明石町に築地居留地が完成した。1899(明治32)年の条約改正に伴い廃止されるまで、公使館、教会、ミッションスクール、病院、ホテル、レストラン、商社など西洋館が並び、外国人が暮らす西洋文化の窓口で、鏑木清方が「築地と木挽町とは常に何ものか清新な気流が感じられる」(鏑木、2001)と述べているように、文明開化の街だった。築地はいわば東京の中の異国だったのである。
4.東京の中の外国
東京には現在128か国程の大使館がある。これらの敷地内は、一般人が立ち入れないだけでなく、日本の国土でありながら日本の法律が適用されず、日本の官憲の力の及ばない治外法権の空間である。それゆえアメリカ大使館の中はアメリカ、ロシア大使館の中はロシアなのであり、東京の中の外国、という奇妙な空間ということになる。
第4章 東京の外の東京
1.北海道の中の東京
1870(明治3)年、維新直後の東京の窮民授産、北海道の開拓を目的として、北海道の花咲、根室、野付の3郡が東京府に編入された(竹内、1997)。同年の年末までの短い期間ではあったが、この間東京から遠く隔たった北海道にも東京があったのである。
2.神奈川県の中の東京
読売巨人軍ジャイアンツ球場の所在地は、川崎市多摩区とされるが、中に東京の飛び地がある。屋内練習場の窓が破られ、ロッカーから選手のグラブが盗まれるという事件が起こり、神奈川県警多摩署員が駆けつけたが、破壊された窓は神奈川県だったものの、練習場の大半、そしてロッカーの置き場所も東京都稲城市とわかり警察も混乱、結局警視庁多摩中央署が捜査を始めるまでに発見から4時間もかかった、などという事件もあり、マスコミを大いに騒がせた。
3.埼玉県の中の東京
埼玉県の中に小島のように浮かんでいる練馬区の飛び地がある。新座市片山3丁目に、「本土」から60mほど離れて完全に孤立した、約60mX30mの長方形に2本の角が出た形の土地があり、細い道も横断しているが、この土地は東京都練馬区西大泉町1179番地である。住宅こそ建っていないが、この畑で作られた大根も練馬大根、という奇妙なことになっている。
4.多摩川対岸の東京
多摩川両岸には同じ地名が多数見られる。等々力は世田谷区と川崎市中原区にあるが、川崎側は元々東京の等々力村の飛び地である。野毛も世田谷区上野毛、下野毛と、川崎市高津区下野毛があるが、高津区下野毛は明治末まで東京府荏原郡である。逆に東急多摩川線沼部駅に名が残る沼部は、川崎市中原区下沼部の飛び地だったし、古市場は現在川崎市側の幸区にのみ残るが、元は大田区矢口3丁目付近も古市場村だった。世田谷区宇奈根と川崎市高津区宇奈根の場合は、元は共に多摩郡宇奈根村で、明治末の境界変更で分断されたのである。また丸子の場合は、大田区下丸子、川崎市中原区上丸子、中丸子と多摩川両岸に別れているが、江戸時代にはいずれも右岸にあり、後に流れが変わったために飛び地になってしまったという例である。
その他世田谷区玉堤側左岸に川崎市の飛び地があり、田園調布と川崎市等々力の間にある多摩川中州の島は大田区と川崎市にまたがるし、大田区本羽田3丁目、羽田2丁目の大師橋橋詰め部分にも約30mX200mの川崎市飛び地がある。
江戸川の場合も、両岸に江戸川区堀江町、千葉県浦安市堀江があるが、こうした例の多くは、かつて船が重要な交通手段だった時代には、川の存在はむしろ好都合で、農民が船で対岸の農地に通っていたりした名残である。
5.境川対岸の東京
境川をはさんだ町田市と神奈川県相模原市は、約18kmにわたって境界を接している。この境川は元々武蔵と相模の国境でもあるが、蛇行していて氾濫を繰り返すため、1971(昭和46)年に改修、蛇行は修正されたものの、都県境はそのままにされてしまった。そのため、両岸に小さな飛び地が点々と続く複雑きわまりない状況になったのである。飛び地を解消するには、同じ飛び地の全世帯の賛成が必要だが、住民登録、免許証から学区や商売の組合の所属まで変わってしまうため進まず、左岸の相模原市分の家は下水道がない、本来の市の広報紙が新聞に折り込まれないといったことになってしまった。建物がまたがっている場合は特に複雑で、住所は玄関のあるところになり、住民税は住所のある側に払うが、固定資産税は双方に払わねばならない。中には町田市だと思い込んで土地を買い、建築工事の途中で玄関が相模原市にある、と気づいたなどという例もある。
6.東京の地名をうつす
日本を代表するハイソな街銀座の名は各地にうつされ、○○銀座は全国に400以上もあり、地名に銀座と付けた例も50カ所以上ある。それゆえ、人影まばらな寂れた銀座、という奇妙な街が日本各地に見られる。
福島県の過疎地大信村では、イメージアップをはかるため、村内の地名などを赤坂、一ツ木通り、青山墓地などと東京の有名地名に変えてしまった。さらには新しく売り出す分譲地の地名を田園調布としようとして、本家田園調布におかしいと反対され、田園町府としている。
山口県徳山市にも、千代田町、有楽町、みなみ銀座、銀座通り、新宿通り、原宿町、代々木通り、代々木公園などと、まったく異質の街に多数の東京の地名が付けられている。
北海道奥尻島では、地震被災後の移転先として造成された住宅地に、山の手という新地名を付けている(朝日新聞、1995)。
東京近郊でも、埼玉県所沢市には北有楽町という町名があるが、これは新町名を市民から公募した結果、決められたものである。
また民間業者が付けるマンション名でも、埼玉県新座市に立地しながら、練馬区の地名大泉、東久留米市の地名ひばりヶ丘などを用いる、といった例は多い。これは、住所の一部であるマンション名に、東京地名が入ることを喜ぶ住民がいるためであるが、旅先などで、出身地や居住地を尋ねられ、実際は千葉、埼玉、さらには茨城県などであっても、東京と答える人が大勢いることとも共通する。
7.東京の名を冠する
全国各地に見られる東京堂、東京○○流通センターといった企業名、そして千葉県浦安市の東京ディズニーランド、東京ディズニーシー、成田市の新東京国際空港を初め、所在地が東京ではないのに東京と冠した例は多い。
官庁でも、東京防衛施設局、東京矯正管区はさいたま市、国土交通省東京航空交通管制部は埼玉県所沢市にある。東名高速道路の東名横浜インターチェンジは一部東京都町田市にまたがっているが、東京料金所の所在地は川崎市宮前区である。日本山村硝子東京工場は神奈川県相模原市、伊藤ハム東京工場は千葉県柏市、風月堂東京工場は埼玉県八潮市、第一パン金町工場は三郷市、タキロン東京工場は茨城県新治郡千代田町、ホシデン東京工場は群馬県伊勢崎市にある。また東京カントリー倶楽部は神奈川県秦野市、東京国際空港ゴルフ倶楽部は千葉県香取郡多古町、東京ゴルフ倶楽部は埼玉県狭山市、東都埼玉カントリー倶楽部は秩父郡小鹿野町、東都秩父カントリー倶楽部は秩父市、東都飯能カントリー倶楽部は飯能市、新東京ゴルフクラブは茨城県岩井市にある。テーマパークでも、東京ドイツ村は千葉県袖ヶ浦市にあるし、東京ゲームショー、モーターショーは千葉市の幕張メッセで開かれている。
大学では、東京情報大学は千葉市、東京国際大学は埼玉県川越市、東京福祉大学は群馬県伊勢崎市、そして西東京科学大学(現帝京科学大学)に至っては山梨県上野原町にある。山梨県甲府市には、帝京西東京予備校もある。逆に、町田市の玉川学園キャンパスの一部は横浜市青葉区奈良町、国士館大学多摩校舎は多摩市、町田市、そして川崎市麻生区にまたがっている。
8.東京の風景をうつす
1996(平成8)年建築のJR高崎線深谷駅舎(埼玉県深谷市)は、東京駅舎が深谷産の煉瓦で作られたことにちなみ、橋上ながら東京駅のコピーになっている。
メルヘン建築の町を標榜する富山県小矢部市には、東京駅を五分の一に縮めたサイクリングターミナルがあり、他にもニコライ堂、明治神宮絵画館、服部時計塔、霊南坂教会、赤坂プリンスホテルを模した保育園、東京大学、一橋大学を模した小中学校、村山貯水池の取水塔をうつした配水池、日比谷野外音楽堂を模した音楽堂など、たくさんの東京の風景がうつされている。
こうした町では、田園地帯の中にいながら、あたかも東京都心にいるかのような錯覚を起こさせる奇妙な風景が現出されているのである。
第5章 他界、異界と境界的空間
1.両国橋
両国は、その名の通り、かつては武蔵、下総の国境とされ、隅田川左岸の開発に伴って、江戸に組み込まれていった文字通りの境界的空間で、元国境に架けられたのが両国橋である。その両国には、現在も国技館があり、大相撲が行われているが、江戸時代に回向院が無縁仏の供養を兼ねて勧進相撲を開催していたのは、力士が生きた仁王として江戸を守り、不幸な死者を慰め、冥府の世界から両国橋を渡って侵入しようとする邪霊を踏み破る役割を期待されていたからだという(荒俣、1999)。
また両国橋東詰は、江戸時代、大山詣の人々が、出発に際して水垢離を取った場所である。大山(神奈川県伊勢原市、厚木市、秦野市)は、特徴のある三角形で、江戸からも見えたが、別名雨降(あふり)山ともいわれ、農民には雨乞いの、漁民には大漁祈願の対象とされた霊山で、修験者の行場とさ+9れ、先祖の霊の行き着く山とも考えられていた他界である。近世には御師の活躍で大山信仰が発展し、関東一円で大山詣が行われ、山頂まで登拝が許された旧暦6月27日〜月末の初山、7月13〜17日の盆山はことに賑わった。両国橋は、江戸各町の講社が、大きな木刀を持って厚木街道を大山に向かうに際し、水垢離をとるべき場所として選ばれた(坂本、1988)。両国橋は邪霊の棲む冥界、異界、他界に通じると考えられ、防御の仕掛けが置かれるべき場所だったのである。
2.五色不動
目黒、目白は区名、駅名として知られているが、青、黄、赤、白、黒の五色は、地、水、火、風、空を表し、徳川家光がこの五色を不動の目とし、東西南北中央の五方眼で江戸を守るために、目青、目黄、目赤、目白、目黒の五色不動を指定した。実際には方角は一致していないし、目黄不動は3箇所あったりするが、江戸城を周囲で守護する呪的結界の一つなのである。
五色不動が置かれたのは江戸周辺部の境界的空間で、異界に通じる、超自然的存在の侵入してくる空間と認識され、それに対する防御が図られたのである。
3.鬼門封じ
都市の東北は鬼門、南西は裏鬼門として、鬼が侵入してくる方位と考えられていたが、鬼門の防御施設とされたのは、江戸城から日光街道を東北に下った江戸の町はずれで、その先は一面の田んぼだった浅草寺であり、ここが鬼門封じの寺とされた。さらに上野には寛永寺、東海道を下った裏鬼門に当たる芝には増上寺が設けられ、将軍死亡の場合、死体はミイラとされ、交互に埋葬されて、生きたままの姿で江戸城を守護するものとされた(内藤、1996)。
4.七不思議
江戸の七不思議は、置いてけ堀、消えずの行灯などの本所七不思議、古川の狸囃子、狸穴などの麻布七不思議が有名だが、他にも千住、霊岸島、東海寺などが知られている。これらは、埋め立て地などの水辺や、拡大する江戸市街地のはずれなど、当時開発により江戸の拡大が進んだ地域で、そうした地域が、怪奇現象が起こるような場所とされていたのである。
5.江戸川乱歩の事件現場
江戸川乱歩の描いた怪奇殺人事件の現場は、地下室、地底、水中、水底といった、都市空間と自然との接する空間が多いが、これを地図上で見ると、特に多く選ばれているのが上野、浅草、南千住、千住大橋など鬼門にあたる北東部、そして両国橋、吾妻橋、勝鬨橋を初めとする隅田川沿い、隅田川河口、お台場など臨海部、青山、大塚、団子坂、天王寺、隅田公園、向島、尾久、西大久保、戸塚などである。旧江戸市街地、東京市と郊外との境界的空間は、乱歩によって、不気味な殺人事件が起こる場所としてふさわしいとして選ばれたのである(富田、1994、1997)。
6.犯罪多発地域
町田市と神奈川県相模原市との都県境が入り組む小田急線、JR横浜線町田駅付近は、110番通報の混乱など深刻な問題があり、犯罪多発地域となっているし、駅前にもかかわらず、無法地帯といってもよい大規模な売春街があり、昼間から外国人女性が路上に立って客を引く。近くにはラブホテル街もあり、昼間でも近寄りがたい、市民から嫌悪される一帯となっている。
その他の地域でも、1992(平成4)年には、東京、神奈川都県境で警察官殺傷、人質立てこもり事件、1997(平成9)年から2002(平成14)年にかけて、東京、千葉都県境で一人暮らしの女性が襲われる事件が20件続発、2003(平成15)年2、3月には、江戸川区、町田市など、都県境付近の交番を次々にねらった空き巣事件が発生している。
7.ゴジラの上陸地
1954(昭和29)年、映画「ゴジラ」の第一作が公開された。原水爆実験で海底から現れた怪獣ゴジラが東京に上陸し、都市を破壊し尽くすが、この初上陸の場所として選ばれたのが、かつて江戸と品川宿、東京府と品川県、東京市と郡部の境界だった八つ山橋付近で、現在品川インターシティー、グランドコモンズとなっている操車場を壊し、東海道線上り電車を破壊、八つ山橋を一撃で粉砕して海へ去っていった。八つ山橋は見たこともない異形の破壊神ゴジラが侵入してくる入り口とされたのであり、現代においても境界的空間は、異界への入り口ととらえられているのである。
第6章 境界的空間への排除と差別
1.悪所
江戸最大の悪所である遊郭は、当初日本橋(中央区)の葭原にあったが、江戸の拡大と共に移転させられた。移転先新吉原(台東区)は、日光街道を下り、小塚原の手前の江戸の町をはずれた浅草田圃の中である。また東海道品川、甲州街道新宿、中山道板橋、日光街道千住にも遊郭が設けられていたが、いずれも江戸の町を出て最初の宿場である。
遊郭と共に封建社会において悪所とされた芝居小屋が、日本橋から追放されて集められたのも、浅草寺の北、吉原の南で、隅田川にも近い猿若町(台東区)であった。
また元国境で、旧市街と川向こうを結ぶ両国橋の橋詰は、見世物、茶屋など遊興施設が並ぶ江戸最大の歓楽街となった。
明治になっても、東京一の歓楽街となったのは浅草であり、関東大震災後市街地が拡大すると共に歓楽街が作られたたのも、旧東京市と郊外の接点で、郊外電車のターミナルでもある、渋谷、新宿、池袋などであった。
2.犯罪者の排除
都市には必ず犯罪が発生するから、犯罪者というケガレた存在を排除する場が必要となる。江戸が小都市であった1603(慶長8)年に作られたのは常盤橋外獄舎だったが、市街の拡大した1677(延宝5)年には、江戸城からさらに隔たった小伝馬町に囚獄が設けられている。
お仕置き場(処刑場)が設けられたのは、日光街道を鬼門の方向に進み、町並みを過ぎ、現世との別れの場だった泪橋を渡り、最初の宿である南千住宿の手前、小塚原だった。ここには明治まで火葬場もあり、現在でも首切り地蔵が残されている。また東海道を裏鬼門に進み、品川宿を過ぎた所にも、鈴が森刑場が設けられた。
明治に入ると、1875(明治8)年市ヶ谷谷町に囚獄役所(後の市ヶ谷刑務所)、1878(明治11)年小菅監獄(現東京拘置所)、1810(明治43)年豊多摩監獄(後の中野刑務所、現在東京都下水道局中野水再生センター)、1895(明治28)年石川島監獄を移転した巣鴨監獄(後の巣鴨刑務所、東京拘置所)と、市街地拡大とともに当時のはずれに作られている。市街地化にともないこれらも廃止され、現在23区内に刑務所はなく、府中市に1935(昭和10)年開設の府中刑務所、そして八王子市に医療刑務所が置かれている。
3.病者の排除
1910年代、結核の蔓延にともない、公立結核療養所が必要とされたが、1915(大正4)年、東京市があげた候補地は、市内は2ヶ所だけで、豊多摩郡6ヶ所、荏原郡3ケ所、北多摩郡1ケ所、千葉県1ケ所である。気候、飲料水、風致、交通などを勘案したとして最終的に選ばれたのも、市外の豊多摩郡野方村江古田だった。
こうした衛生施設の設置によって、当時東京市の周辺部だった地域はかえって不衛生視され、地域住民自身も不衛生感を抱くという結果になっている(小居、2002)。
4.死者の排除
巨大都市には日々多数の死者が出る。最大のケガレである死を排除しなければならないが、明暦の大火の後、膨大な死体を埋葬する場として選ばれたのも両国橋詰で、諸宗山無縁寺(回向院)が設けられた。以後、隅田川に漂う洪水犠牲者も両国橋あたりで引き揚げられ、回向院に葬られたし、牢死者も葬られるなど、小塚原の回向院に葬られた死刑囚を除き、江戸が生み出すすべての無縁仏が葬られるようになった(司馬、1995)。
また江戸は埋め立てによって拡大されていったが、埋め立て地に最初に作られたのは、寺と墓地である場合が多かった。市街地として利用されるようになるのは、地盤が固まってからで、埋め立て地という境界的空間は、死体の排除先として利用されたのである。
また周辺部への拡大も、まず寺が設けられ、そのまわりに民家が集まり、やがて街並みが本体である市街地と連結していく、という形で進んだ場合が多かった(陣内、1985)。
火葬場は、江戸時代中頃までは各寺院にあったが、嫌悪の対象となり、たとえば下谷、浅草近辺の20数か寺では、将軍家綱の寛永寺墓参時に臭気が及んだため、1669(寛文9)年に小塚原刑場そばに移されている。江戸の周辺部であった深川の霊厳寺、浄心寺、砂村新田の極楽寺、上落合村の法界寺、桐ヶ谷村の霊源寺も有名な火葬場で、幕末には、この小塚原、霊厳寺、極楽寺、法界寺、霊源寺と、芝増上寺今里村下屋敷、代々木村狼谷などにあった。
明治に入って、いったん禁止された火葬が8>>(明治8)年に解禁されたが、東京府は朱引内での申請は許可せず、朱引外の旧火葬場の千住南組(小塚原)、砂村、代々木、落合、桐ヶ谷の5箇所だけを許可している(高橋、2004)。
現在では、これらから発展した町屋斎場(荒川区町屋)、落合斎場(新宿区上落合)、桐ヶ谷斎場(品川区西五反田)、代々幡斎場(渋谷区西原)、そして堀の内斎場(杉並区梅里)、四ツ木斎場(葛飾区白鳥)があり、いずれもかつて市街のはずれだった周辺部に作られている。
5.廃棄物の排除
江戸時代初期のゴミ捨て場は、近所の空き地、川、堀であったが、1655(明暦元)年には、隅田川河口の洲だった永代島への投棄が命じられ、以後隅田川河口から東へと、ゴミを利用して計画的な埋め立てによる土地造成が行われるようになった(伊藤、1982)。埋め立て地という境界的空間は廃棄物の排除先ともされていたのである。
明治に入り、東京の自治制度が確立すると、1901(明治34)年には、深川平久町に東京市露天焼却場が設置され、その後1924(大正13)年の大崎町を初め、大井、入新井、王子、日暮里と、いずれも当時の市外に塵芥焼却工場が設けられた。大東京市成立後には、1933(昭和8)年深川ゴミ粉砕工場、1934(昭和9)年西台ゴミ埋立処理場、1936(昭和11)年蒲田塵芥焼却場、足立塵芥焼却場が作られたが、いずれも当時の周辺部である(柴田、1988)。
戦後は杉並ゴミ戦争が良く知られるように、都心、山の手には清掃工場が無く、江東区などが犠牲を強いられていると問題になり、1969(昭和44)年に北、世田谷、石神井清掃工場が完成した。その後中央区、港区、渋谷区など都心にも清掃工場が作られたが、清掃行政が区に移管された現在も、千代田区、新宿区、文京区などにはなく、自区内処理は実現していない。
また民間が、廃車置き場、解体施設、建設重機の置き場、建設資材置き場、貸倉庫などの施設を設けたり、産業廃棄物の蓄積、焼却、不法投棄などを行うのも、周辺部や都県境、そして隣接県である。
6.下水、屎尿の排除
江戸では、下水処理は行われなかったが、屎尿は今日の世田谷区、杉並区など周辺部の農家が汲み取って持ち帰り、肥料として利用して、野菜を江戸に持ち込む、というリサイクルが行われていた。
東京では、1922(大正11)年、東京市初の下水処理施設である三河島汚水処分場(荒川区)が建設されたが、場所は小塚原刑場跡からも1qほどの隅田川沿い、第2号は1930(昭和5)年の砂町汚水処分場(江東区)で、いずれも当時の市街地のはずれである。戦後第1号で1962(昭和37)年の小台下水処理場(足立区)、1964(昭和39)年の落合下水処理場(新宿区)も同様に当時の周辺部である。1931(昭和6)年の芝浦汚水処分場(港区)、1967(昭和42)年の森ケ崎下水処理場(大田区)は臨海部の埋め立て地である。 また1921(大正10)年、東京市初の屎尿投棄場が設けられたのは浅草区(現台東区)の隅田川近くの南元町、栄久町、浅草寺近くの松清町で、1931(昭和6)年の移転先も、周辺部だった綾瀬(足立区)である。
7.洪水の排除
低地、埋め立て地は、堤防が強化される以前は、たびたび水害に襲われていた。本所、深川、葛西といった、いわゆる「川向こう」は江戸の辺境とされたが、低地だったからたびたび洪水による被害を受けた。隅田川の右岸には1620(元和6)年、浅草聖天付近の隅田川縁から始まり三ノ輪付近で上野台地に接続する、土手上の道幅が8mもある大がかりな日本堤が作られ、市街地を守った。他方左岸には隅田堤が作られたが、これは新小梅町辺りまでで、それより下流は無堤防だった。左岸の近郊農村地帯は遊水池とされてしまったのである(国土交通省、2004)。
さらにこの二つの堤は、江戸市街地の隅田川への流量を減らすもので、漏斗状に狭窄部を作る形になっており、その分は上流流域に溢れ出ることになる。江戸に隣接する農村地帯は江戸を守るための遊水池とされ、洪水の危険にさらされることとなったのである。更に明治後期以降そうした低地に工場、人家が増え、ますます洪水の被害が大きなものとなり、そうした地域は差別的扱いを受けたのである。
第7章 都市のアイデンティティと身体
1.身体とおかしさ、汚さ
人は他人と肌が接触したり、他人が触れたものに接触したりするとおかしい、汚いと感じる。密着すればするほど強くおかしい、汚いと感じ、さらには猥褻とされる。また便、屎尿、血液、汗、垢、フケなど、体の中から出てくるものも、ことごとくおかしなもの、汚いものとされる。
まず、おかしい、汚いと感じることは、大人にとってはあまりに当然のことなので、本能と思われがちだが、子どもは他人と接触しても何とも思わないし、便でも鼻くそでも平気で触れるが、教えられることによってだんだんとおかしい、汚いと感じるようになる、ということから分かるように、本能ではない。すなわちおかしい、汚いと感じることは、文化によって作られたものである。
ところで、他人との身体的接触とは、複数の身体間の隔たりが無くなり、連続化することであり、その隔たりが小さくなるほど、おかしい、汚い、猥褻とされる。また便も身体内部にあるときは全く気にもならないし、遠くに排除してしまえば何でもないのに対し、中から出てきたとき、とりわけ身体表面に付着しているときがおかしい、汚いとされ、フケも、頭皮の一部であるときは何でもないが、剥がれかけているときはおかしい、汚い、といった例を考えればわかるように、身体の内外が連続化してしまった場合に、おかしい、汚いとされていることが分かる。
すなわちおかしい、汚いとは、身体の境界が曖昧になってしまう状態において感じさせるように文化によって作られたものだが、それによって排除することが可能になるのは、身体間、身体内外の非連続化である。すなわちおかしさ、汚さとは、身体の境界を不明確化するものを排除し、明確に維持するために作り出された文化的仕掛け、というわけである。
2.アイデンティティの明確化とおかしさ、汚さ
人が存在するには身体が必要である。生物学的にも、皮膚に囲まれた内部で諸器官が相互に連結し、完結した働きをする身体がなければ個体は存在できないが、周囲の空間から視覚的、物理的にも切り取られて存在する身体があって、はじめて自分が一個の人であることが確認できる。また他者の身体とも物理的に非連続な別個の身体を持つことが、自分が他者とは異なった自分であることを確認させる。すなわちアイデンティティの背景にあり、支えるものは、物理的にも、視覚的にも非連続な身体なのである。
人が個体として生きていく、さらには相互の関係を作り上げ、社会を構成して生きていくためには、自分と他人、他人相互の分類は不可欠である。それゆえ、そうした分類を確保することが必要で、それが、身体内外の連続化と、身体相互の連続化を排除して、境界を明確化する、おかしさ、汚さ、という仕掛けであり、それによって、アイデンティティを明確化し、社会を維持していくことが可能になっている、というわけである。
3.都市のアイデンティティと身体
都市の存在のためには、まずそこで住む、働く、学ぶ、遊ぶといった人々の存在が前提で、それを支える鉄道、道路、建築物、上下水道、電力、ガス、通信線といった施設が必要となる。そうした人々、施設を組織化し、統制し、運営していくための諸行政組織も不可欠となる。そして当然、それらを収容する一定の空間が必要となるし、ある都市が一都市であるためには、他の都市とは別個の都市であることも明確でなければならない。
このためには、諸施設が都市内で連結、完結し、行政上も別個の都市であることが法律的に明示されなければならないが、さらに基本的な要件として、その都市が一定の空間を占め、他の都市と空間的に別個の位置に所在し、空間的に隔たっているということが必要で、いわば都市としての独立した身体が不可欠、ということになる。
しかしながら、これまで検討してきたように、江戸・東京という都市は、行政的にも、空間的にも、必ずしも明確ではなかった。つまり都市自体が次々と周辺に拡大して行き、江戸といっても行政上一体ではなく、内部に江戸でない空間を含み、境界は何種類もあった。行政上単独の自治体となった東京も、周辺の諸都市と連続し、飛び地あり、はみ出しありと、どこまでが東京なのか、その身体の姿形が実はよく分からないのである。
4.都市の身体を曖昧にするものの排除
ただし、ここで注目すべきことは、先にあげた江戸の彦根、北海道の東京、飛び地、うつし、はみ出しなど、江戸・東京と周辺、他の都市との境界、つまり都市の身体を曖昧にする諸事例は、ことごとく、奇妙なこと、おかしなものとされていることである。そしておかしい、というマイナス評価のレッテルを貼ることによって可能になるのは、こうした曖昧にするものは本来あってはならず、境界を曖昧にするべきではないと明示することである。
また、巨大都市江戸・東京から不可避的に発生するケガレたもの、すなわち犯罪、性、疾病、死体、屎尿、ごみなどの排除先、すなわち嫌悪施設も、ことごとく境界的空間に設定され、江戸、東京という都市の拡大と共に、次々と周辺部へと移っていることにも注目しなければならない。こうした嫌悪され、排除されるものは、出す側が内、出す先が外と、空間的評価の相違を明確にする。排除するべき先は境界的空間であり、その結果は、それより先が外、その反対側こそが人々自身の空間であるべき都市空間、というように明確化されることになる、というわけである。
結論
1.人は排泄物、汗、フケなどを、おかしい、汚いとレッテルを貼り、身体から排除する。それによって可能となるのは、自らのアイデンティティの基盤となる身体の境界の不明確化の回避である。江戸・東京という巨大都市でもまた、飛び地、うつしなどが、おかしい、奇妙と評価され、境界的空間には、嫌悪され、汚いとされたものが排除され、差別の対象となってきた。それは、人が作り上げた都市というものの身体の不明確化を回避することであり、それによって、江戸・東京の人々のアイデンティティの明確化が可能となる。
2.しかしながら江戸・東京の場合は、その身体自体が拡大し続けるだけでなく、身体の主体たる人々自身が、流入し、溢れ出て、流入した人々もやがて江戸っ子、東京人と意識し、溢れ出た人々もまた自ら江戸っ子、東京人との一体化を志向する。江戸・東京を境界の不明確な「見えない都市」としているのは、まさにこうした身体の主体自体の不明確性なのである。
3.麻布七不思議が語られたのは、田舎だった麻布の市街地化が進んだ時期だった。ダサイタマ差別も、地価高騰で、東京から溢れ出た人々が急増し、都市化が進み、東京との一体化を求めた時期に、すでに都市化した多摩や神奈川、都市化していない群馬、栃木、茨城ではなく、埼玉に対して向けられた。これらもまた江戸・東京という都市の身体、そして江戸っ子、東京人というアイデンティティの不明確化を回避しようとするものである。しかしこれも、麻布が、そこに住む人々が真東京人と誇る都心となったように、ダサイタマ差別も、さらなる都市化、さいたま市の政令指定都市化などが進むとともに消えていった。
もともと江戸っ子、東京人というアイデンティティ自体が、さして明確なものではなく、次々と拡大してきた。それゆえ江戸っ子、東京人のアイデンティティの背景となるべき江戸・東京という都市の身体たる都市空間も、さほど明確なものにはなり得ない。結局当初の抵抗を越えて、江戸っ子、東京人も、東京の都市空間も、拡大が容認されていく、という歴史を繰り返してきたのである。
これは江戸・東京という都市が、常に日本中から異質な人々を飲み込み、異質な周辺地域を取り込んで、同化し、変動、拡大し続ける姿であり、江戸・東京がダイナミズムを持った都市として存在、発展し続けてきた証左であるともいえよう。
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