「水」と「親しむ」ということ ―江戸川区の事例を通じて― |
応用社会学科3年 9811164 山口こずえ |
● 「浸水」から「親水」へ
江戸川区はかつて、雨が降れば水浸しと言われ、各地で川があふれ、浸水に悩まされてきた地区であった。大雨や台風による水害は、多くの人命を奪い、江戸川区に多大な被害をもたらしてきた。昔の人々は、そんな水害と戦ってきた。かつてこの地区の人々にとって川は、水害をもたらす恐ろしいものであり、戦いねじ伏せていくものだった。しかし下水道の整備が進むにつれて、浸水の心配もなくなっていった。
さらに、昔やかんがい用や船の通行にも利用された中小河川は、宅地化が進むに連れて、家庭や工場の排水が流れ込み、悪臭を放つドブ川と化した。ドブ川は420kmにも及んだという。車が普及してくるに従って船で物資を運ぶ必要はなくなり、川が交通の手段でなくなっていき、また田んぼが減っていくに従って川そのものも必要でなくなってくる。かんがい設備が整ってくれば、汚物を流すために必要だった川も必要でなくなり、あとには不用になった汚染された汚い川だけが残った。
その汚れた川をどうしていくか考えたときに生まれたのが、「親水」という考え方だった。従来からの治水、利水という機能とは別に、河川の第三の機能というべき、水を友とする親水機能を、江戸川区は打ち出していった。
江戸川区が「親水」という川との新しい付き合い方を生み出していった背景には、江戸川区の下水道整備が遅れていたこともあげられる(平成7年に完備)。江戸川区が汚染された河川をどうしていくか考え出したときは、日本全国で水質汚染が問題になっていた時期でもあり、多くの不用になった河川が埋め立てられていた。そんな中で、なんとか河川を残していく方法はないかと考えた末、江戸川区は「親水」をいう道を選んでいったのである。
● 親水公園の誕生
こうして生まれたのが、親水公園だった。現在江戸川区には、それぞれ特徴を持った五つの親水公園がある。親水公園の管理は、江戸川区に委託されて財団法人・環境促進事業団が行っている。親水公園の総工費・維持費は区が全面的に出している。
<古川親水公園>
公園延長:1200m 公園面積:9434u 総工費:2億円
日本で最初の親水公園。昭和49年に完成。旧江戸川から水を導き1.2kmの古川を、水と親しめる憩いの場として再生した。緑と清流の河川を復活させ、都市の中に潤いのある自然空間を創出した。自然の再生に重点を置いている。夏は水遊びもでき、区民の生活に溶け込んでいる。
<小松川境川親水公園>
延長:3930m 面積:45024u 総工費:40億
小松川境川は、江戸川区の中心部を流れ、かつては農業用水や舟運の航路として、重要な役割を果たしてきた。だが生活排水が流され、ヘドロで埋まったドブ川となってしまった。そこで、@自然の回復(創造)、Aコミュニティづくり、B文化都市空間の形成、C子どもと水のふれあいづくりをテーマに、都市における理想的な自然環境を創出した。
規模は江戸川区にある五つの親水公園の中では最大で、滝や釣り堀などの施設も備えている。ポンプ場も8ヶ所もあり、水は常に綺麗に保たれている。プールやアスレチックなどもあり、大々的に整備され、最初に作られた古川親水公園と比べてみると、より川と住民と親しむための公園つくりに重点を置いているのが伺える。遊べる場、また住民が集まるコミュニティの場という印象が強い。
<新長島川親水公園>
延長:530m 面積:13800u 総工費:7億
新長島川は、「葛西沖開発土地区画整理事業」によって、旧海岸堤防と清心町側土留
め成された入江型の水路(公共溝渠)で、長島川の排水路として機能していた。長島
川が「葛西親水四季の道」として親水化されたことにより、平成元年度、東京都か
ら江戸川区へ管理移管され、これを親水公園として整備した。規模は最も小さく、3つの広場に噴水や池、テラス、ステージなどが備えてあり、綺麗に整備された遊水空間といった印象。
<新左近川親水公園>
延長:750m 面積:83400u 総工費:25億
新左近川は、「葛西沖開発土地区画整理事業」によって、区の臨海部に造成された
延長1.4kmの水路(公共溝渠)で、左近川の排水路としても機能していた。上流部の
入江には、約170隻のプレジャーボート、50隻の漁船が不法係留されていたが、
これを河口に移動した上で、下流部を「新左近川マリーナ」として整備し、上流部の
広い水域を活かした「新左近川親水公園」として整備した。水遊びのできない、ポンプのない親水公園で、流域面積が広く、ボート乗場や駐車場などがある。
<一之江境川親水公園>
延長:3200m 面積:48000u 総工費:30億
用水また舟運路として利用されていたが、昭和30年以降流域の都市化が急速に進み、家庭排水が流れ込むようになり、水質も悪化したが、下水道の整備により、排水路としての役割を終え、平成8年、江戸川区最後の親水公園として蘇った。
時代のニーズに合わせ、より自然に近く生き物の住める川を目指そうということで作られたため、塩素処理などは行われておらず、中川の水がそのまま流されている。が、夏場だけは水を仕切って水道水を流し入れ、水遊びもできるようになっている。どのくらいの種類の生き物がいるかの調査もされ、報告書も出された。それによると、平成8年度から行った2年間の調査で、148種類の生物が確認されている。
● 水に親しむことの意味
こうして作られてきた親水公園は、時代時代によって人々が求めてきた水との関わり方を反映している。「水と親しむ」と一口に言っても、それは時代によって持つ意味が違うのだ。初めて古川親水公園が作られたときは、汚染され不要となった川をいかに利用していくか、川との付き合い方を見直した末に、生まれて来た「親水」という考えに沿って、親しみやすい水辺空間を作る目的で、親水公園が誕生した。だがそれは、一見自然を回復させたかに見えたが、殺菌された水を流し、周囲をコンクリートで固めて、人工的に作られた安全に遊べる場所を提供したものでしかなかった。その後も、自然の回復、遊水空間、住民のコミュニティの場、子どもと水のふれあいなど、時代のニーズに合わせた親水公園が次々と誕生する。だが最後に作られたのは、できるだけ人の手を加えない、ありのままの自然を守り、生き物が住める川、そして生き物と触れ合える川を作っていこうとする、今までとは違った新しい形の親水公園だった。
川を埋め立て、風景を作り変えていくことに、江戸川区民は抵抗を感じなかったのだろうか。親水公園が、江戸川区の住民に受け入れられ愛されてきたのは、江戸川区というのが戦後に移り住んできた新しい住民で構成された区であるということがあげられる。古い風景、昔ながらの風景にそれほど強い愛着やこだわりがなかったからこそ、コンクリートで固められた親水公園ができても、抵抗を感じることが少なかった。だが、自然のままの川や生き物が減ってしまったことへの寂しさは感じているようだ。親水公園はどれも自然に近づけようとはしているが、結局は人工的なものでしかなく、物足りなさや、やらせでしかないと感じることもあるらしい。だが、どんなに頑張っても昔の自然を取り戻すことはできないということを、住民たちは知っていて、人工的なものでもやむを得ないと妥協して、親水公園を地域と暮らしの中に取り入れてきた。
親水公園は多くの問題も抱えている。安らぎを得るためのはずの川のせせらぎや滝の音が騒音問題を引き起こしたり、ゴミ問題、ホームレスなど、解決できない問題も数多くある。だが、水辺には人々が集まり、そこからコミュニティの輪が広がったり、自主的に「川を愛する会」をつくってボランティアで清掃活動などを行ったりと、地域にとって確かに役立っているようだ。
江戸川区では、時代とともに変わっていく川と、そうやって付き合っていっている。
● 最後に
川は生きている。生命力がある。だから暴れることもあるし、物を運ぶ力もあるし、汚れたら自分で綺麗にする力もある。しかし今は、川は人間にコントロールされすぎていて、本来の力、生命力は失われてしまっている。日本の川の多くは、堤防で囲まれている。綺麗な川、豊かな川は多くても、それを利用する人は少ない。綺麗な川も、安全な川も、危険な川も、入っていい川・いけない川も、すべて第三者、大人たちによって決められている。今の子どもは、川で遊ぶことをしないが、それは遊び方や遊ぶ技術を知らないからである。そしてそれを教える立場にある親も、川で遊んだ経験がないのである。川との付き合いの断絶は、すでに二世代に渡ってしまった。
日本は川の多い国である。水との関わりなしでは、私たちは生きていけない。そして私たちには、それぞれ所属する川というのがあるのだそうだ。それは、自分の故郷で降った雨が染み込んで流れていく川のことで、私たちは誰でもどこかの川に所属して生きている。自分の所属する川を知って、その川を愛し守ることから、これからの水との付き合い方、水辺環境をどう守っていくかを考えてみるといいかもしれない。
お話を伺った方
環境促進事業団・豊島栄一さん
船堀歴史会の方々
参加したイベント
水環境フェア2000in大宮