水・雨・川(江戸川区を中心に) |
9811142 松坂 敏規 |
・ 江戸川区の洪水災害による対策。
主に土木課は現場を担当する。現場といっても川の管理は、大きさ(級)によって管理が変わる。一級河川は建設省の管理、二級河川は都道府県の管理、普通河川(俗称)は市区町村の管理となっている。しかし、国や都道府県単位ではすべてが見きれないため、市区町村に一部委託したりすることがある。現在、建設省などが行っている事業では、河川敷をひき、普段は、野球などのグランドや公園などとしている。水嵩が高くなったり、台風などが来るときなどは、役所の人々がその施設の備品を流されないように堤防などに引き上げて備えている。この様なところで国と地方公共団体が相互協力している。江戸川区には旧江戸川だけでなく、荒川や中川まであり、大きな川が多く流れている。首都高速の下では荒川と中川が平行している場所がある。そこには中堤と呼ばれる堤防がある。船堀歴史会の宇田川様の話しによると荒川と中川の水位には高低差が三メートルもあるらしい。そのため、中堤を敷かないと氾濫してしまうのだ。
主に情報を扱う防災課は、都や民間企業からの警報、注意報、ニュースなどにより危険を予測し、区民に連絡を入れる。江戸川区はさきほども述べたとおり大きな川が三本ある。しかも下流なので、江戸川区では雨が降らなくても上流で大雨が降れば必然的に増水する。そのような水量の観測や情報収集も防災課の仕事である。そして台風などが近づいて来たときには災害対策本部を設置する。統括指揮者は助役が行う。その下に、防災情報連絡議員を設置(幹部)。残りの職員は災害レベルによって区役所内に待機する人数が決まる。四段階制になっており、一次では職員全体の八分の一、これは二十四時間以内に災害が起こる可能性のある時である。二次は職員全体の四分の一、これは十二時間以内に災害が起こる可能性がある時である。そして三次になると、もう災害が起こりそうというときには職員の半数が待機している。最後に四次。災害発生後、職員は全員で、復旧、救済活動を行う。このように、国や民間との相互協力、技術の発達により、今では、床下浸水は来る場合はあるが、床上浸水の被害はほとんど無い。また、江戸川区の被害が少ない理由の一つとして、地下室が他の区に比べて極端に」少ないことが挙げられる。やはり、新宿区や渋谷区、中央区などの人が集まる所に比べて、地下の必要性が無いからだろう。あまり地下施設が見当たらなかった。
気象庁からのデータによる降水量についての資料を江戸川区役所土木課の川添様から見せて頂いた。最近の降水量データには、何か異様な共通性があった。降水時間は大体三時間程度であるが、一時間に総雨量のほとんどが降っているのだ。よくニュースで記録的豪雨といっているが、確かにデータで言えばそのような結果が出ている。川添様が言うには、下水道(※1)や河川、アスファルトなどの技術発達、普及により、地上での水の循環が早くなったためだろうといわれていた。実際、年間降水量についてはほとんど変化が見られないのだ。
現在一番恐いのは、地震である。しかし、この地震もプレートの位置により、直下型は江戸川区にはこないということで、この地域の堤防は、阪神大震災クラスの地震では持ちこたえる構造になっているため、心配はないということだ。また、治水として行っているのは、江戸川と旧江戸川の所で水門を閉め水位を調節しているため、江戸川区内に洪水は起きないのだ。荒川のほうには耐震鋼管を打ち、堤防の決壊を防いでいる。しかし、地震については起こってみないとわからないらしい。
※1下水道について…昭和六十年頃から始まり、現在ではほぼ完備している。生活雑排水は、天気が晴れの場合下水処理場へ、雨の日はすべてを川へと流しているシステムである。上でも述べているが、すぐ水が下水管に入るため、地面に水分が残ることがなくなり、温暖化が始まったという。
・ 船堀歴史会の方々によるお話から。
船堀歴史会の方々には主に、昭和二十二年のカスリン台風のお話をして頂いた。埼玉県幸手市の権現堂が決壊し、大洪水となった。これにより、葛飾区の水元の堤防を決壊しようとして二トンの火薬を用意したが、火が点かず失敗。当時日本は、連合国軍の占領下にあった。そのせいで火薬を使用する際にGHQの許可が必要であった。もちろんGHQは自分たちの火薬を使うはずもなく、旧日本軍のしけった火薬を使ったため火が点かなかったのだ。このため、損害を最小に食い止めるために、堤防の決壊を諦め、船堀地区がその水を被ったのだ。この頃は町会などは廃止されていたのだが、臨時に許可された。また、船で泥棒に来ることが多かったため、押し入れの中壇にいてその被害を防いでいたと、法龍寺の住職は言う。そして、荒川の桟橋にはへどろが十センチも積もったという。この後に様々な変化が現れる。地形的にはあまり変わっていないが、それまでは、台風の三、四日後に水が押し寄せて来たが、最上流にダムができたことで、洪水が無くなったという。しかし、それと同時に、砂利が落ちてこないために、川の生態系が変わってしまった。ダムができる前は鯊などが釣れたというが、現在では、魚の姿はほとんど見られないらしい。当時は防風林など風をさえぎるものがあったが、今では建物が丈夫なためにそのようなものも見られなくなってしまった。また、住職が台風は風向きでわかるといっていた。必ず東側から来て、北風に変われば反れ、南風に変わると直撃の恐れがある、ということだ。
そして次に津波の話しである。江戸川区はもちろん海に面しており、津波が来るはずだと思っていた。これに関しては、東京湾のような内湾は津波の被害はあまり見られないらしい。しかし、大正六年に大津波があったという。この津波では、多数の被害が出ている。特にひどかったのは、立て替えたばかりの家に住んでいた人である。その当時の屋根はわらでできていて、屋根が外れないために脱出不可能となってしまい全滅したというのだ。この津波は、百八十年に一度と言われている。当分こないであろうが、あくまでデータなので警戒する必要性がある、と自分は思っている。
江戸川区の現在の住民は約六十二万人、昭和七年は、二万人程度だったという。江戸川区は、高度経済成長期に工業地帯として栄えたためである。この実状から、水に対する過去の出来事を知らない人々が多い。また、現在は、工業地帯というよりも、ベッドタウン化している。そのため、千葉や都心へのアクセスはしやすいが、南北の移動は非常に不便だ。そして、工業排水で汚れた川を見て、川をきれいにしようというよりも、「作られた自然」を作る動きが発展した。それが親水公園である。川がコンクリ化することによって魚の産卵場所が無くなり、絶滅への危機が迫っている。やはり作られた自然では虫も見ないし、自然を感じることなどできないと船堀歴史会の人たちは言う。
まとめとして。
現在、下水道の普及や、堤防、道路などの技術発達、普及により、人間が自然を支配することができていると思われがちであるが実際は、そのつけとして地面の露出が極めて少ないために集中豪雨や温暖化、水質汚染や有害噴煙による酸性雨などが起きている。こうしてみると実際は、自然を支配などできていないのだ。
参考文献:月映雑記(つきかげざっき)第六号、二十五号、二十七号。
お世話になった方々。
江戸川区役所・土木部計画課 川添 敏一様
船堀歴史会 宇田川 鍾弥様ほか
法龍寺住職 木本 順司様