矢切りの渡し   〜 現在 〜 

 

 江戸川開削から明治初期までが江戸川の渡し場が栄えた黄金期だった。

廃れていった理由は場所によって多少の違いはあるが、

主な理由として、渡し場に相当する場所に橋が架けられ、それに伴う陸運の発達。

そして常磐線に代表される鉄道の開設が決定的な要因になった。

 江戸川の上流から、埼玉県と茨城県を結ぶ『関宿の渡し』。

埼玉県と千葉県を結ぶ『野田の渡し』、『流山の渡し』。

東京都と千葉県を結ぶ『松戸の渡し』、『市川・浦安の渡し』、などが地区ごとにあり、

確認できる限りでは、この 5つの地区で合計約50ヶ所の渡し場があったが、

各渡し場とも明治初期の関所廃止、および橋の開設に合わせて営業を終了している。

この時機に営業を終了しなかった渡し場も、鉄道や陸運の発達とともに渡し場を閉めるようになっていった。

 

 その中で現在まで伝わる渡し場が、葛飾区柴又から松戸市下矢切を結ぶ矢切りの渡しだ。

昔は関所の役目も果たし、江戸川を渡る交通のかなめとしての役割を担っていたが、

現在では、帝釈天、寅さん記念館などを訪れた人の観光コースの 1つとして、

交通から観光へと需要が移っている。

東京都葛飾区柴又側には、先に挙げた帝釈天、寅さん記念館、山本亭(大正末期に建設された書院庭園がある和洋折衷の建物。入館料 100円)などがあり、

この一帯から矢切りの渡しのある江戸川の川岸までは、歩いておよそ 5分程度。

最寄り駅は、京成金町駅で駅前には寅さんの銅像があり、そこから帝釈天などといった観光名所へは、看板の案内がそれぞれ立っているので、さほど迷う事もなく行き着く事が出来る。

京成金町駅から矢切りの渡しまでは徒歩でおよそ 10分程度。

 千葉県松戸市下矢切側には、矢切りの渡しの庶民性と、周囲の素朴な風景を背景にした、

伊藤左千夫の小説『野菊の墓』と、細川たかしのヒット曲『矢切りの渡し』の記念碑がある。

また松戸側の渡し場から徒歩 10分ほどのところには、伊藤左千夫の野菊の墓文学碑というのもある。ここは小高い丘の上に立てられており、上からは下矢切地区一帯を一望できる。

 

 

 

 

 現在矢切りの渡しを運営、運航しているのは杉浦正雄という方。

明治時代頃からこの方の御一家が矢切りの渡しの運航をする一家となり、

それ以後、世襲制で代々運航し、正雄氏で第4代目の運航者となる。

松戸側の渡し場には土産物屋もあるのだが、そこも一家で経営しているのだそうだ。

小学校 6年生のころから渡し舟を漕ぎ出すようになり、はじめの頃は上半身が筋肉痛になったとのこと。

渡し舟を対岸の船庫まで入れられるようになったら一人前らしい。

 

 杉浦氏の家は松戸側の江戸川の堤防を越えた側にある。

歴史の項でも触れたが、 1740年頃から渡しの運営が幕府による公共事業から、

幕府と松戸町、そして町民による半官半民の運営体制となる。

今、観光業が栄えているのは葛飾側で、矢切りの渡しも葛飾区側の運営かと思っていたので、こう言っては失礼だが松戸側の方が運営しているとわかった時は意外だった。

だが、過去からの流れでは、民間事業になってからは葛飾ではなく松戸側で渡しを運営していたので、歴史の流れと面影が 250年たった今でもこういった所に名残を残しているのかとも思った。

 

 営業時間は 11日から1月中旬、および3月の中旬から1130日までは毎日運航。

12 1日からは3月中旬までは土・日・祝日のみの運航。

運航していないシーズンオフの期間は、特に他の副業などもせずゆっくり休んでいるとのこと。 

 繁忙期は正月やお花見シーズン、近くにある小岩菖蒲園が見頃となる 6月の初旬から中旬など。

閑散期や平日はボート一隻、船頭一人で運航しているが、こういった繁忙期になると、

ボート三隻、船頭三人で運航している。

夕暮れ時にボートが川辺ですれ違う光景は景色的にもすごく美しい。

忙しい日は昼食をとる時間もないほどの繁盛ぶりだが、平日は比較的のんびりと運航している。

 運賃は片道、大人 100円 小人50円。

多くの人が往復乗る事が多いので、結果的に行きと帰りで往復分の料金を払っている。

この料金だが、 20年以上前から大人100円 小人50円で営業しており、

杉浦氏いわく「うちは消費税の時も値上げしなかったから、結果的に値上げどころか、

値下げした事になるんだよ。」

とおっしゃていた。( 100円 → 97円 → 95円ということ。)

普段の日は櫂を使って手で漕いでいるが、風が強い時や、繁忙期で人がすごく待っている時などは、櫂ではなく船に取りつけてあるモーターを使って運航する時もある。

 営業の許可は建設省に出しているらしいが、今年 2000年の秋から小型船に対する法律が変わり、建設省だけでなく運輸省にも許可を取らねばならないそうだ。

以前の法律では、小型船は水難保険に加入しなくてもよかったらしいのだが、 

個人による小型船の商業利用が増え、(釣り舟など)

それに対する法律として小型船の商業利用者に水難保険を義務づけるために、

制度を改正したのだという。

 運航に使っている船は着水面である外側だけをFRP仕立て(プラスチック加工)にした木船。木船は塩分が含まれている海水には相性が良いのだが、

塩分の含まれていない川や湖の淡水には相性が悪く、木が腐りやすくなるのだそうだ。

そのような理由で、接水面を保護するため外側に加工を施している。

20 年ほど前からそういった船に徐々に切り替え、古い船は現在北総・公団線矢切駅

の改札口に保管・展示されている。

これも一家は廃棄しようと思っていたそうなのだが、松戸市の役員の方が廃棄するならぜひにとすすめてくれたのだそうだ。

近くで見るとその迫力に驚かされるものがある。長年の船の痛みや、腐りかけ所々崩れた船体からは江戸川の持つ歴史と懐の深さすら感じさせられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回杉浦氏にお話を伺う事が出来たので、印象的な物を最後に一つ紹介したい。

 現在矢切りの渡しは都内唯一の渡し場でその歴史も古く、観光の名所でもあり、

知名度も高く町興しに大変貢献していると思うのですが、

そういった事から国や市などといった公共の機関や団体から補助金や助成金は出ているのですか、と僕は聞いてみた。

僕の心の中では、今たずねたような理由で補助金などは当然もらっているのではないかと、

と思っていた。

しかし、杉浦氏からは、「そんなものもらってないよ。もらうどころか法律改正になって金も手間もかかるし、消費税の時も値上げしてないんだから補助金なんて全然だね。」

といった答えが返ってきた。

 この人に話しを伺っていたのだが、はじめのうちは何だこの客はという感じでいいかげんで、投げやりな答えしか返してくれず会話が成り立たなかった。

船に乗る人達から同じような質問を何度もされているだろうし、

それに対する答えもある程度決まっている物が多いだろうから、はじめの頃の会話はほとんど暖簾に腕押し状態だった。

 しかし片道 100円の渡し舟に3回乗ったあたりから徐々に話しをしてくれるようになって、(当然そのつど渡し賃を取られた。3度も乗ったのだから適当にあしらうのもかわいそうだと同情してくれたからかもしれない。)

最終的に補助金の話しになって、その時「補助金なんて全然だね。」

と言った後に、ニヤッと笑ったのがすごく印象的だった。

 葛飾側から渡し舟に乗り、最後 4回目に松戸側から葛飾側に戻ろうとした時には、

金はいいよ、といってモーターを使って送ってくれた。

船を出す前に、ジェットスキーで遊んでいた人が渡し場のほうまで流れてきて遊んでいた。

その時杉浦氏が、「ここは船に乗っているお客さんがいて危ないからもっと上流のほうで遊んでて。」と諭すところを目の当たりにし、

はじめに感じた不愛想なイメージは帰る頃には文字どうり『流されて』いた。

何世代にも渡る、渡し舟の歴史を現在に汲む杉浦氏の、優しさと江戸川に対する愛情を感じる出来事であると同時に、

渡し舟とジェットスキーという相反するものをひとつの場所に存在させる江戸川の懐の深さも感じる出来事だった。

 

 

 

 

 

 

矢切りの渡し   〜 ふろく 〜

 

 細川たかしが歌った『矢切りの渡し』や、映画『フーテンの寅さん』で一躍全国的に有名になってからは、現在では年間約 18万人もの観光客が訪れ親しまれている。

(片道 100円の運賃からすると年商1800万円以上?!なおかつ多くの人が往復で利用することを考えると……激ヤバ!!)

およそ 100メートルの川幅をゆったりと渡る船の寸法(矢切り駅に展示されている1期前の物)は、全長9120mm、全幅1960mm、深さ380mm、重量800kg、排水量2.5トンで、

昭和 45年に製造され、平成9年はじめまで運航されていた。

平成 8年に柴又帝釈天界隈とともに、環境庁の『残したい日本の音風景百選』に選ばれ、

運航者の杉浦正雄氏は松戸市民栄誉賞第一号を受賞している。