横浜の風景とアイデンティティ
                                       斗鬼正一

                                    東京湾学会誌、2(3)、PP150-156、2005

はじめに
 東京湾岸各地で景観保護の動きが盛んである。通例こうした動きは、自然環境や歴史的景観の保護といった視点から説明される。しかしこれを、故郷の風景へのこだわりととらえるなら、また異なった見方が可能なはずである。
 そこで本稿では、幕末以来、欧米の文化に接する近代化最前線の港町として急激に改変されてきた横浜の風景を、故郷の風景へのこだわりと、近代化による人々のアイデンティティの変動とのかかわりに注目して考察していくこととする。

第一章 横浜の風景の改変
1.開港により失われた風景
 横浜市湾岸部は、東海道神奈川宿(神奈川区)を除き、ほとんどが農村、漁村だったが、幕末の開港以来、外国人居留地、波止場、鉄道用地など、市街地が埋め立てによって次々と造成されてきた。とりわけ神奈川から横浜駅(西区)、山下町(中区)に至る現在の横浜都心部は、ことごとく東京湾を埋め立てて作られた。
 西区は天王町付近まで袖ヶ浦と呼ばれる東海道沿いの美しい内海だったが、江戸時代新田開発のための埋め立てが始まり、高島町は1870(明治3)年から71(明治4)年に高島暦で知られる高島嘉右衛門によって、平沼は1874(明治7)年から76(明治9)年に平沼九兵衛によって、南幸町、北幸町は茂木六兵衛によって、それぞれ埋め立てられた。新橋、横浜(現桜木町)間の鉄道建設で入り江の入り口をふさぐ形で築堤が築かれたが、結局内側もすべて埋め立てられることとなった(横浜開港資料館、1987)。
 こうして横浜は、江戸時代以来の農村、漁村、宿場としての風景を失い、欧米の文化を導入した文明開化の最先進地となり、外国航路の客船、貿易船が行き交う国際都市となった。その後関東大震災、第二次世界大戦と2度にわたり街並みが破壊されたが、そのたびに復興させ、港周辺には欧米風の街並みが続き、多くの外国人が住む、ファッションの発信地、エキゾチックな港町ヨコハマとして、人々のあこがれの都市となり、多くの観光客を惹きつけて来たのである。
2.京浜工業地帯の発展により失われた風景
 鶴見区、神奈川区の湾岸は、安田善次郎、浅野総一郎らによって、日本の工業化が進んだ明治30、40年代に埋め立てが始まり、京浜工業地帯の中心となって、かつての漁村風景は失われた。
 磯子区では、明治から大正にかけて、屏風ヶ浦海岸が埋め立てられ、断崖が東京湾に迫る風景が消え、1914(大正3)年には、磯子から森にかけての埋め立て完成とともに、海岸沿いの現国道16号線も作られた。戦後高度成長期の1959(昭和34)年から1964(昭和39)年には、臨海工業地帯として根岸から杉田にかけて埋め立てられ、底引き網によるカレイ、イカ、穴子漁、海苔養殖、そして潮干狩り、海水浴が盛んだった遠浅の根岸湾の風景は失われた。1906(明治39)年、生糸貿易で財を成した実業家原三渓によって本牧海岸に開園された三渓園も、潮干狩りで賑わった前面の砂浜が、大規模な石油精製工場に変わっている(横浜マリタイムミュージアム、2003)。
 東京湾岸の風景の改変の中でも、特筆されるべきは金沢八景である。金沢区の湾岸にはかつて、近江八景と並び称される景勝地金沢八景が広がっていた。東京湾の美しい風光である平潟落雁、乙艫帰帆、洲崎晴嵐、野島夕照、小泉夜雨、称名晩鐘、瀬戸秋月、内川暮雪の八景は、鎌倉と共に、格好の行楽地として江戸、東京の人々を惹きつけてきた。
 ところが戦後高度成長期に大規模な埋め立てが進められ、1966(昭和41)年には平潟湾の埋め立てが完成、1971(昭和46)年から金沢地先埋め立て事業も始まり、1988(昭和63)年に完成、住宅地、臨海産業地域となった。こうして、かつての景勝地金沢八景、そして潮干狩り、海苔養殖で賑わった風景は、わずかな面影を残し消滅した(横浜都市発展記念館、2003)。
 このように横浜は、日本の産業を支える京浜工業地帯の中心となり、海辺、漁村の風景は消え、港町でありながら港に近づくことも難しい、工業都市に変わったのである。
3.巨大都市化により失われた風景
 横浜は東京から近いゆえに、高度成長期にはベッドタウンとして開発が進み、人口では東京に次ぐ日本第二の巨大都市となった。それに伴い、中心商業地も港町の風景を残す伊勢佐木町周辺から横浜駅周辺に移った。郊外でも、都市基盤の整備が進まぬままに、田畑、雑木林が広がる農村の風景を破壊して乱開発が進み、上大岡、戸塚などが副都心となっていった。
 この結果横浜都心は、港町の風情が薄れたミニ東京的風景が広がることとなり、横浜都心よりも東京都心の方が近い郊外には、かつての農村風景ともミナトヨコハマの風景とも似ても似つかない、「横浜都民」が住む新興住宅地の風景が広がるようになったのである。

第二章 失われた風景を取り戻す

1.ミナトヨコハマの風景へのこだわり
 改変著しい横浜の風景の中でももっとも関心が高く、熱心に保存、復元が図られているのが、文明開化の港町ヨコハマの風景である。横浜正金銀行本店として1904(明治37)年に建設された中区馬車道の神奈川県立歴史博物館(ネオバロック、重文)は、関東大震災で破損したが、1967(昭和42)年にはドームを復元、元の姿に戻されている。ジャックの愛称で親しまれる本町の横浜市開港記念会館(フリークラシック、重文)は、開港50周年の1917(大正6年)に開港記念横浜会館として建設され、やはり関東大震災でドームが破壊されたが、開港130周年、市制施行100周年の1989(平成元)年に復元されている。海岸通に1936(昭和11)年に建設されたコリント式列柱の並ぶ旧横浜郵船ビルは、2003(平成15)年、日本郵船歴史博物館として公開されている(神奈川県立歴史博物館、2004)。
 また役割を終えた建物の保存、活用も盛んに行われるようになった。新港町の横浜赤レンガ倉庫1号倉庫は1913(大正2)年 、2号倉庫は1911(明治44)年に建設され、横浜税関保税倉庫として使われていたが、2002年(平成14)年に赤レンガパークとして整備され、観光客の人気を集めている。
 山下町の戸田平和記念館は1922(大正11)年建設の旧イギリス七番館で、1979(昭和54)年に取り壊された際に前面部分が保存され、山下公園通に唯一残る震災前の外国商館として公開されている。1927(昭和2)年建設のホテルニューグランドも、新館建設の際に本館は保存されている。日本大通では、1931(昭和6)年建設の旧英国総領事館が、1981(昭和56)年、横浜開港資料館として公開された。
 横浜の金融街であった本町から馬車道には、古典様式の銀行が並んでいたが、1929(昭和4)年建築の旧第一銀行横浜支店は、主要部分を曳家し、残り部分を忠実に復元してBankART1929Yokohamaとして2002(平成14)年に開館、同年の旧安田銀行横浜支店(富士銀行横浜支店)も文化芸術の拠点BankART1929として利用されている。1934(昭和9)年の旧三菱銀行横浜支店の場合は、跡地に建てられたマンションにファサードが保存されている。
 山手町では、1937(昭和12)年建設の旧横浜英国総領事公邸は横浜市イギリス館として公開、エリスマン邸は1982(昭和57)年にマンション建設のため解体されたが、元町公園に移築復元されている。また、1926(大正15)年のラフィン邸は山手111番館、外国人向けアパートハウスは山手234番館、1930(昭和5)年のイギリス人貿易商ベーリック邸はベーリック・ホールとなり、いずれも横浜市の施設として公開されている(横浜都市発展 記念館,2004)。
 港の風景に直接触れる施設としては、横浜開港100周年の1961(昭和36)年に、記念事業の一環として、横浜を母港として太平洋航路で活躍した豪華客船氷川丸が係留、公開され、港を一望する世界一高い灯台マリンタワーも建設された。翌1962(昭和37)年には港の見える丘公園も開園している。横浜市制100周年、横浜開港130周年の1989(平成元)年には、首都高速道路にベイブリッジが建設され、みなとみらい21地区には、海洋日本を支える多くの船を建造してきた旧ドックを利用して、帆船日本丸が保存展示され、横浜港の歴史を紹介する横浜マリタイムミュージアムも公開された。また西区の三菱重工業横浜造船所跡地では、再開発により臨港パークなどが整備され、工場が並んで遠くなってしまった港の風景を再び身近に見ることが可能になった。
2.海の風景へのこだわり
 港、工業地帯の発展とともに消えた自然の海の風景へのこだわりもまた強い。金沢八景は、夕照橋、帰帆橋、八景島シーパラダイス、そして京浜急行電鉄の金沢八景駅に名が残され、他の埋め立て地でも、元浜町、かもめ町、豊浦町、千鳥町(中区)、鳥浜町、幸浦、福浦(金沢区)といった海の記憶を留める地名が付けられている(横浜市市民局、1991)。
 海に直接触れようとする試みも多く、子安町地先埋め立ては1909(明治42)年に竣工しているが、この守屋町(神奈川区)には、京浜電鉄(現京浜急行電鉄)が海水浴場を開設し、昭和初期まで続いた。
 昭和に入っても、扇島(鶴見区)沖に防波堤を作ったところ、土砂が積もって遠浅の砂浜が出来上がり、1930(昭和5)年から1939(昭和14)年まで扇島海水浴場として、臨時駅ができるほど賑わったという例がある。同じ1930(昭和5)年には、関東大震災の瓦礫を埋めて、日本初の臨海都市公園である山下公園(中区)が開設されている(横浜マリタイムミュージアム、2003)。
 高度成長後の1979(昭和54)年、最後の埋め立てとなった金沢区では、乙艫海岸を埋め立てるものの、千葉県浅間山の山砂を運んで、自然海浜よりも大きな人工砂浜の海の公園が造成され、潮干狩りもできる市内唯一の海水浴場となっている。同じく埋め立てによって作られ、八景の名を冠した八景島シーパラダイスには、サーフコースター、ドルフィンコースターなどを備えた遊園地とともに、水族館が作られた。1978(昭和53)年以降は、磯子に海釣り場、本牧に海釣り施設、大黒埠頭には海釣り公園が設けられ、かつてのように海に直接接し、釣りを楽しむことができるようになった。
3.農村風景へのこだわり
 「横浜ふるさと村」は、田園風景の中で、農業、農村文化に親しむことができる農業地域を指定したもので、青葉区では寺家町一帯が1983(昭和58)年に「ふるさと村」に指定され、35世帯の農家が実際に生活する地域全体を訪れ、見学することができる。1990(平成2)年には、第2号として、戸塚区の「舞岡ふるさと村」も指定されている。また農業専用地域も、1969(昭和44)年の新羽大熊(港北区、都筑区)以来、緑区の鴨居東本郷、鴨居原、北八朔、青葉区保木、都筑区の佐江戸宮原、池辺、折本、東方、大熊、牛久保、神奈川区菅田、羽沢、保土ヶ谷・旭区の西谷、旭区の上川井、戸塚区の東俣野、小雀、平戸、磯子区の氷取沢、栄区の田谷長尾台、港南区の野庭、泉区の中田、並木谷、瀬谷区の上瀬谷、金沢区の柴が指定され、市の補助で基盤整備が行われている。
 ドングリ拾いなどが楽しめる市民の森も、港南区、戸塚区、栄区に設けられ、神奈川区には「三ツ沢せせらぎ緑道」がある。農家の移築、保存も、獅子ヶ谷横溝屋敷(鶴見区)、舞岡公園(戸塚区)の旧金子家住宅など、各所で行われており、寺家ふるさと村、県立四季の森公園(緑区)、舞岡公園には水車小屋が設けられ、精米、製粉が実演される。天王森泉公園(泉区)にはわさび田もある(横浜市市民局、1998)。
 また農村風景を残す場所が、郷愁の故郷の風景などとして市の広報、マスコミなどで盛んに取り上げられる。たとえば横浜市発行の『市民グラフ ヨコハマ』114号の「郷愁の街角・道端」特集に取り上げられているのは、蛍の里、鎮守の森、囲炉裏端、縁側、農家の洗い場、湧水、レンゲ畑、地蔵、道祖神、棚田などである。
 さらに横浜市は、農家に梨の栽培を勧め、当初昭和40年代には30戸前後だったものが、近年では200戸、63.7haにも広がっており、「浜なし」という統一ブランド名まで付けられている。
 要するに、横浜では、時代と共に失われていく多様な故郷の風景へのこだわりがあり、多様な風景の復元が進められているのである。

第三章 わが風景とアイデンティティ
1.自分の部屋・家の風景へのこだわり
 長年住んだ部屋、家が壊される、といった場合、あたかも自分や家族の歴史、自身の一部を失ってしまったような寂しさ、不安を感じる。そして記念に一部だけでも部材を移転先に保存、再利用することによって、寂しさが緩和される。引っ越して何も置かれていない新居に入っても、落ち着かないばかりだが、慣れ親しんだ家財道具を自らの考えで配置することによって、自分の空間と感じる事ができ、落ち着く。すなわち、なじんだ住まいの風景を失うことは不安、寂しさを感じさせ、他方再現することによってそれを紛らわすことができるのである。
 旅行でホテル、旅館に宿泊する場合も、部屋に入って、ソファに座ったところで、まったく落ち着かない。まずは窓外や、廊下、周囲の様子を見る。バス、トイレ、冷蔵庫などを覗き、さらに自宅から持って来た荷物を取り出して、ひげ剃りは、化粧品は、着替えは、バッグはと、それぞれそこと思う場所に置く、そしてテレビや椅子の向きを変えたりして再度座り、ようやく落ち着く。すなわち人は、自ら手を加えた風景を作り、一部でもなじんだ風景を再現することによって落ち着くことができ、自分の空間と感じることができるのである。
2.わが街の風景へのこだわり
 再開発で地域一帯が破壊され、新しい街並みへと造りかえられる、といった場合、人はさらに深い悲しみ、寂しさを感じる。また長年訪れなかった故郷を再訪し、旧知の人に会えないだけでなく、記憶に残る海山、街並みなどが変わっていたり、消滅していたりした場合には、あたかも自分を見失ってしまったかのような寂しさを感じるものである。
3.故郷の風景の共有とアイデンティティ
 こうした故郷の風景は、個人、家族だけのものではなく、人々の間で共有される。たとえば鹿児島の人々にとって、桜島は故郷の象徴的風景であり、遠隔地に移り住んでも玄関や床の間に桜島の絵や写真を飾る、といった薩摩人は多い。だから、仮に大噴火によって山の形が大きく変わってしまったり、さらには存在しなくなってしまったり、といったことが起これば、鹿児島の人々は大変な衝撃を受けることになる。桜島の風景があってこそ、薩摩人が自らのアイデンティティを確認し、互いに確認し合うことができる、ということになる。
 要するに、自分の風景、自分たちの風景、故郷の風景とは、人が、人々が、自らのアイデンティティを確認し、維持していくために不可欠なものであり、それゆえ人々は、そうした風景の改変に抵抗するのである。 

第四章 日本人のアイデンティティと日本の風景
I.作られた日本人
 われわれは日本人というものが当然のように存在してきたと思いがちだが、実際は、江戸時代でも、人々には長州人、薩摩人といったアイデンティティが重要で、自分たちはみな日本人、などという意識が明確にあったわけではない。明治維新を経て、明治政府が大日本帝国という新たな国民国家を作るために、人々に日本人という新たなアイデンティティを持たせる必要があったわけで、今日のような日本人とは、多分に明治政府によって作られたものである。
2.明治政府によるアイデンティティの操作と風景
 東京出身者の多くがふるさとがないと言う。東京生まれなら、雑踏の東京の街並みがふるさとのはずなのだが、ふるさとというと、田畑があり、山があり、小川が流れ、動物、植物など自然と近しいふれあいがある、といったイメージが固定されてしまっている。それゆえ、自然に乏しい東京の風景はふるさとの風景とはみなされず、東京出身者はふるさとがない、と考えるようになってしまっている。
 この背景にあるのが明治政府の制定した小学唱歌である。当初は洋楽そのままに日本語の歌詞を付けたものだったが、君が代が制定された1889(明治21)年には「故郷の空」、1894(明治27)年の日清戦争、1904(明治37)年の日露戦争を経て1910(明治43)年には「春が来た」、1912(大正元)年には「紅葉」、東洋一の巨大な帝都中央駅東京駅舎完成の1914(大正3)年には「故郷」が作られている。
 沖縄から北海道まで、そして東京の人々も、こうした文部省唱歌を等しく学習させられることによって、そこに歌われた、小鮒の泳ぐ小川、ウサギのいる野山のある農村、という風景が、統一された日本の故郷の風景として刷り込まれたのである。
 ふるさとの風景は本来地域によって大いに異なり、それぞれの風景を共有する人々が、薩摩人、会津人といったアイデンティティを共有することができていた。しかし欧米に伍した近代国家作りをめざす明治政府は、そうした江戸時代以来の地域アイデンティティを廃し、大日本帝国臣民というアイデンティティを新たに作り上げる必要があった。そのために利用したのが、共通のふるさとの風景であり、それを人々に注入するために利用されたのが文部省唱歌だった、というわけである。
 明治政府はまた、各地域の政治的中心であり、高くそびえ地域の風景の求心点でもあった城を破壊し、跡地に軍隊を駐屯させ、県庁、市役所、裁判所、警察本部といった新たな明治政府の支配機構を象徴する建造物をたてた。さらには、元々咲いていた各地域の地方種の桜にかわり、新たな帝都東京の桜であるソメイヨシノを植えた。歌だけでなく、現実にも、統一された新たな大日本帝国の風景を作り上げようとした。
 こうして明治政府は、天皇の御真影、御巡幸、全国津々浦々から宮城の正面玄関東京駅へと列車が上る鉄道網、標準語、などと共に、人々に共通のふるさとの風景を共有させ、それによって新たな大日本帝国臣民としてのアイデンティティを共有させることに成功した。
 要するに、アイデンティティを背景からささえる故郷の風景は、改変することによって、逆にアイデンティティ自体を改変、操作してしまうことができる、というわけである。

第五章 ハマっ子のアイデンティティと横浜の風景

1.ハマっ子という重層的アイデンティティ
 横浜の歴史は、都であり、城下町、門前町である他の大都市に比べると、きわめて短い。現在の市中心部は元々海、漁村、宿場町だったが、幕末以来の国策による埋め立てで、文明開化最先端の港町が作られた。その後も工業化政策、高度成長政策で、周囲の農村、漁村を飲み込み、京浜工業地帯となり、郊外の農村地帯を新興住宅地へと変え、巨大ベッドタウンへと成長した。
 それゆえ 旧住民は、東京湾岸の漁村、農村に生活した人々とその子弟である。また横浜に生活しているものの、アイデンティティは依然として地方の出身地、という新住民も多い。こうして、開港と文明開化、工業化、高度成長という国策で横浜にやってきた人々が、港湾、貿易、商業、そして工場労働者に変身して元漁民と同じ町で働き、ベッドタウン化でやってきた新住民が、東京都心通勤のサラリーマンに変身して元農民と共に住み、旧住民は常に少数派になり続ける、という歴史を繰り返してきたわけで、人々のアイデンティは日本の近代化と共に激しく変動してきた。
 しかし他方で、横浜と言えばハマっ子、というアイデンティティを示す良く知られた表現がある。3代住まないと資格がないといわれる江戸っ子とは異なり、横浜で生まれただけで、さらにはどこの出身でも3日住めばハマっ子、などと言われるから、先祖代々住み続け、工業都市化以前を知る元漁民、ベッドタウン化以前を知る元農民、東京から溢れ出た人々、就職、進学のために地方から来たばかりの若者も、皆ハマっ子ということになる。そして新興住宅地の新住民でも、多くはミナトヨコハマに憧れ、移り住んできているから、横浜に住んでいることに誇りを持ち、自らハマっ子と自認している人も多い。つまり幕末以来の国策によって寄せ集められ、変身させられた多様な人々が、共通のアイデンティティとして求めているのがハマっ子、というわけである。
2.ハマっ子の故郷の風景にこだわる
 こうした、ミナトヨコハマのイメージとは無縁な新興住宅地に住み、東京都心へ通う人々も含めたハマっ子というアイデンティティを背後から支える共通の故郷の風景こそ、漁村でも農村でもない、文明開化の国際都市ミナトヨコハマの風景である。
 他方で、全国各地からやって来た多くの人々にとって、故郷の風景とは、農村、山村、漁村といった田舎の風景であるし、現在は多くがサラリーマンとなった旧住民にとっても、故郷の風景は、ほとんど失われた漁村、農村の風景である。
 こうしたハマっ子の重層的なアイデンティティを反映したのが、文明開化の国際都市ミナトヨコハマの風景へのこだわりであり、ミナトヨコハマ以前の自然の海、漁村、農村の風景へのこだわりなのである。すなわち横浜の風景の改変への抵抗と復元とは、まさに次々と変身を求められてきた人々が、自分たちのアイデンティティの改変に抵抗し、アイデンティティを支える共通の風景を確保しようとする動きであるといえよう。

結論
1.明治政府は、天皇の国家である大日本帝国を作り上げることをめざしたが、これは鎌倉時代以前の伝統的日本への回帰であり、人々は天皇の民、帝国臣民となることを求められた。ところが他方で、文明開化政策により、伝統文化を廃し、欧米の「進んだ」文化を取り入れ、脱亜入欧の文明国民になることも求められた。それらを象徴し、人々のアイデンティティを操作するために作られ、用いられたのが、広い堀と高い石垣の向こうに隠れた宮城、ソメイヨシノの咲く城跡の県庁であり、銀座煉瓦街、一丁倫敦といった風景だった。
 その後も、富国強兵めざした軍事大国の兵士となることが求められた時代の軍施設や軍需工場、向都離村、離農により高度成長を続ける先進工業国の工場労働者、ホワイトカラー化が求められた時代のビジネス街、郊外新興住宅地、団地など、いずれもその時代の日本人が求められた新たなアイデンティティを象徴する風景が作られてきた。人々はそうした新しい風景の中に移り住み、生活することで、新たな時代の日本人としてのアイデンティティを与えられ、変身することを求められてきたのである。
 しかしながら当然人々は、なじんできた風景を改変されること、ましてそれによって自ら変身させられることには大変な抵抗感を持つ。アイデンティティは外からの操作によって一朝一夕に改変できるものではなく、都市に移り住み工場労働者となった人々も、実は相変わらず出身地である農村、漁村の人としてのアイデンティティを忘れず、ウサギを追い、小鮒を釣った、桜島、磐梯山のそびえる、故郷の田舎の風景にこだわり続けるのである。
2.国策により幕末以来改変されてきた横浜の風景の場合は、とりわけ文明開化の、先進工業国の人々、というアイデンティティを作り上げるための代表的舞台装置であった。それゆえ、横浜に生きる人々のアイデンティティは、一方で、欧米文化を真っ先に取り入れた、豊かでハイカラな国際都市に生活する、全国から羨望される都会人、というものとなる。しかし他方で、地方出身者や旧住民は、農山漁村の故郷の風景をも懐かしむ人々である。3日住めばなれるハマっ子とは、まさにそうした重層的アイデンティティを持つ人々の共通のアイデンティティなのである。
 こうして新時代のアイデンティティを象徴する風景と、旧来のアイデンティティを象徴する漁村、農村の風景に共にこだわり、自らのアイデンティティを確認し続けるハマっ子の姿は、明治以来激動する時代に変身を求められ、戸惑いながらも新しいアイデンティティを装い、同時に古きアイデンティティにもこだわり続けてきた近代日本人の典型的姿、ともいうことができよう。

参考文献 
神奈川県立歴史博物館、2004、『横浜正金銀行−神奈川県立歴史博物館−世界三大為替銀行への道−』、神奈川県立歴史博物館
中島康比古、2002、「1930年代の横浜市政と史跡名勝保存−戦時下の過大過密化と都市計画−」、大西比呂志、梅田定宏編著、『「大東京」空間の政治史 1920-30年代』、pp69-103、日本経済評論社
斗鬼正一、1998、「都市空間・植物・エスニックアイデンティティ−クライストチャーチの予備調査資料から−」、『情報と社会』8、pp101-109、江戸川大学
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横浜マリタイムミュージアム、2003、『横浜港と京浜臨海工業地帯』、横浜マリタイムミュージアム
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横浜都市発展記念館、2003、『目で見る「都市横浜」のあゆみ』、横浜都市発展記念館

図1.漁村風景を残す鶴見区生麦
図2.旧三菱銀行横浜支店
図3.マリンタワーと氷川丸