ウルルン海外研修で得する法教えます

斗鬼正一

何といっても必修だ。嫌だ、怖い!とお嘆きの諸君、どうせ行かなきゃならないなら、得する方法を考えよう。といってもブランド物の買い出しツアーじゃない。杜会学部の大学生として得する法を、ニュージーランド(NZ)引率12回、世界ウルルンフィールドワークの文化人類学者斗鬼正一が教えよう。

I. 「ほんものの国際人」養成講座として利用しよう

1. 英語ペラペラ=国際人か?

世をあげて国際化の大合唱だ。ではその国際化杜会で活躍すると称される国際人とはいったい何なのだろうか。英語ペラペラ=国際人、という一種のファッション感覚から発生した理解、誤解が根強い。誤解といっても、語学がどうでもよいというのではない。それどころか、語学は基礎の基礎、できて当然、できなきゃ損する。だから当然がんばれ。ただしそれだけではない、という話だ。

2. 「非神経質」な人こそほんものの国際人だ

「世界ウルルン滞在記」を見たことのある人はわかるだろう。異文化コミュニケーションは、実に大変なことだ。そして最も現実的な問題は必ずしも語学ではなく、実は味覚、嗅覚といった知覚や、生理的反応に関わる問題なのである。早い話が、色の見え方だって文化によって、つまり民族によって違う。日本、韓国・朝鮮、中国人には七色に見える虹が、ジンバブエのショナ人には3色、リベリアのバサ人には2色にしか見えない。これは光のスベクトルが本来連続的なものであるのを、各文化が異なったやり方で一つ一つの色として分類し、人々がそれを学習させられたからである。

さらに、こうした文化による分類の背景には、各民族の価値観の相違がある。ある民族は、穀物が実ったか否かを明確にするのに好都合な分類を採用する。動物の状態を見分けられることが死活間題である遊牧民族の中には、いわゆる未開人でも、日本人よりもはるかに多くの色を分類し、見分けられる民族もいる。また、彩度、明度、色相という我々の用いる基準と異なり、乾き具合などを、色分類の基準として用いる民族があったりするのも、そうした理由である。

目の構造が違うためでもなければ、まして文明人か未開人かなどとは関係がないのだが、虹が2色にしか見えないなどというと、どうしても遅れた未開人、などという評価をしてしまいがち。しかしこれでは、世界中が喧嘩である。

ましてこれが、味、匂い、清潔観などにかかわる生理的反応となると、もっと困ったことになる。実際他民族を軽蔑するのに、臭い、汚い、気持ち悪いものを食べる、といった表現が一般的だ。生理的反応は、吐き気がするものは誰が何と言おうと吐き気がしてしまうのだから、理屈ではどうにもならない。そしてそれが異文化への非寛容、差別、そして争いへとつながっていくことになる。

代表例は食。何を食べるべきか、何を食べるべきでないかは、文化が決めているし、味覚もまた文化によって教えられるから、どんな味がおいしいか、まずいかは民族によって異なる。だから香港人の好む蛇料理など、目本人は見ただけで吐き気がする、ということになる。こんなものを食べるなんて野蛮だ、遅れている、で片づけてしまえば簡単だが、逆に香港人からみれば、ナマの魚を平気で食べる日本人の方がよほど野蛮だ、ということになってしまう。

食に関する清潔観もそうだ。食事中に平気でゲップをする香港人を、日本人は、何と気持ちの悪い人達だと軽蔑する。しかし香港人の側も、麺を音を立てて食べる日本人に、同じようにぞっとしているのである。

これでは友好どころではない。ではどうするか。まずは文化とはどういうものなのか、文化の違いとはどんなことなのか、異文化が出会うとどんなことが起こるかを知ることだ。そして自文化の基準はひとまずおいて、相手に耳を傾け、理解しようと努めること。それでも気持ちが悪いものは仕方がない。友好関係を保ちたい以上、慣れよう、非神経質になろうと努めるしかない。それができる、しようと努力する人こそ、「ほんものの国際人」なのだ。

3.最良の国際人養成講座

こんな観点から、江戸川大学の研修を振り返ってみると、見事に「ほんものの国際人」養成講座なのだ。まずは味覚の例。NZの食物はとにかく甘い。食後に山のように出るデザートはとりわけ大変で、アップルパイにアイスクリーム、おまけにチョコレートまでのせて食べるし、生クリームも砂糖がジャリジャリするほど甘い。パブロバに至っては、ほとんど砂糖の塊だ。ポップコーンやステーキにも砂糖をかけていたとか、味噌汁にも砂糖を入れて飲んだなどと、研修参加者はびっくり仰天する。さらに日本人には理解できない味というものも存在し、そんなものをキウィ(ニュージーランド人の自称)が好んで食べることを知るだろう。キウィがパンに塗って食べる大好物のベジマイト、マーマイトは、苦いとも辛いとも日本人には形容できない凄い味で、ほとんどの日本人は口に入れた途端に吐き出してしまう代物だ。おまけに温かい料理、冷たい料理、甘い料理、辛い料理を同じ皿に盛り付けたりするから、混ざって妙な味となるが、キウィは一向に意に介さない。

これに対して研修参加者は初めのうち、キウィは味音痴だ、食文化が遅れている、などと片づけてしまう。でも3週間生活を共にするうちに、逆にキウィから見れば、ナマの魚や海苔、そして同じ甘いものでもアンコなどというものは、とんでもなく気持ちが悪いし、ワサビのようにメチャクチャに辛いものがおいしいなどとは信じられないことなのだ、ということを知る。すなわちどんな味がおいしいかは民族によって異なるし、気持ちが悪いなどというのはお互い様で、どちらが遅れているかなど決めようがない、ということを身をもって体験するのだ。

 清潔観も同じだ。バスの座席に土足を投げ出したり、図書館で床の上に座って読書したりする人がいる。町を裸足で歩いたり、家の中の絨毯の上を土足で歩き、その絨毯の上に本や皿を置いたりする。ところが掃除はあまりしない。雨が降っても傘をささず、洗濯物も取り込まない。風呂にはほとんど入らず、朝のシャワーだけだ。極めつけは食器洗いで、流しに溜めた湯に洗剤を入れて泡立て、その中にどんな油物も一緒に放り込む。そしてスポンジでこすってフキンで拭けば完了。すすぎをしないから、洗剤や汚れを薄めて食べているようなものだ。これにはかなりの非神経質な人もショックを受ける。確かに日本の文化では、家の中に土が入ったり、雨で濡れたり、食器に洗剤がついていては汚いし、気持ちが悪い。

ところが一方で、町が日本とは比べものにならないくらい美しいことに気づくだろう。歩道と芝生の奥に、広々とした美しい庭に囲まれ、ゆったりした住宅がある。住宅の形、色は周囲の環境との調和を考えてデザインされ、頻繁にペンキを塗り替える。芝は雨が降るたびに刈り揃えられる。町には落書き、貼り紙、どぎつい看板もなく、ごみや吸いがらはほんとに少ない。タンを吐く、立ち小便をする、などという人もいない。そうしたキウィから見れば日本の町は恐ろしく汚く、目本人は不潔なのだ。つまり、何をきれいにするべきか、どんな状態がきれいなのかは、文化によって異なる、そしてその背景には、日本とは異なった杜会構造があるのだ。そういったことを知らないで、自文化の尺度で彼らは不潔だ、気持ちが悪いなんて言えない、ということがじきにわかるだろう。

こうして生理的な反応も実は文化によって決定され、諸民族はみな違うのであり、そしてその違いの背景には、それぞれ異なった価値観がある。それゆえ、自文化の尺度を一方的に当てはめて、どちらが優れている、劣っているなどと簡単に決めつけることはできない。そして、友好的な関係を築くには、相互に理解し合おうとすること、たとえ理解しがたいことでも、違いを認め、尊重しあうことこそ重要であり、それでもどうしても気持ちが悪いなら、慣れる、非神経質になるしかないのだ、といったことを、文字どおり体を通して学ぶのである。

こうした認識を持った人達は自文化を基準にして、豊かか貧しいか、進んでいるか、遅れているか、といった尺度だけで諸民族を評価し、世界に対立を作り出したりしない、多様な尺度を認める「ほんものの国際人」候補になれるだろう。そしてこれは、日本人ばかりのツアーでどっぷりと風呂につかり、日本食を食べ、名所巡りとブランド物ショッピングといった旅では望み得ないことなのである。

 

II. ミニフィールドワークでウルルン体験しよう
1.     なんでフィールドワークなのか

文化、杜会の比較研究と人問の理解をめざす文化人類学の特徴はフィールドワークだ。文化人類学でいうフィールドワークとは、単に現地調査という意味ではなく、生活共有による調査をいう。熱帯ジャングルの村、大都会、日本の僻地と、世界中至るところに出かけ、現地の人々と同じ屋根の下、同じ物を食べ、一緒に働き、遊んで、文化と人々を知る。まさに「世界ウルルン滞在記」だ。勿論、精神的にも体力的にもきつい。「郷に入っては郷に従え」だから、気味の悪い食物が汚い食器に盛られていても、平気な顔で食べなげればならないし、風呂なんか入らなくても平気でなければ勤まらない。

こうして異文化の家庭に飛び込んだ文化人類学者は、好奇心の塊となり、食事をどうやって並べたか、座順はどうか、片づける順序はどうか、洗い方は、しまう場所はどこか、客が来たらどこでどう応接したか、隣人だったら、親戚だったらどうか、客の差し出した土産をどこに置いて、いつ食べたか、近所の店に買い物に行くのに何を着て、どの靴を履いて行ったか、不幸や祝い事があったら、どんな関係の人がどんな表情で、何を贈ったか、などなど、日常生活に密着した情報を集める。そしてその分析から、文化、杜会、人々の理解が可能になってくるのだ。

ではなぜ文化人類学者はそれほどまでにウルルン滞在にこだわるのだろうか。無論他の諸科学同様に、事実のレベルから始まって抽象へ、というプロセスを取ることは勿論だ。しかしスタートの時点で、現実に生きている一人一人の人間の、喜び、悲しみにあふれた、日々の生活の場にまで下りていこうというのだ。人々の側から、人々の視線で、固有名詞にこだわって理解しようとするのだ。そしてそれは、対象が杜会、文化、そしてそれを作り出した複雑怪奇な人間というものだからなのだ。人間を理解するのにその人達と直接ふれあうこと、生活を共にすることに勝る方法はありえない。履歴書、写真を百回見るよりも、一回会った方がはるかによくわかる。ただ会って話すよりも、お茶を一緒に飲む方が、食事を共にする方が、さらによくわかる。毎日の生活を共にすること、ウルルン滞在こそ最上の方法だからなのである。

2. ウルルン滞在を経験しよう

こうした文化人類学の立場から見れば、本学の研修はまさに、ミニフィールドワーク。キウィの家庭に入れていただき、家族の一員として生活を共にする。食器の洗い方、近所付き合いから夫婦喧嘩に至るまで、文字通り人々の生活のあらゆる側面にふれることができる。これは本で読んだだけ、テレビで見ただけ、ツァーでまわっただけというのとはまったく違う。プロではないから、質問の仕方、メモの取り方といったフィールドワークの技術や、日常生活の膨大な情報のどこに注目し、分析し、理論としてまとめていくか、といった学問的方法論は素人かもしれない。しかし技術は文化人類学者も体で覚えることだし、分析、理解の方法論はそれこそ杜会学部だから、前後にいくらでも学べる。1年後期には「NZ研究」という講義も履習できる。まずは好奇心の塊になって、日常生活の小さな情報を片端から集めるところから始めよう。それがおもしろくなれば、後は4年間しめたものだ。文化人類学者にとって、現地こそ最良の研究室、現地の人々こそ最良の師であるように、この研修は、現地を最良の教室、第2の家族を最良の師として、杜会学部の学生にふさわしいウルルン滞在を経験する最高のチャンスなのだ。

 

皿.学びのスタートを切ろう

1.人生最大の道楽へ

何といっても卒業しなければしょうがない。そのためには勉強しなければどうしようもない。でも勉強はもうたくさんだという諸君、学問こそは人生最大の道楽だ。知の探険にいったん出発すれば、次々と未知の魅力的な世界が見えてくる。こんな楽しいことはない。おまけに自分が知的に成長するから、こんなお得なことはない。だが困ったことに、学問などと言うと、くそ難しく自分達には縁のないものと決めてしまっている人も多い。だからさわってみようとも思わない。これは損だ。原因は要するに、入り口がわからず、とっつきにくいと思い込んでいるからだ。でもそれは大きな勘違い。あのニュートンだってきっかけはリンゴだ。実はすごく身近なこと、当たり前のことを不思議に思い、なぜだろうと考えるところから学問は始まる。とりわけ文化人類学などと言う、フィールドワークで集めた情報で、杜会、文化、そしてそれを作った人間というものを考えていこうとする学問では、材料は身近なものでしか有り得ない。なぜ人は掃除をするのだろうか。それ以前に、なぜごみは汚いのだろうか、などという当たり前すぎて考えてもみないことを考えることこそ、学問への入り口なのだ。とっつきにくいどころではない。入り口はそこいらじゅうに転がっているのだ。いったんスタートを切れば、思わぬ発見があり、謎が解け、次なる疑問が湧いてくる。そうなればしめたもの、後は次々と新しい世界が開けてくる。学問は本当に道楽だと、実感できるだろう。

2.「見る目」を持って得しよう

ところが、入り口が身近すぎることが逆に障害にもなる。人は関心のないことは見えない。たとえ網膜に映っていても、脳が認識しない。さらに人は、身近すぎること、当たり前とされていることも見えない。意識的にこうしたことが見える、「見る目」を持つようにすること、これが道楽への第一歩だ。

そして実は、こうした「見る目」を持つことは、学問への入り口であるだけでなく、すごく得なことなのだ。これからの日本では、目常性の中に埋もれ、誰もが当たり前だと思い込んで見えなくなってしまった問題点を掘り起こし、誰も気づかなかったアイディアがひらめく独創性を持つような人こそが得するのだ。単純労働がどんどん淘汰されていく中で、日本の企業、その日本で生きる我々、そして日本自身が生き残る道は「見る目」を持つことなのだ。当たり前のことを当たり前で済まさない、なぜ、どうしてなのか、と考えられる力の基礎になるのが、こうした「見る目」なのだ。

3.得する道の入り口へ

ではこうした「見る目」はどうやったら持つことができるのだろうか。実はそのきっかけになり得るのが本学の研修なのだ。本で読んだこと、講義で聞いたことは勿論、日常生活で見ること、聞くこと、経験すること、あらゆることから、次々発見し、驚き、面白がり、さらに次の発見をしていく学生がいる。彼らはそうして出会った情報を、考えるきっかげ、材料として利用し、自分のものの見方、考え方を作り上げて行くから、大学4年問でどんどん成長する。彼らはいわば「見る目」を持った学生だ。こうした学生はNZでも好奇心の塊となって、町中を探険し、こんな発見があったと目を輝かせて報告してくれる。

他方こうした「見る目」が不足している学生もいる。彼らは何をしていいのか、どこに行っていいのかわからないから、みんなの後をついて行くだけ、土産物屋巡りをするだけ、ということになってしまう。こうした学生は、学問への入り口を見つげることも難しいから、人生最大の道楽を知らないまま、杜会へ出ても損をしたまま、ということになってしまいかねない。

実は本学の研修は、後者の学生にこそ有効だ。どんな日常的なことでも、「見る目」さえあれば、次々と新発見ができ、そこからさらに次の好奇心が湧き、次の発見へつながる。そしてそれは実に面白いし、自分が成長して行くのが目に見えてわかるから本当に楽しい。そうしたことを身をもって経験できる絶好のチャンス、それがこの研修なのだ。何しろ日本なら当たり前のことが当たり前ではないし、一見同じと思えたことも実は意味が違ったりするから、あまり「見る目」がなくとも、いやでもいろいろなことに気がついてしまう。目の付けどころ、気付き方のヒントを与えれば、さらに良く見えてくる。加えて、そうして見えてきたものがいったい何なのか、どうしてなのか、どういう意味があるのか、と考える手助けをしてやれば、次々と新発見ができる。そうして知的感動を知った自分に気付いて喜んでくれれば、このトレーニングは大成功。後は「見る目」が自然と冴えてくる。そして次々と出会った情報をきっかけに、自分のものの見方、考え方がどんどん成長していくはずだ。

せっかく大学にきたのだ。この研修を学問という道楽を知って得する絶好のチャンスにしよう。

IV. やわらかあたまで激動の時代をサバイバル
1.やわらかあたまでキウィに変身

世界も、日本も、すさまじい速さで変化している。昨日までの常識、価値観がもう通用しない。好むと好まざるとにかかわらず国際化が進み、身の回りに異なった文化を持つ人々がどんどん増えてくるし、自分自身が海外で生活しなければならなくなるかもしれない。

一度習慣化したもの、それまでの当たり前から抜け出すのは誰でも抵抗がある。しかし、そうした変動の激しい杜会で生きていくのには、一度思い込んだこと、一度身についたことが決して変えられない、という人は損をする。せっかくのニュージーランド暮らし、日頃の生活習慣は脇に置いて、思いきってキウィに変身してみよう。それが適応力のある、やわらかあたまをめざす絶好のトレーニングになるだろう。
2.日本人、日本文化を振り返ろう

カルチャーショックは、日本文化や、自分が日本人だということを実感させてくれる。一体日本文化とは、日本人とはどんなものなのか、NZ文化との出会いによるカルチャーショックの中で、考えてみよう。そして、自分が日本人であるにもかかわらず、いかに日本のことを知らなかったかも、痛感してほしい。
3.自分の生活、人生を振り返って得しよう

自分のことは外から見て初めてわかる。振り返ってみるチャンスだ。キウィと日本人は、単に生活が異なるということを越えて、むしろ人生観が異なる、といったほうがいいかもしれない。たしかに経済的、物質的には日本の方が豊かだ。しかし満員電車の長時問通勤、サービス残業の後は同僚と飲み屋に繰り出し、休みはごろ寝。中高生まで夜の町を徘徊し、個室に閉じこもる。家族はバラバラ、町にはとげとげしい人たちがあふれる。本当に豊かなのはどちらだろうと疑問が湧いたら、これから日本がめざすべき方向、自分の生き方をもう一度考えるヒントを探してみよう。

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