埋め立て地から見る都市
                    斗鬼正一

    
                                         2000(平成12)年12月
                                         『東京湾学会誌』1巻4号、東京湾学会

概要
 波動、ゼロメートル地帯の例からも明らかなように、文化の産物である都市空間と自然の海の境界は本来不明確である。しかし都市は文化による自然の徹底排除、統制が不可欠である。そこで東京湾埋め立て地を事例に、物理的、文化的にどう自然から切り取られ、維持されているのか、都市で内部発生する自然の排除にどう利用されているのかを検討することによって、人間の作り上げた最大の文化である都市とは何かを考察した。


                       埋め立て地から見る都市
                              斗鬼正一
                              
はじめに  
 人間は本来弱い動物であり、自然の脅威に生存を脅かされる。しかし他方で、食物など、自然から導入した動物、植物等に依存することが不可欠である。そこで人間は、自らの生存を維持していくために、自然に対抗し、統制する方法として、たとえば動物に対抗する武器、植物を統制する栽培といった文化を作りだしたのである。
 これを空間的側面から見るならば、人間はまず、自らの身体を置く場として物理的に一定の空間、大地を確保しなければならないが、さらにその空間が、自然のなすがままではなく、文化によって統制された空間として維持されていなければならない。つまり猛獣が跋扈し、植物で埋め尽くされた空間では生きていけないから、人間は植物を刈り払い、害獣を駆除して一定の空間を確保し、さらには飼育、栽培といった文化で統制した動植物をその空間に導入し、利用しようとするのである。
 都市空間もそうした空間である。それゆえまず大地として確保するために、森林は伐採され、野生動物は追い払われ、必要な動植物などは、農産物、水産物、飼育動物などとして、すなわち、文化によって統制された形で初めて導入される。
 さらに、植物に覆い尽くされたゴーストタウンを見れば明らかなように、都市空間は常に自然に対抗して維持していかないと、自然のなすがままの空間に戻ってしまう。そうした自然の侵入を排除するために作り出された文化的概念が、汚さ、おかしさである。たとえば、山中なら何でもない雑草や落ち葉、虫や野生動物が、都市空間では汚い、おかしいものとされる。これは身体内外の境界を曖昧にする身体に付着した泥が汚いとされるのと同様で、都市空間への自然の侵入を阻止し、侵入したものを排除し、文化の統制する都市空間と、そうでない、自然の支配する空間との境界を明確化するためである。
 さらに都市空間に暮らす人間もまた本来動物であるから、様々な自然が内部発生する。それが廃棄物、排泄物、汚水であり、動物的な行動とその結果である。こうした人間自身によって生み出される自然もまた、自身の生存を阻害するから、汚い、おかしいものとして排除されるのである。
 本稿ではこうした視点から東京の埋め立て地に注目し、まず都市空間がどのように自然の支配する空間である海から切り取られ、維持されていくのか、さらに都市空間から発生する自然の排除にどのように利用されているのかを検討する。これによって、人間の作り上げた最大の文化の産物である都市とはなにかを考察しようというのである。

都市空間と海の境界

1.陸と海の物理的境界
 我々は陸と海の物理的境界は地図に線として記されているから、明確なものと思いがちである。しかし海は常時波動しているし、潮位は毎日2回干満を繰り返しているから、現実には明確な海陸の境界はありえない。隅田川は千住、神田川は江戸川橋あたりまで海水が逆流し、ハゼ、ボラが横十間川を亀戸あたりまで上るし、扇橋親水公園にはクラゲも来るのである(石川,1991)。
 また元々東京湾北部は大部分が浅く平坦で三角州が張り出し、干潟、洲が広がっていたから、海との境界は不明確である。さらに経済高度成長期には、地下水汲み上げなどによる地盤沈下が続き、ゼロメートル地帯と言われる本来水面下のはずの地域に都市空間が広がることとなった。またゼロメートル地帯でなくとも、水害、津波、高潮などでは、繰り返し海によって都市空間が犯されてきた。 
 赤羽から品川に至る京浜東北線に沿った崖が海触崖であるように、長期的には陸地は海によって侵食され、他方堆積による砂州の成長もある。さらに長期的にみれば、2万年前の氷河時代最後の氷期には東京湾は陸地だったが、縄文早期時代末頃には温暖化のため海面が現在より約10メートル上昇、奥東京湾は現在より約70キロ遡り、東岸は下総台地の西端に沿って市川、流山、野田から古河付近まで、西岸は武蔵野台地の東端から大宮台地の東端に沿って遡っていた。次第に海が退き、現在の海岸線に近くなったのは縄文後期のことなのである(高橋,1996)。
2.陸と海の境界不明確化
 人々が生存していくために、海から都市空間に魚貝、海草、塩、資材、そして海水などが導入される。また様々なものが海路を経て運び込まれる。逆に都市空間から海にも、排水、廃棄物などが排出される。こうした陸と海の間を行き来するものの存在は、都市空間という文化の空間と、海という自然の空間の境界を不明確化するものとなる。

江戸・東京と埋め立て地

1.埋め立ての歴史
 江戸・東京の歴史は空間的側面からは埋め立ての歴史である。すなわち、1590(天正18)年の徳川家康入府当時、江戸城西北の山の手丘陵地帯以外はほとんどが汐入りの低湿地か河川下流域の沼沢地で、日比谷は入り江、日本橋、銀座など中央区のほとんどと江東区は海だったのである。
 家康は1592(文禄元)年、江戸城西の丸築城にともなう堀の上げ土を日比谷入り江に投入し、埋め立てた。1603(慶長8)年征夷大将軍に任ぜられると、神田山を切り崩し、豊島洲崎を埋め立て、浜町から京橋、新橋付近に至る下町を造成、日本橋、京橋、新橋を架けた(高橋,1994)。1657(明暦3)年振り袖火事の後、市街地拡張のため湿地、荒れ地の多い本所開発を進め、1659(万治2)年には両国橋が架橋され、武家や寺院、材木商などの計画的移転が進められた。また霊巌寺による霊岸島、深川八郎右衛門による深川、砂村新左衛門による砂村のように、民間で、事業として行われた地域も多い。
 こうした埋め立ては明治以降も続き、明治期から1960年までに、現在の江東、中央、港、品川、大田区の21カ所1878ヘクタール、1961年以降昭和末までにさらに22カ所3829ヘクタールが埋め立てられたのである。
2.埋め立ての方法
1)堤
 埋め立てはまず、海中に木材、石、土、鋼板、コンクリートなどで堤を設けてから、内側を埋めてゆく。お台場海浜公園の砂浜も人工で、鋼矢板を打ち込んでなだらかな岸辺を造成、砂浜を流失から守り、景観修景のために景石まで配置している。葛西臨海公園では砂岩を海上に積み上げて砂止めを設置、砂を26万立方メートル投入して干潟を造成した。また埋め立て地にある荒川の河口は鋼矢板が打ち込まれ、海との境界が明確化されている
(石川,1991)。
2)整形
 埋め立てがごみにより行われる場合は、覆土とごみを交互にサンドイッチ状に重ね、最後には客土を行って整形される。こうして、かつてごみの島だった夢の島には、体育館、競技場、野球場、熱帯植物園などが並び、手入れの行き届いた並木、芝生の公園、子供たちが虫を追う雑草が繁った広い野原まで広がっているのである。また埋め立て後放置中に野鳥が住み着き、野鳥公園に転換した東京港野鳥公園では、誘致したい鳥の種類に適した地形に修正作業を続けている。
3.埋め立ての材料
1)残土、瓦礫、浚渫土、
 江戸でも埋め立てに城構築の残土が用いられたが、関東大震災、第二次世界大戦の戦災によって都市空間にあふれた瓦礫を処理し、復興を進めるためにも埋め立てが行われた。現代でも、とりわけ経済高度成長期、バブル期は大量の建設残土、廃材が発生し、夢の島、若洲、羽田空港沖合展開などの埋め立てで処理された。城南島の一部も建設残土である。また辰巳、東雲、有明、青海、品川埠頭、大井埠頭、平和島、京浜島、旧羽田空港などは、河口ゆえに年々堆積が進む東京港の水深確保のために続けられる浚渫土で埋め立てられている。
2)ごみ
 江戸初期のごみ処理は、周囲に捨てることで完結していた。掃溜小路、ごみ坂、芥坂といった地名が散見されるように、至るところに空き地があったし、町割りの区画の中央である会所地は低地で、下水とともに、ごみの捨て場にもなっていたのである。しかし江戸の巨大都市化にともなって行き詰まり、収集、運搬して都市の外に、という現在と同じ過程が組織化され、1655(明暦元)年には幕府が永代島をごみ捨て場に指定し船で運ばせた。
 その後ごみは、単なる廃棄物ではなく、新田造成資材として注目され、1681(延宝9)年には、干潟や入り江を埋め立てて新田化するために、永代島新田、砂村新田の2カ所が運搬先に指定された。1696(元禄9)年には、低料金でのごみ取り、上総澪さらいを条件に、ごみによる新田造成請負が申請され、翌年には、深川永代浦干潟15万坪を新田化するためにごみ捨て場としての指定申請が出された。その後も埋め立ては永代浦十万坪、六万坪と続き、造成された土地はやがて市街地へと転用されていった。幕府自身もごみで土地造成という発見に刺激を受け、1724(享保9)年本所猿江御材木蔵跡入堀をごみで埋め立てることとした。
 こうしてごみ処理への統制は徐々に厳しくなり、永代島へのごみ捨ても官許の船、または官に雇われた船のみとなり、町には大芥溜が作られ、つきぬけのごみ溜と共に、町に管理責任を負わせた。さらに埋め立てに積極的に用いられるようになると、幕府は芥改役を置き、有効に利用されるよう取り締まりにあたらせたのである(伊藤,1982)。
 ごみによる埋め立ては明治以降も続き、行政により収集、運搬、埋め立てが組織的、計画的に行われた。昭和に入ってからも、8号地(江東区潮見)、14号地(夢の島)、15号地(若洲)、中央防波堤内側・外側が埋め立てられ、昭和の初め18平方キロだった江東区の面積は、1955(昭和30)年に25.69平方キロ、1985(昭和60)年には36.89平方キロに拡大した。
3.埋め立て地の維持
 こうして作られた埋め立てによる都市空間も、放置すれば海蝕で再び海に戻ってしまう。越中島では榊原家別邸が流失した例もある程で、護岸強化など波との戦いが続いた。
 また江東区東陽4丁目では、1918(大正7)年から1973(昭和48)年までの55年間に455.76センチ沈下したというように、埋め立て地の地盤沈下は激しく、最干潮面より低い地域が約28平方キロ、平均海水面以下は58平方キロ、満潮面以下では117平方キロにも及んでいる。これに対し、地下水の汲み上げ規制、工業用水道設置、護岸の補修、強化、かさ上げ、盛り土などが行われる。江東三角地帯では堤防で囲み、水門を整備している。また水位を下げるため、北十間川、竪川、小名木川、仙台堀川、横十間川、旧中川などは細長い池のように締切られ、隅田川、荒川から分離、陸封されている。本来海に戻っているはずの空間が、人工的に都市空間として維持されているのである。
4.都市空間への組み込みと利用
1)地名
 造成された埋め立て地は、当初は13号地などと計画段階の番号で呼ばれるが、やがて地名が付けられる。新たに付けられる地名は、勝島が戦時中に命名されたのに対し、隣接する埋め立て地が戦後平和島と付けられたように、その時代の価値観を反映するものも多い。そして都市の行政区画に組み込まれ、地図にも記載され、氏神となる神社が決まったりして、自分達の都市空間の一部として認識されるようになっていく。
2)新市街地、再開発
 埋め立て地は、新しく計画的に市街地を作ったり、既成市街地の再開発にも利用されてきた。家康の天下普請は、徳川の支配する新しい日本の中心たる総城下町建設を計画したものである。昭和初期には、実現しなかったが、月島埋め立て地に新東京市役所、紀元2600年記念東京オリンピック会場、万国博覧会場を建設する新都心が計画された(陣内,1993)。戦後も交通手段の変革に対応した新幹線基地、モノレール、空港、埠頭、首都高速道路、トラックターミナル、国際貿易、住宅問題に対応した見本市会場、団地、といった、それまでになかった施設が建設されたのが埋め立て地である。また臨海副都心計画も10、13号地や、黒船に備えた砲台用埋め立て地である第三、第六台場を含み、天王洲アイルも第四台場を含む埋め立て地である。
 また江戸で最初に開発された道三堀沿いの商業地が狭くなり、移転先とされたのが日本橋であったが、東京でも交通問題を引き起こす市場、公害の恐れがある住宅地の工場などの移転先とされたのは埋め立て地である。
3)自然からの導入
 江戸時代初期の埋め立て地の場合、日比谷入り江は大名屋敷であるが、下町は商業地として利用された。堀に沿って多くの河岸が設けられ、日本橋魚河岸には各地からの海産物が運ばれ、加工され、棒手振りなどによって商品として市中に売り捌かれた。行徳河岸には塩が運び込まれた。海以外からのものも同様に、京橋大根河岸は青果物、木場は材木の中継拠点とされ、幕府の浅草御蔵から米、御竹蔵から竹などが運び込まれ、各藩でも物揚げ場から藩御蔵へと物資が運び込まれた(鈴木,1978)。これは現在も同様で、海産物の豊海水産埠頭をはじめ、埋め立て地には、埠頭、貨物駅、トラックターミナル、空港、そして倉庫が並んでいる。
 また日本橋が都心となっても魚河岸は存続したが、江戸時代から不衛生と非難され、結局関東大震災をきっかけに埋め立て地築地に移転した。また神田川岸にあった神田青物市場も大田区東海の埋め立て地に移転しているし、中央卸売市場食肉市場も港区港南の埋め立て地である。
4)ごみ、下水などの施設
 埋め立て地は江戸時代からごみの処理先とされてきたし、現在も江東区の埋立処分場だけでなく、港、品川、大田、有明、江東の清掃工場が埋め立て地にある。港南、昭和島、砂町、葛西の埋め立て地には下水処理場が、城南島にはスラッジプラント、そして八潮、有明には、し尿の海洋投棄用積み込み施設も設けられた。
 また死に関わる施設にも利用され、江戸の埋め立て地には築地本願寺を初め寺院が多く設けられたが、当時寺院では荼毘所で火葬を行っていたし、寺院は当然墓地を併設していた。また専用の火葬場としても深川霊巌寺、砂村新田極楽寺が埋め立て地にあった。現在も、品川区斎場は勝島に建設され、準備中の港、世田谷など5区共同の火葬場も、計画地は大田区の埋め立て地である。その他、東京都動物愛護センターは城南島、食肉市場の屠場が港南にある。
5)人
 江戸初期の吉原は日本橋の葦原を埋め立てて作られたし、移転後の浅草新吉原も、埋め立て地ではないが、周囲がお歯黒どぶに囲われて’島’と呼ばれ、船で山谷堀を遡る場所であった。遊廓と共に、封建社会の秩序を乱す悪所とされた芝居小屋も、中橋新地、木挽町を初め、多くが水辺、埋め立て地にあった。また江戸に流入し、治安を悪化させる原因となった無宿人を収容する施設として、長谷川平蔵の建議で石川島に作られたのが、人足寄場である(田村,1994)。
 明治以後でも、帝国大学設置のための環境浄化策として根津遊廓が深川洲崎に移転させられた例がある。また現在も、年末年始のホームレス一時収容施設が芝浦に、国際救援センターが八潮にある。

結論 
1.文化の作りだした空間
 埋め立て地は海から切り取った特定の空間を選定し、海との境界を明確に定める埋め立て方で計画的に造成される。いったん作られた後も、海に飲み込まれないように、維持される。すなわち埋め立て地は、自然の支配する海という空間から、文化によって明確に境界を設定され、切り取られ、維持される空間であり、どこよりも明確に自然に対抗して文化によって作り出された空間である。
2.都市計画、再開発による統制を可能にする空間
 埋め立て地は都市計画に則り、統制通りの都市空間を作ろうとする。完成後は、特定の瀬以外海上ならば付けない地名を付けることによって、文化の統制する都市空間の一部として組み込まれる。
 また都市計画はやがて状況の変化に対応できなくなるから、文化によって統制された空間として維持していくためには、新しい機能、施設の付加、他方で古いものの排除、そしてそれらを同時に行う再開発が必要になる。こうした場合、付加、排除に利用されるのが埋め立て地である。
3.外部の自然導入の統制空間
 魚貝、樹木などは人間の生存に不可欠であるから、都市空間に導入しなければならないが、これらを商品として流通過程に乗せる結節点としての施設である埠頭、空港、貨物駅、市場、木場、倉庫などが設けられるのが、埋め立て地である。すなわち埋め立て地は、魚を水産物、樹木は材木という、あくまで商品として都市空間に導入し、文化の統制する都市空間と自然の支配する空間である海との境界を明確化するのに用いられるのである。
4.内部で発生する自然の排除空間  
 都市空間内部において、統制不能なもの、統制を逸脱するものが発生してしまうが、これらを排除するのもまた埋め立て地である。
 ごみとは、動物である人間が生きていく上で必然的に発生するものであり、空間を奪い、悪臭、病原菌などで生存を脅かす。これは汚水、瓦礫、残土などの場合も同様で、そうしたものが溢れた状態は、人間が発生させたものではあっても、文化による統制ができない、いわば都市空間を自然の支配する状態に引き戻してしまう。まして死の場合は、人間が生きるために作り出した文化とは対極にあるものである。それゆえごみなどは一定の場所へ移動させて押し込め、多様で無秩序な形態、臭気のものを、まとめ、表土で覆い隠し、都市計画による都市空間で覆ってしまう。
 埋め立て地は、こうした自ら発生させた自然を文化の枠組みの中に押し込む仕掛けであり、都市空間を文化に統制された空間として維持するのである。
5.人間自身の自然の排除空間
 人間は通常、文化の統制の中で生活しているが、時に統制からの逸脱が生じ、それに対する安全弁として、人足寄場や遊廓といった施設が設けられる。すなわち、人間自身が発生させる自然を排除し、都市空間を文化の統制の中に維持する仕掛けが設けられるのが埋め立て地である。
6.象徴的都市空間
 要するに、埋め立て地とは、それ自体が自然の海に対抗して作り出された文化の産物であり、さらに外部から侵入する自然、内部に発生する自然を排除し、既存の都市空間をも文化の統制の貫徹した空間として維持し続けるために利用されているのである。すなわち、人間が自然に対抗して作り出し、本来的に自然を統制、排除しようとする都市空間の中でも、埋め立て地は最も都市空間らしい都市空間であるということができよう。
 しかし他面で、いくら覆っても汚水やガスが染み出し、ビニールが顔を出し、沈下は止まらない。いつのまにか野草が繁茂し、ごみ埋め立て処分場では果樹が芽を出し、野鳥や野犬が住み着く(瀬戸山,1988)。そして密かに持ち込まれた粗大ごみが放置され、ホームレスの小屋が建ち、夜はカップルの車が侵入する。埋め立て地はまさに、自然に対抗し、自ら自然の一部であることをも覆い隠そうと都市を作ってきた人間と自然との関係、そして都市というものの姿を象徴的に示す空間ともいうことができよう。 

引用文献
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 伊藤好一.1982.江戸の夢の島.190pp.吉川弘文館.
 陣内秀信.1993.水の東京.110pp.岩波書店.
 鈴木理生.1978.江戸の川・東京の川.293pp.日本放送出版協会.
 瀬戸山玄.1988.東京ゴミ袋.277pp.文芸春秋.
 高橋在久.1994.江戸前−年輪と光景−.232pp.第一法規.
 高橋在久.1996.東京湾学への窓.242pp.ブレーン出版.
 田村明.1994.江戸東京まちづくり物語.487pp.時事通信社.         
 斗鬼正一.1995.空間占有行動の統制−香港の都市空間と自然−.情報と社会.第5号.pp51-63,江戸川大学.
 斗鬼正一.1996.江戸・東京の都市空間と動植物−都市人類学的考察−.情報と社会.第6号.pp57-75.江戸川大学.
 斗鬼正一.1997.クライストチャーチの都市空間と動物.情報と社会.第7号.pp89-103.江戸川大学.