旅は最良の学校である
                                 斗鬼正一
 旅は最良の学校である--モンテーニュ
 私は旅が好きである。日本中、世界各地、たいていの人には負けない程多くの地域を旅してきた。旅が最大の趣味という学生時代、長期休暇中は半分がアルバイト、残り半分が旅、といった生活だった。そして、フィールドワークを研究の基礎とする人類学を職業とするに至って、ますます旅は生活の一部となった。人々の作りだした文化を通して、人間とは何かを探求しようとする人類学にとって、実際に出かけ、生活を共にすることは不可欠だからである。そして出かけた先では、アンテナを全開し、差し出した土産がどこに置かれたか、料理が卓上にどの様に並べられたか、掃除のしかたやごみの始末の仕方、といった、あらゆる情報を集めるのである。
 そうした過程で、一般の人々とは異なった、生活、都市、人々などを見る人類学的な目を獲得してきたし、旅の過程で、数え切れないほどの人々、都市、風景との感動的な出会いをしてきた。
 ところが、そうした私でも、ゼミ旅行、フィールドワークなどで、若い人たちと旅をすると、しばしばハッとさせられることがある。ちょっとした人との出会いに感動する、列車内から見える渓谷、海岸など、私の目には、それほどの美景とも思えないところでも、感嘆の声をあげる、そして私の目には見えなかったことを発見してくるのである。私だって学生時代なら、こうした風景、出会いの一々に感嘆していたはずであるし、若い感性での発見があったはずである。それは一つには、あまりに多くの美景と、人、異文化との出会いを経験したために、客観的比較が可能になっているからであるが、今一つには、やはり、感性の退化があるのだろう。
 それだけでも、学生時代には、ぜひとも多くの風景を見、様々な人や異文化と出会うことを勧めたいのだが、まして、見る目、発見する目のトレーニングは、若いときにしておかなければだめなのである。そしてそのためには、なんといっても、旅に出なければならない。
 ところで、旅をすることは一つの能力である。まずは、旅に出ようという意欲、好奇心が必要であるが、残念なことに、これ自体欠如している人がかなり見受けられる。また出かけるとなっても、パッケージツアーしか思い浮かばない人も多い。
 多くの日本人の旅は、ガイドブック確認の旅と言われる。ガイドブックや雑誌などに紹介されたとおりのコースを回り、紹介された美景をその通りだと感動して、観光ポスターと同じ場所で写真をとり、紹介された店で紹介された料理を食べて紹介通りおいしいと感動し、紹介されたみやげを買って帰る。封建制にがんじがらめの江戸時代人も、実は盛んに旅をしたが、それはやはり道中記を片手に、万葉集以来歌われ続けた名所、旧跡を訪ね、名物を食べる旅だったのである。これをさらにお手軽にしたのが、現在全盛のパッケージツアーというわけである。そしてその背景には、八景、歌枕といった様式化されたものこそ美しいという日本文化がある。
 旅の楽しみ方は、人それぞれでいっこうに構わないし、様式化されたものを好む日本文化を否定する理由は何もない。しかし大学生には、そして特に社会学部生には、ぜひそうした他人の目で見る旅、見せられる旅ではなく、自らの目で発見し、考える旅をしてほしいと思う。個人自由旅行では、動機付けはもちろん、何を見るべきか、聞くべきか、食べるべきか、すべて自分で情報を集め、考えなければならない。旅の仕方を学ぶことは、見る目を獲得することであり、そうした経験は、好き嫌い、善し悪しは別として、自立した個人が求められるようになる今後の日本の社会で生きていく上で、きわめて貴重なものとなる。                  1997(平成9)年ニュージーランド海外研修記録