斗鬼正一書評



斗鬼正一書評 『インサイドボックス』(文芸春秋)
 2014年
 共同通信社配信
沖縄タイムス、北国新聞他掲載



斗鬼正一書評 吉田憲司著、『文化の「肖像」』 
共同通信社配信
2013年6月
京都新聞など地方紙多数掲載

                



斗鬼正一書評 ペアント・ブルンナー著 山川純子訳  『月』
共同通信社配信
2013年1月

共同通信、琉球新報、熊本日日新聞、大分合同新聞、中國新聞(広島)、山陰中央新報(島根)、日本海新聞(鳥取)、高知新聞、神戸新聞、福井新聞、北日本新聞(富山)、新潟日報、秋田さきがけ、東奥日報(青森


斗鬼正一書評 長谷川雅雄ほか著『「腹の虫」の研究』
共同通信社配信
2012年7月
中國新聞、静岡新聞、東奥日報他多数


斗鬼正一書評  増川宏一著『日本遊戯史』

共同通信社配信
静岡新聞他掲載 2012年4月


斗鬼正一書評 渡辺京二、三砂ちづる著 『女子学生、渡辺京二に会いに行く』

 共同通信社配信 2011年 月


斗鬼正一書評 伊東乾著 『サウンド・コントロール』
共同通信 2011年5月配信 
5月15日高知新聞、徳島新聞、中國新聞(広島、山口、島根、岡山)、北國新聞(石川)、山梨日々新聞、秋田さきがけ
522日 山陰中央新報(鳥取、島根)、神戸新聞、福井新聞、新潟日報、神奈川新聞
529日 熊本日々新聞、愛媛新聞、山形新聞
530日 山陽新聞(岡山、広島、香川)



斗鬼正一書評 赤坂憲雄著 『内なる他者のフォークロア』

共同通信社配信 2010年12月
南日本新聞、日本海新聞、高知新聞、徳島新聞、神戸新聞、岐阜新聞、北国新聞、信濃毎日新聞、新潟日報、山梨日日新聞、神奈川新聞、福島民報、河北新報、山形新聞、秋田さきがけ


斗鬼正一書評 篠田正浩著 『河原者ノススメ』(幻戯書房)

 共同通信社配信 2010年1月 
 掲載紙:南日本新聞、長崎新聞、愛媛新聞、徳島新聞、日本海新聞、山陽新聞、静岡新聞、千葉日報、上毛新聞、福島民友新聞、河北新報、山形新聞、秋田さきがけ、東奥日報


斗鬼正一書評  アーロン・スキャブランド著 『犬の帝国 幕末ニッポンから現代まで』(本橋哲也訳、岩波書店)

 共同通信社配信 2009年11月 
 掲載紙
熊本日日新聞、愛媛新聞、徳島新聞、山陰中央新報、日本海新聞、山陽新聞、静岡新聞、新潟日報、神奈川新聞、埼玉新聞     、下野新聞、山形新聞、秋田さきがけ、東奥日報


斗鬼正一書評 古賀令子著 『かわいいの帝国』(青土社)
 共同通信社配信 2009年7月
 掲載紙: 山陰中央新報、日本海新聞、神奈川新聞


斗鬼正一書評 五十嵐太郎編著『ヤンキー文化論序説』(河出書房新社)

共同通信社配信 2009年5月
掲載紙:南日本新聞、熊本日日新聞、長崎新聞、日本海新聞、山陰中央新報、山陽新聞、徳島新聞、四國新聞、愛媛新聞、高知新聞、    福井新聞、北國新聞、岐阜新聞、新潟日報、信濃毎日新聞、神奈川新聞、河北新報、岩手日報、秋田さきがけ新報、北日本新聞    、東奥日報


斗鬼正一書評 本多勝一「カナダ・エスキモー」(朝日新聞社)
≪豊かな読書≫≪私のとっておき≫
 
本が解く人生という謎

共同通信社配信 2009年2月
掲載紙:長崎新聞、中國新聞、山陰中央新報、日本海新聞、四国新聞、高知新聞、神戸新聞、北國新聞、岐阜新聞、新潟日報、山梨日日新聞、静岡新聞、岩手日報、東奥日報

  


斗鬼正一書評 テオドル・ベスター著『築地』和波雅子、福岡伸一訳、木楽舎)
200748 東京新聞、中日新聞掲載
中日新聞、東京新聞 Chunichi Bookweb


2007年5月 「ナレッジステーション」(インサイトインターナショナル)掲載

斗鬼正一書評 本田勝一著『ニューギニア高地人』(
朝日新聞社)


 「未開民族」と聞くと、遠い昔の「原始時代」の「裸族」、「野蛮人」、そして「首狩り」、「人食い」などという恐ろしい言葉が浮かんでくる。

 でもほんの40年程前のニューギニアには、土器すら持たず、ほとんど裸で、石器時代そのままの生活をする人々がいたのだ。彼らは粗末な小屋に住み、家財道具などというものは持たず、弓矢で獲物を捕らえ、棒切れ一本で土を掘って芋を植え、お金などというものもないから物々交換、数を数えられるのはせいぜい20くらいだった。

 著者本多勝一は、黒い肌に豚の脂を塗り鳥の羽で飾った戦士が戦うという、恐ろしい「野蛮人」イメージそのままの、ダニ族、モニ族の村に住みこんだ。そしてそんな彼らも、実は収穫を喜び、歌を愛し、団欒を楽しみ、妻や子どもを愛し、人間関係に悩み、友との別れを悲しんで涙を流す、私たちと何も変わらない同じ人間だということを知る。

 人間は未知の人間を恐れる。そして事実を知らないままに、偏見、差別、排除へと結び付けてしまう。本書は、そんな私たちに、人間を理解するとは何なのか、どうすれば真の理解につなげることができるのかを教えてくれる。





2007年5月 「ナレッジステーション」(インサイトインターナショナル)掲載

斗鬼正一書評 斗鬼正一著 『目からウロコの文化人類学入門−人間探検ガイドブック−』(ミネルヴァ書房)

 文化人類学なんて聞いたことも無いという人が多い。マイナーな学問だ。おまけに名前まですごく硬そうな響きだ。

 でも本当は、まるで「世界ウルルン滞在記」や「田舎に泊まろう」のように、世界中、日本中に飛び出して、ナマの人間とその生活にじかに出会う“フィールドワーク”が最大の特徴という行動的な学問なのだ。

 おまけに本書の見出しを見ても、なぜウンチは汚いのか?なぜ他人に触れると気持ち悪いのか?なぜ美人はきれいなのか?なぜ美しい景色は美しいのか?なぜ朝食にすき焼き、夕食にトーストを食べると変なのか?なぜ象の声は聞こえても表現できないのか?といった、あまりに身近過ぎて、当たり前と思い込み、考えても見なかった不思議とか、玉子の黄身のことを青身と言う人々、犬の吠え声が「ゴーゴー」と聞こえる民族、虹が2色に見える人々といった、びっくりするような謎ばかりなのだ。

 そんな不思議に文化人類学の光を当ててみれば、人間って、自分って、世の中って、こういう仕掛けで動いていたんだ!と目からウロコの知的大発見。おまけにそんな楽しい学問が、人とは違った独創的発想力を磨き、激動の国際化時代を楽しく、楽に生きる力を与えてくれる。そんな魅力的な学問を紹介してくれるのが本書なのだ。

 


2007年5月 「ナレッジステーション」(インサイトインターナショナル)掲載

斗鬼正一書評 能登路雅子著『ディズニーランドという聖地』(岩波書店)

 人間は自然が大嫌いな動物だ、などといったら誰でも驚く。でもあのディズニーランドには土がない。枯れ木も落ち葉もない。汚いはずのネズミは白手袋の紳士だし、本物と見まがうロボットの海賊やワニは絶対に入園者を襲わない。その入園者だって、ゴミを散らすことも、病人であることも許されない。そしてキャストはいつも上機嫌、笑顔でフレンドリー。つまりディズニーランドとは、動物も植物も人間も、本能も感情もこの世の不幸も運命も、あらゆる自然が排除され、すべてが人工的にコントロールされた徹底的反自然の理想郷なのだ。

 こんな夢の国を作らせたのは、ウォルト・ディズニーの故郷の大自然。冬は酷寒、猛吹雪、夏は発狂者まで出る連日の砂嵐。人々は窓のない家を建て、外の恐ろしい風景とは正反対の田園風景の見える窓を描いたという。そんな大自然の中で育ったウォルトが作りあげた夢の国こそが、自然とは人が対決しコントロールすべきもの、という開拓者の国の価値観を反映した反自然の理想郷というわけなのだ。

 でもそれが、自然との共存が伝統だったはずの日本人にも夢の国。だから文化人類学者が書いたこの本は、世界を席巻するアメリカ的価値観だけではなく、私たち日本人と自然とのかかわり方という大きな問題をも考えさせてくれるのだ。



斗鬼正一書評 山内昶著『ヒトはなぜペットを食べないか』(文藝春秋社) 
「くぅ〜ちゃん」を食っちゃうなんて」     
     
文藝春秋社 『本の話』、2005年5月号掲載

『ヒトはなぜペットを食べないか』表紙            

  野蛮だ! と犬好きは頭に血が上るだろう。確かに、あの愛らしいCMスター・チワワの「くぅ〜ちゃん」を食っちゃうなんて、想像しただけで吐き気がする。犬を食ってはいけないなんて当たり前だ。

 しかし頭を冷やして考えてみれば、犬肉と知らずに食べたら吐き気などしないし、そもそも犬肉だなんて見てわかるはずもない。実際、犬、猫どころか、ヘビ、カメ、ヤモリ、サソリ、ムカデ、ウジ虫、アリ、セミと「ゲテモノ食い」民族はテレビでおなじみだし、信州人だって、カイコ、イナゴ、ハチの子、ザザ虫と、何でもありだ。いやそれどころか、人食いでさえ歴史上いくらもあったのだ。

 インセスト(近親相姦)だって嫌悪するのは当たり前、本能だ、と言われそうだが、ここでも頭を冷やして考えてみれば、同姓不婚が伝統の韓民族なら、イトコと結婚するなんて野蛮だ! と頭に血が上るだろうし、生き別れた兄妹が二十年ぶりに出会って互いにわかるはずもない。罪の意識に恐れおののくのは、わかってしまった後のことだ。

 つまりは、ペット食タブーも、インセストタブーも、汚らわしくて書くに書けない獣姦タブーなんてものも、みんな作られたものなのだが、では一体何のために? と考えてみると、当たり前過ぎて見当がつかない。

 こんなタブーという当たり前を、快刀乱麻を断つごとく、種明かししてくれるのが本書なのだ。

 それは、人はカオス(混沌)の中では生きていけない、という大前提から始まる。それゆえ人はコスモス(秩序)を作り出す。たとえば、横に一本線を引けば上下の別が生じ、秩序が生み出される。ただし、その境界線自体は双方に属し属さずの矛盾した存在で、秩序の割れ目にできた、異界を覗かせる新たなカオスとなる。

 そこで作り出された仕掛けこそがタブーであり、コスモスを崩壊させる危険を秘めた境界的存在に、ケガレたものとレッテルを貼り、強い禁忌の対象として制圧しようとする、というのだ。

 たとえば人は、自己と他者という分類が不明確、などというカオスの中では生きていけない。ところが実際は、一親等、二親等……と広がる中で、どこまでが自己、どこからが他者なのか、そんなに明確なわけではない。とりわけ一卵性双生児となったら、かなり首をひねるだろう。

 それゆえ曖昧化の元凶たる境界的存在、つまり近親者をインセストタブーの対象とした、というわけなのだ。

 人と動物の区分だって、そんなに自明ではない。人も動物だし、チンパンジーを殺したら殺人だ、という霊長類学者もいるほどだが、この分類も明確化しないと大変困る。そこで人とともに暮らす動物、とりわけペットが境界的存在というわけで、食べてはいけないし、食べることと類似した獣姦などという行為はケガラワシイ、と強いタブーの対象にされたのだ。

 つまりタブーとは、コスモスとしての社会秩序を構築し、維持するために作られた文化的仕掛けというわけだが、こうしたコスモスも、段々と気が枯れ、エントロピーが増大してくるから、再活性化の仕掛けも用意されているという。

 歌垣の乱交、王によるインセスト、そして儀礼的人食い、といった狂宴がそれで、人食いも、死者が此岸(しがん)、彼岸の境界にある時に、あえて最強のタブーを犯すことによって、聖なる力を取り込む聖餐だという。コスモス以前に回帰することによって、恐るべきカオスの深淵から、始原のエネルギーを取り入れる仕掛けというわけなのだ。

 こうした種明かしは、世の中ほとんど当たり前、で過ごしてしまう我々に、当たり前にもちゃんと理由があり、社会、生活というものはこうして成り立っているのだと、深く納得させ、知的好奇心と探求心の大切さ、面白さを、知的感動とともに教えてくれる。

 そして「くぅ〜ちゃん」たちにドレスを着せ、グルメ缶を食べさせて「人間もどき」にしてしまう現代社会、合理主義の旗のもと、祭りの狂宴もインセストも、ペット食いも人食いも、聖餐どころか単なる異常として、カオスを排除するばかりの現代社会に、いったい「どうする?」と、重い問いをも投げかける。

 年中食べられる真空パック餅という便利さは、正月というけじめを不明確にしてしまった。やはり餅は正月以外に食っちゃいけない。そしてやはり「くぅ〜ちゃん」も食っちゃいけないのだ。

 『ヒトはなぜペットを食べないか』文藝春秋社の書評


 文芸春秋社 『本の話』「私はこう読んだ」


斗鬼正一書評 ロバート・フォーチュン著『幕末日本探訪記 江戸と北京』三宅馨訳、講談社)

(講談社学術文庫1997)

人は旅で磨かれる。なぜならば「異文化との出会いは、ものを考え、自分のものの見方、考え方を持った人になるきっかけを与えてくれるからだ。本書は、旅をそうしたものにするのに不可欠なのが、好奇心と文化相対主義的見方であることを教えてくれる。溢れる好奇心と、巧みな異文化との接し方で、すばらしい旅をして、夢と感動一杯の人生を過ごした、そんな大先輩が、激動の幕末日本を訪れた英国の園芸学者フォーチュンである。

彼はプラントハンターとして、日本の植物を欧米に広めたいという、大きな夢を持っていたから、彼の旅は、初めて見る植物との出会いによる感動に満たされた旅であった。田園都市江戸を支えた世界最大の植木の村染井や、あこがれの団子坂で植木を買い込み、英国に無事送り届けようと情熱を傾ける彼にとって、毎日が心弾む旅であった。

しかし彼の旅の素晴らしさは、単に園芸学者としてのものに留まらない。好奇心に溢れる彼は、攘夷派による襲撃が頻発し、役人の監視が付いた不穏な時代に、寺に一人で滞在し、人々の生活に直に触れた。宴会に飛び入りして庶民のエネルギーに圧倒され、墓参に同行して日本人の心に触れ、火事場では火消しの統制の取れた活動に感動する。

無論混浴、お歯黒など、異文化との出会いには驚かされる。しかし彼は、一般的西欧人とは異なり、野蛮な奇習、不道徳などと切り捨てることはしない。日本人の目には、混浴よりダンスの方がよほど不道徳だし、西欧の審美眼が絶対的なものではないというのである。

好奇心もなく、異文化を初めから自文化の尺度で野蛮などと決めつけてしまったら、見えるものも見えなくなる。旅の、人生の感動が薄れる。すなわち、考えるきっかけがなくなるのである。フィールドワーカー精神と文化相対主義的見識で幕末日本を味わい尽くした旅人は、そんなことを我々に教えてくれる。

当時フォーチュン48歳。若い学生諸君、旅に出よう。おじさんに負けるな。  

   『ユウレカ』第
18号、199875、江戸川大学