遊び心を体現した書

『日本遊戯史』増川宏一著 
                                     評:斗鬼正一・江戸川大学教授

掲載紙:共同通信、熊本日日新聞、山陰中央新報、徳島新聞、岐阜新聞、北国新聞、信濃毎日新聞、新潟日報、静岡新聞

 

「遊びをせんとや生まれけむ」も、むべなるかな。本書によれば、日本人の歴史はまさに遊びの歴史。遊びの種は繰れども尽きず、双六、連歌に、文字合わせ。囲碁に将棋に、阿弥陀の光。富くじ、射的に、こま、かるたと、異文化取り入れ、優れた遊び文化を創り出してきた。

 でも著者は、人は「遊びをせんと」生まれたはずが、他方で遊びを嫌悪するとも言う。なぜなら遊び、わけても賭け事は、人が生きるため作り上げた社会秩序を揺るがすからだが、双六、富くじ、こま、かるた、果ては柿の種の数当てまでも、風俗乱すと、権力者は何でもかんでもご禁制。新型凧さえも「新規なる儀は何事によらず御法度」にされたという。

それでも江戸人は三大改革にもめげず、明治人は政府の伝統遊芸排除に屈せず、「愛国百人一首」を押し付けられた「汝(なんじ)ら臣民」の前には敗戦即「平和カルタ」が現れた。

そしてその実、「何事によらず常に替りたる儀は堅く致しまじく候」と、統制、秩序を志向する権力者だって、日本書紀には天皇が宮中双六賭博大会などと書いてあるし、院政しぶとく30余年の後白河院だって、双六と今様に狂い、遊女を師に当代一の歌唱力を身に付け、「遊びをせんとや」の「梁塵秘抄」編さんというすごい遊びをしてしまったのだ。

狐狸もカタツムリも、不要な遊びなどには目もくれないが、嫌悪しつつも無駄な遊びがやめられない止まらないのが、人という変な動物。おまけに遊びは、時代や社会の映し鏡。だから、遊びからこそ人と社会の真の姿が見えてくる。

なのに、遊びはあまりに身近でさげすまれ、記録もされず、研究に値せずと無視された。そんな「面白くもない世の中」に、遊戯史学会会長約10年、滅びの危機の伝統遊戯研究に狂い、「日本遊戯史」編さんというすごい遊びをしてしまった著者こそは、まさに「遊びをせんとや生まけむ」の体現者なのだろう。

(平凡社・3360円)

ますかわ・こういち 1930年長崎市生まれ、遊戯史学会会長。将棋史や盤上遊戯史を研究。著書に「盤上遊戯の世界史」など