日本人のための鏡                                斗鬼正一

 今回の研修では、何人かの人が現地の若者、子供などによる差別を経験した。紙切れを投げる、差別的態度、言葉などであり、深刻なものではなかったが、ほとんどの人にとって、差別される経験というのは始めてであり、ショックを受けた人も多い。しかしこうした経験を、不快な思い出とするのではなく、国際化の時代の若者らしく、生かしてくれることを期待したいと思う。
 
 明治以来日本は、とりわけ経済、科学技術の面で、欧米をめざすべき目標としてきた。そして今日、欧米と肩を並べ、「入欧」を果たしたと一般に考えられている。そして「脱亜」した日本は、もはや中国、韓国・朝鮮といった東洋の国々とは違うといった認識をもたらしたのである。しかしながら、実際には、オシャレな横文字言葉が溢れ、欧米の食物が日常的で、超高層ビルがそびえる欧米化した都市と日本人には認識される東京が、実は、当の欧米人の目には、意味不明のカタカナ語や洋食もどきが溢れる、混沌とした典型的東洋の都市としか見えないように、これはかなりの程度錯覚である。ましてや日本人は他の東洋人と異なった名誉白人であるなどという一部の人々の認識は、あったくの勘違いでしかない。また、日本文化は中国、朝鮮半島の文化とも大きく異なった独特のものだという日本人の認識も、あくまで主観的なものであり、一般の欧米人の目には日本もあくまで中国文化圏であり、区別などつかない場合が多い。
 
 こうした自己認識上の問題点に加えて、さらに問題となるのは、こうした認識と表裏一体のものとして、明治以降強まってきた東洋の人々、文化に対する軽視、蔑視、無関心がある。それが戦前、戦中の軍事的、文化的侵略とあいまって、多くの東洋の人々に対する抜きがたい不信感を与え、今日に至るまで、多くの問題を生じていることは周知のとおりである。
 
 国際化が進む今後の日本において、こうした誤った認識は、さらに大きな問題となる。とりわけ若者の場合は、年配者程には、誤った認識をしている人は多くないとはいえ、より大きな障害となることは想像に難くない。
 
 ではどうするべきか。ここで注目しなければならないのは、自分がどんな人間であるかは、自分だけではわからないのと同じで、自民族、自文化の姿も、自分達だけではわからない、ということである。つまり、自分は他人との比較で初めてわかるのと同じように、自民族、自文化の姿を知るためには、他の民族、文化との比較が最も有効だ、ということである。つまり、鏡が必要なのである。 そうした意味で、今回の研修は大変すばらしい鏡を提供してくれた。すなわち、ニュージーランドでは大変一般的なベジマイトが、日本では見たこともなく、しかもどうしても食べられない。他方自分は恋しくてたまらない味噌汁が、彼らにはどうしても食べられない、という事実だけでも、日本の食は欧米化しているなどというのは錯覚で、日本人はあくまで日本人でしかない、ということを認識させてくれる。
 
 さらに自分達は東洋人である、ということを確認する意味でも有効な鏡であった。クライストチャーチでは、これまで東洋人居住者はごくわずかしかいなかった。そこへ近年香港、中国、韓国人などの移民が急増したため、一部に反感を生じたのである。それに対し、当初多くは、自分達は日本人なのに、という反応をする。しかしじきに、一般のニュージーランド人には、日本、中国、韓国・朝鮮は、顔つきは勿論、文化的にも区別できない、という事実を知る。そしてそういえば、一緒にホームステイしている韓国人とは、筆談はもとより、発音でさえ単語レベルならかなり通じるし、ニュージーランド料理に辟易したときに、行きたくなるのも中華料理店だ、などという事実は、当初日本人としての自己認識に大きなショックを与えはする。しかしじきに、日本人の認識はあくまで主観的なものであり、外から見れば、自分達はあくまで東洋人である、という事実をしっかりと確認していくのである。
 
 こうした鏡を得て、日本人として、さらに東洋人としての自己認識をしっかりと持つことは、奇妙な欧米崇拝を脱し、東洋に対する故無き軽視、蔑視、無関心を捨てることにつながる。そしてそれこそ、あらゆる文化を相対的に見ることを目指す、真の国際人への第一歩である。初めての差別体験を、ぜひより広い視野で問い直し、より大きな人となるステップにしてほしいと思う。

                     1996年度ニュージーランド海外研修記録