“何もない町”で自分を磨こう

                               斗鬼 正一

 入試面接で、あなたの住む町を紹介してくださいという質問をした。すると、新宿、横浜、仙台といった都内や地方の有名な町の受験生が、わが町自慢を披露してくれるのに対し、流山、三郷、春日部といった新興住宅地や、農村地帯に住む受験生の多くが、特徴も名物も名所も何もありません、田んぼしかありません、と当惑するのである。

 しかし他方で、新興住宅地に住んでいても、新住民と旧住民の問題、農村に住んでいても、村おこしに一生懸命な人々のことなどを語ってくれる受験生もいる。

 ニュージーランド研修でも似たようなことが起こる。1週目は、見るもの聞くものすべてが珍しいから、初体験に感動し、誰もが目を輝かせている。ところが後半にさしかかると、今日はどうしよう、という人たちが出てくる。クライストチャーチ中心部の大聖堂広場、追憶の橋、ハグレー公園といった数少ない観光地、みやげ物屋、ショッピングモールなどは回ってしまったから、もう行くところがない、というのである。こういう人たちは友達の後を付いて歩くか、ゲーセンで遊び、マックで食事し、大聖堂広場でたむろし、夕食後は個室で日本から持ってきた音楽を聞く、といった、日本での日常と同じような生活を始めるのである。

 ところが他方で、帰国が迫ってもまだまだ行きたいところ、見たいものがたくさんあるのに、という学生もいる。彼らは有名観光地、みやげ物屋以外に、訪れたい場所、見たいものが次々出てきてしまうのだ。ニュージーランドの消防について知りたいからと、消防署に頼んで、見学させてもらいに行った学生、商店街を一店ずつ訪問して、商店街マップを作った学生、老人福祉の実態を知りたくて老人ホームを訪問した学生、といった人たちだ。

 彼らは、単に退屈しなかった、よけいに楽しんだ、というだけでなく、一つ見ることによって、さらに次の関心が出てくる。そして色々なことを感じ、考え、より理解を深めて帰ってくるのだ。同じ旅費を払って、どちらが得したかは明白だろう。そして、実は、社会に出てからも、得をするのはこういうタイプの人たちなのだ。

 今日本は歴史的転換期に直面し、閉塞状況にある。これまでの枠組みが機能しなくなり、企業でも閉塞を打ち破ることのできる人が求められているし、個人の生き方についても同じだ。つまり、現状を細かく、正しく認識し、隠された問題を発見し、考え、解決していく力を持っている人こそが求められ、得するのだ。それができるのは、やはり、退屈している暇のなかったタイプの人たちなのだ。

 では、この差はどうして生じるのか、そしてどうしたら、得する人になれるのだろうか。実のところ何もない町、1週間で見るところがなくなる町などありはしない。確かに新興住宅地にはお台場、原宿の賑わいも、古都の風情も、城下町の町並みもないかもしれない。しかし、人がそこに暮らしている以上、毎日無数の出来事がある。新興住宅地といっても、もともと無人だったわけではない。日々の生活が何百年も積み重なって今があるのだ。田んぼしかないといっても、ちゃんと田園風景がある。その田圃を切り開いた人々、守ってきた人々がいる。そして今も日々絶え間ない努力が重ねられ、無数のドラマが生まれているのだ。

 クライストチャーチだって歴史も短く、人口30万人足らず、東京のように名所、観光地がいくらでもあるところとは全く違う。しかしたとえ150年でも、開拓の歴史があり、今も大勢の人々が毎日暮らしている。さらに異文化の地だ。日本にないものがいくらでもあるはずだ。あるものが見えていないのだ。

 要するに、関心がない、知らないから気が付かないのだ。網膜には写っていても、頭が認識しないのだ。現地では毎日大勢の現地の人たちを見たはずなのに、ファッションに関心がない人は、クライストチャーチでどんな服が流行っていたか、と聞かれても覚えていないだろう。 毎日色々な音が聞こえていたはずなのに、サウンドスケープなどという知識がなければ、商店でBGMが流れていたか、と聞かれても、覚えていないだろう。

 つまり、気付くためには、何と言っても重要なのは関心と知識を持つことなのだ。関心があれば気づくし、知識があれば、関心の対象となる。受験生でも、自分の町の歴史、産業はおろか、人口すら知らない人が多かった。これでは、自分の町に関心が湧いてこないのは無理もない。           

 さらには、当たり前を当たり前と思わないことだ。何もない田舎です、と答えた受験生は、名所、旧跡、有名観光地などがないからそう答えたのだろう。しかしそれらは、いわば一般的な、当たり前の尺度である。そうしたものがないから、何もないとしか思えないのは、既製の尺度でしか見ない癖が付いてしまっているからだ。もっとほかにも尺度はたくさんある。

 関心が狭く、当たり前のことを当たり前にしか見ない、考えないというのでは、新発見も新発想も有り得ない。これでは間違いなく損をする。しかし、ニュージーランド研修は、こうした損をしそうな人たちには、格好のトレーニングの機会になる。なんといっても異文化の地で生活するのだから、刺激はいくらでもある。日本の町だと、見慣れたものばかりだから、かなり関心、知識がないと、見えてこないが、ここではちょっとだけ感度を高めれば、色々なことが見えてくる。するとさらに関心が高まり、次に見たいことが出てきて、町を歩いていても、今まで気づかなかったことに気づくはずだ。こうしてちょっとだけ感度を高めるコツがつかめるだろう。そしてそのコツを日本での、日々の生活にも応用するように心がければ、何もない町だ、などと退屈しないで楽しめるだけではなく、激動の時代に生き残れる、得する人に近づいていかれることだろう。

 何もない町で、是非自分を磨いてほしい。