講演・シンポジウム

「そうだ 柏 行こう−最終回 本当は楽しい地域の散歩学−」
2008(平成20)年12月21日、アミュゼ柏
大学コンソーシアム柏、柏市、野田市、我孫子市など共催

概要
 ちょっと違った目を向けるだけで、身近な街も、全く違って見え、楽しめる。豊富な旅と街歩きの経験を踏まえて、知的に歩く楽しさと、見る目、視線の大切さを考える。


「キウィ式ライフスタイルとは−ニュージーランド」
2006(平成18)年10月25日、江戸川大学公開講座

概要
 ニュージーランド人のガーデニングが、実はキウィアイデンティティを作り上げる上で重要な役割を果たしていることを解説。


「富士山パワーをもらおう」
2005(平成17)年2月23日、毎日ホール
富士山クラブ主催、環境省、毎日新聞社後援、富士山を考えるフォーラム『お江戸と富士山』

概要


「文化人類学の目で風景を見る」

2004(平成16)年5月29日、千葉県立中央博物館
東京湾学会総会記念講演

概要


「騒音という暴力−自文化の音、異文化の音−」

2001(平成13)年10月27日、江戸川大学
江戸川大学・江戸川短期大学公開講座『人間は暴力をこえられるか?』第三回

概要
 人は音を出す動物である。しかし、正しい発音、拍手など、出すべき音も、いつ、どこで出すべきかも強制される。同じ聴覚器官を持つにもかかわらず、ベトナム人には犬の声は「ゴウゴウ」と聞こえるし、日本人にピューマの声は聞こえても、なんとないているのか分からないように、音をどう聞くべきかも強制される。

 ナショナリズムを巡る言説の原型となった本居宣長は、五十音図に示される整然たる秩序を持つ日本語は正しく美しいが、鳥獣万物に類似した外国の音声は不正であり、日本語に拗音など美しくない音が見られるのは、中国語による汚染だと主張した。統制された音の共有は連帯を維持するのに対し、異文化による音はそれを脅かす排除されるべき騒音なのである。

 民族音楽家には初めて聞いた西洋音楽が騒音としか聞こえないのも、音を発して外部からおとなう芸能民が危険視され、抑圧の対象とされてきたのも、そして美しい音楽が隣人には暴力となり、静寂の支配する国の人々には、雑踏と喧噪の東洋の都市が耐え難いものであるのも、「社会は音とその配列によって仕立てられている」からなのである。

 平安京に生活することは、都市空間を包み込む緒寺院の調律された梵鐘の調によって、五行の法則に則ったコスモスを強制されることを意味した。音の統制は、文化による社会維持の強制装置として我々の前に立ち現れているのである。


「ニュージーランドという箱庭−多民族都市の風景を読む−」

2000(平成12)年、江戸川大学
江戸川大学公開講座 『地球社会の共生を求めて−異文化との出会いと衝突−』第四回

概要
 ニュージーランドは移民の国である。無人島にやってきたマオリ人、数百年遅れた英国人、さらにヨーロッパ人、フィジー人、そして近年東洋人がやってきた。それゆえ当初は異文化間の様々な摩擦を生じるが、徐々に融合してニュージーランド人としてのアイデンティティが高まり、民族問題の深刻でない多民族国家として知られている。

 ニュージーランドはまた、自然の美しい国としても知られている。確かに山、海、田園そして都市も実に美しい。ところがこれは、実のところ移民達によって改変されて作り上げられた「人工的自然」の風景なのである。

 日本人の桜や富士山の例からもわかるように、共通した故郷の風景の記憶は、民族としてのアイデンティティを作り出す。それゆえ、移民はしばしば、地名をうつすにとどまらず、動植物相まで改変して、新天地に故郷の風景を再現しようとするのである。

 さらに風景を統制することは、アイデンティティを統制することも可能にする。日本でも、明治政府は、日本人としての一体的アイデンティティを高めるために、小学唱歌「ふるさと」を歌わせ、新首都東京の桜であるソメイヨシノを全国の都市、とりわけ大名の領国支配の象徴であった城跡に植えさせた。

 そこで本講座では、多民族国家ニュージーランドにおいて、次々やってきた諸民族が、異文化によって作り上げられた風景とどのように出会ったのかを検討し、アイデンティティと、文化、自然との関わりを考察していくこととする。


「最後の人生儀礼−都市空間の中の葬送−」

1993(平成5)年11月27日、江戸川大学
江戸川大学公開講座 『冠婚葬祭の社会学』第五回

概要
 葬式、それは個人にとって、社会が用意した最後の人生儀礼である。しかしこれを、都市という、文化が支配する「反自然」の空間の中で、死、死体、死のけがれといった「自然」のもたらすものを処理する仕掛けとしてとらえるなら、どんなことが見えてくるだろうか?江戸・東京、香港などにおける斎場、刑場、火葬場、寺、墓地、葬儀屋などの立地や、葬送という空間的移動に伴う慣習を通じて、葬送の社会的、文化的意味を考えていきたい。

レジュメ
I 文化人類学の視点から
*葬送さまざま
 香港の濱儀館
 笑喪
 キッチュな霊柩車
*予備知識 人はどんなふうに認識しているのか?
 ホンダとオンダ
 無秩序と分類
*人の一生と、子供、少年、青年、壮年、老年・・・という分類
 浪人が白い目で見られるわけ
*死はなぜ危険か?
 老化とは、死とは何か
*何のために葬式をするのか
 社会的な死
 死体の処理
 生者と死者
*葬送の意味
 通過儀礼の3段階 分離、過渡期、統合
 なぜ卒業旅行、新婚旅行にいくのか?
 自然の文化による秩序化 
II 都市人類学の視点から
*自分の家、自分の部屋
 自然のままの空間
 設計、配置、廃棄
*都市空間の場合
 なぜ墓地が必要か?
*都市計画とデザインの原理
*江戸の都市計画
 「の」の字デザイン
 御府内 代々木、上落合、千住、砂村、深川・・・
 遊廓 元吉原、新吉原、品川、新宿、板橋、千住
 芝居町 猿若町
 処刑場 鈴ケ森、小塚原
 将軍家墓 増上寺、寛永寺
 火葬場 初期 小塚原、鈴ケ森、中川
   江戸五三味 小塚原、千駄ヶ谷、桐ケ谷、渋谷、胞録新田
   幕末 小塚原、深川霊厳寺、砂村新田極楽寺、芝増上寺今里村下屋敷、代々木村狼谷、上落合法界寺、桐ケ谷村霊厳  寺
*都市空間と葬送の意味
 葬列
 行列 中心と周縁
 葬列衰退への反応
 距離を隔てて行くことの意味
*鎌倉
 源頼朝と鎌倉の都市計画 
 やぐら、土 墓、由比ケ浜
 鎌倉七口・七切り通し 名越、朝比奈、巨福呂坂、化粧坂、極楽寺坂、稲村ケ崎
*京都
 鳥辺野、仏野(あだしの)
*新潟県中魚沼郡津南町見玉(みだま)
 集落空間のデザイン
 ホンドオリ
 鳥追い
 墓、ニカッコ林、馬捨場
*ミクロネシア・ヤップ島
 男と女
 五等民
*香港
 計画不在の都市空間
*ニュージーランド 
III 結論


「情報は地球をムラにするー異文化とのおつきあいー」

1992年11月、流山市北部公民館講座

概要
 国際化にともなう諸問題を、異文化間コミュニケーション論の視点から検討。日本、香港、ニュージーランドの事例を用いて、国際化によって生じる問題と、その背景にある自民族中心主義や民族的アイデンティティの関係を解説。さらに文化相対主義、文化多元主義の概念を紹介し、今後の対応、あり方を検討した。

レジュメ
1.予備知識
 文化とは?
 文化人類学とは?
2.国際化の実験都市香港
 香港とはどんな都市か?
 香港における国際化とは
 多民族がお互いに無関心、没交渉、
 「家族」の重要性
3.異文化混在の利点
 出会いから創造へ
4.多民族、多文化の混住
5.対応
6.異文化の出会いにより生じる問題
 清潔感と進歩、停滞
7.香港人に学ぶ異文化とのつきあいのコツ
8.文化相対主義とは
 文化に高級、低級があるか、判定できるのか?
 先進国、発展途上国、未開人とは何か?
9. 「進歩」信仰からの脱却


「文化人類学から見たゴミ問題」

1991年10月19日、江戸川大学
江戸川大学公開講座 『変貌する地域社会』

概要
 深刻な都市問題のひとつである廃棄物の問題は、普通は、政治、経済、生態学などの問題と考えられている。しかし、これを文化人類学の視点から見たらどう見えるだろうか?
 現地調査の資料をもとに、廃棄物処理や掃除、排水といった「物質的廃棄」だけでなく、葬送、鳥追いといった「儀礼的廃棄」にまで考察を拡げ、掃除は何のためにするのか、廃棄物は単に汚いから捨てるのか等、新たな視点を提供してみたい。
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司会 では定刻になりましたので、本日の講座を始めさせていただきたいと思います。本日は江戸川大学講師の斗鬼正一先生に文化人類学から見たゴミの問題についてお話いただきます。斗鬼先生は文化人類学がご専門で、最近ゴミ問題がいろいろな形で日本だけでなく世界中で問題となっていますが、通常の問題の角度とは別の角度からゴミについてお話いただきます。ではお願いします。 

講師 斗鬼と申します。よろしくお願いします。

 ゴミ問題という事で題名を付けたのですけれども、あまりご期待には答えられないような内容だと思うのです。と言いますのも例えば、目くそとか鼻くそはなぜ汚いかというたぐいの話でありまして、直接ゴミ問題をどうやって解決したらいいかと言う話ではないのです。本当はどうやって解決したらいいのかを考えなければ文化人類学も都市人類学も役に立たないということになってしまうのですが、まだそこまではいっておりません。とりあえずどういう角度から観ていく事ができるか。今までの角度とは違った見方ができるのではないか、といったことを考えている段階でありまして、できればみなさま方からお教えいただきたいと思っております。 

問題の所在

 はじめにどんなところに問題があるのかということです。これは資料を見ていただければ説明するまでもないですが、朝シャンの話、歯ブラシの除菌剤ができたとか、男がすね毛を抜いているとか、トイレの改装が流行っているとかいった類の話ですね。今過剰な清潔指向というのが日本の社会にあると思います。ウォシュレット、便座除菌クリーナー、朝シャン、マウスペット、口の臭いが気持ち悪いというわけですね。それから殺菌剤の入ったイヤホン。キレカジというのはきれいなカジュアルのことです。

 JRの車両というのは昔は三十年も四十年も使っていたのですが、古いのは汚いというので耐用年数を短くしてどんどん新しい車両に換えるように、JRが営業方針を変えたそうです。

 それから湾岸戦争。あんなにきれいな戦争はありません。いったいどこで人が死んでいるのかわからず、テレビで観戦していても血が流れたり、人が黒こげになっている姿など全く見られませんでした。これをアメリカのマスコミがsainitised war(衛生化された戦争)と形容していました。

 それから町並みであるとか観光名所などで極端な「美化」が言われていますけれど、それが都市レベルまでいった極端な例がディズニーランドなんですね。ディズニーランドがどれくらい清潔かみなさまもご存知かと思いますが、どうしてディズニーランドがあんなに清潔なのかは、最近『ディズニーランドの聖地』という本が出まして、そのコピーが後ろの方に入れてありますからごらん下さい。とにかくゴミ一つ落ちてない、自然が全く無い。一見木がたくさんあるように見えるんですけど、実はオレンジの木をすべて抜いてしまい地面はコンクリートで固め、その上に新たに木を植えたものです。あそこまでなぜきれいにする必要があるのかということがあるのです。 

従来の視点

 こういった極端な清潔志向が結局環境問題、資源の問題、あるいはエネルギーの問題を引き起こしているわけですが、これに対する従来の対応はどうだったかと言いますと、ゴミの問題ですとどうやってうまく焼却するかといった、工学の問題、政治の問題、経済の問題あるいは生態学といった問題とされてきたわけです。ですがこれを別の角度から見たら違った見方ができるのではないかと思うわけです。そこで私は文化人類学の視点から見たらどんなことが見えるのだろうか考えてみたいというのです。さらにどうしたらいいのかまで考えてみたいのですが、そこまでは必ずしも考えが至っていないわけで、こうゆう角度からも見ることができるということをお話ししたいと思います。

 

文化人類学の視点

 まず予備知識として、文化人類学で使っている「文化」と世間で使っている「文化」とは違っていまして、ごく簡単にいいますと人間が作ったもの全てを文化といいます。我々が使っています文化人とか文化の日の「文化」とは違っています。したがいましてどんな未開民族にも文化はあります。そこに例があげてあります。

 文化人類学にもあまりなじみがない方もおられるかと思いますのでそこに書いておきました。基本的には世界各地の民族の社会、生活、文化を、フィールド・ワークと言いまして実際に生活を共にして調査し、さらに各民族の社会、生活、文化を比較研究するもので、文化とは人間が作ったものですから、それを通して人間とは何なのかを考えていく学問です。従いまして対象分野はありとあらゆるものですので、文化人類学の中でも人によってやっている事が全く違うというくらいいろいろな分野があります。

 文化人類学者というのはゴミの問題でもそうですが、目くそ・鼻くそがなぜ汚いかといったような、あたりまえすぎて普通の人があらためて考えてみた事もないような問題を考えてみる。我々にとって日本の文化は、もともと日本人が作ったものですから、空気みたいなものなんですね。その空気みたいなものをいったいなぜかと考えてみる、そこからいろいろなものが見えてくる。世界の諸民族と比べてみるとさらにいろいろなものが見えてくるのではないかといったことを考えています。

 文化人類学から見たゴミ問題ということに入っていきたいと思いますが、こうした考え方ですから、文化人類学からゴミを見たとき、そもそもゴミとは何か、そもそもゴミはなぜ汚いのか、そもそも人間はなぜゴミを捨てるのか、というふうに「そもそも」から始めます。このような考え方は政治とか経済、生態学の分野にはない視点だと思います。そういった当たり前すぎて見えてこない、考えた事もない問題をなぜだろうと考えてみる、比較してみると新たな問題の理解が可能になるかも知れないという期待を持ってやっているわけです。 

汚いとは

 ゴミはなぜ汚いのかということなんですけれども、身体のレベルと都市とか住居のレベルとを分けて考えてみます。

 まず身体のレベルで考えたときです。例えば体に泥がついたとき汚いと考えます。それではなぜ泥が付くと汚いのか。泥が付いたからといって病気になるというわけではない。ところがなぜか「汚い」と考える。つまり外部から自分の体に付着したものは汚いわけです。逆に自分の体から出ていったもの、これも汚いわけです。これはちょっと考えていただければわかりますが、人間の体から出たものできれいなものは何もないですね。あらゆるものが汚いものと考えられています。汗とかふけとか髪の毛とかは汚いと考えられています。こらは誰でも衛生上の理由だろうと考えます。ですが泥が付いたからといって病気になるわけではありません。髪の毛などは一番不思議でして、さっきまで頭に付いていたのに落ちるととたんにゴミになるんですね。汗に関してもそうです。これは衛生上の理由だけでは説明できないわけです。

 また逆の例もあります。恋人同士あるいはわが子だと汚いと思いません。むしろ積極的に触れたがるようです。こうゆう風に考えていきますと衛生上の理由だけとはいえません。他にも杯を交わすとか同じ鍋料理をみんなで食べるとか、性的接触なども逆の例です。

 さらに、ゴミなどは捨てねばならない、汗や髪の毛やふけなどはどう処理しなければならない、と言った規範性が非常に多いわけです。なぜそういった規範性が多いのか。これが一つのヒントになります。というのはどういうヒントかというと、要するに恋人とかわが子とかは非常に親しい関係で、むしろ一体化したい関係でそういう場合は汚くないのです。逆に他人だと汚いのであって、つまりそれは「我々意識」の上での距離と関係があるのではないかということに気づくわけです。

 それで今度は少しレベルをあげまして、住居あるいは都市のレベルで考えたとき、ゴミだとか糞尿だとかいろいろなものが出てくるわけですが、都市とか住居を一つの身体と考えてみますと、それは汗とかふけと同じと考えられます。都市のレベルでも何を捨てなければいけないか、どう捨てなければいけないのかといった規範性があります。そしてそこでも衛生上の理由で説明できるかという問題がでてくるわけです。江戸と昔のパリやロンドンを比べてみると、江戸時代日本に来ていた外国人達がいろいろ記録を残しているわけですけれども、そこで江戸の街はなんてきれいなんだろう、という事を言っているわけです。それにひきかえパリやロンドンの街は非常に汚かったわけです。どれくらい汚かったかと言いますと、有名な話でベルサイユ宮殿にもトイレがなかったというのです。もっとも後になって見つかったのですが。普通の家庭にもほとんどトイレはありませんでした。ですからみんな「おまる」で用を済ましていて、たまった物は窓から捨てていたのです。さらに道路の真ん中が下水路になっていました。そのころパリ市には条例がありまして、おまるの中身を捨てるときは下を確認し、さらに「水だぞ」と怒鳴ってから捨てなければいけなかったということです。さらにその町の中を豚が群れをなして走り回っていたらしくて、かなり汚かったようです。今でもその名残はありますよね。上を向いて歩いているぶんにはきれいですが、下を見て歩くと犬の糞などでかなり汚いです。歩道の起源というのは、道の真ん中は汚いので両側を高くしたという、本当かどうか知りませんけれども、それくらい汚かったようです。衛生観念がなかったと言えばそれまですが、今は昔に比べたらはるかにきれいになりました。そのきっかけは14世紀のペストの大流行によるものです。

 ですからこれは衛生思想とおおいに関係があるのかも知れませんけれども、しかし江戸の町があんなにきれいだったのは衛生思想だけで説明できるでしょうか。当時の日本人には、今のような衛生思想というのはありませんから、何であんなにきれいだったのかといいますと、ゴミの処理のシステムとか糞尿の処理のシステムがかなり完備していたのです。例えば長屋では大家さんと契約した農家の人達の糞尿を取りに来るわけです。そのお礼に1年に何回か野菜などを持ってきてくれたそうです。これは戦後かなりまでありましたですよね。ところが今は無くなってしまったわけです。さらに公衆便所もあって、たまった物を肥料として利用する、そのために公衆便所をたくさん作ったのではないかといわれています。つまり日本人の場合肥料だったわけです。役に立たない汚い物ではなくて実はすごく役に立つものだったのです。大正時代に入っても大家さんと間借りしている人との間で、トイレに溜まった糞尿はどっちの物か裁判になったくらいです。農家の人達はくみ取って肥料にしたのですが、なめて、味をみたという話もあります。武家の方から持ってきた物は味が良く、それを畑にまきますと野菜の育ちがいいらしいです。いずれにしても本当に汚い物だとは思っていなかったようです。汚い物どころか貴重な物だったわけです。

 私が言いたいのは、ヨーロッパの人にとっては邪魔な物だったわけですが、日本を含め中国文化圏にとっては糞尿の意味付けが違っていたのではないかということです。必ずしも衛生思想だけで江戸の町がきれいだった、あるいはパリやロンドンが汚かったということにはならないと思います。 

捨てるとは

 次に捨てるとか、掃除について考えたいと思います。普通は「捨てる」とはどうゆうことかなだ当たり前で考えた事も無いわけですが、捨てるとか掃除するという行為は、どうゆうプロセスを経て行われるのか考えてみたいと思います。例えば、机の上で仕事をしますと紙屑が出たり、消しゴムのカスが出たりしまして、それをそのままにしますと汚いということになります。それを「掃除」するためにはまとめまして、ごみ箱に入れます。さらに、住民全体の中で考えますと台所でもゴミが出ます。それを流しに散らかしたままでいるのは汚いですから三角コーナーに入れるわけです。

 このようにしてうちの中で1カ所にまとめますね。そのまとめた物をポリ袋に入れて住居の単位でまとめますね。それが朝になりますとゴミの集積所に集まります。つまり集めて1にするわけです。さらにゴミ収集車が回りまして1にするわけです。結局、市全体でまとめまして一ヶ所の清掃工場に持っていくわけです。つまり複数あったものをまとめまして1に近づけることです。

 さらにもう一つは自分の机のまわり、家族、町内、市全体というように段階的に行われていくことです。その辺でも例の我々意識との関東に気付かれるのではないかと思いますけれど。だんだん我々意識つまり連帯感のレベルが上がっていってそれに対応してゴミなどの処理のレベルが上がっていくわけです。

 さらに空間的な距離を隔てるということ。これはやはり掃除とか片づける等で大事なことです。いくらうちの中で片づけてもうちの中に置いていたのでは掃除にならないわけです。うちから外に出さなければなりません。少し前に戻りますが机の上からごみ箱へも移動させなければならないんです。そして家の外へ、ゴミ集積所へ、そして清掃工場へと移動させていく、つまり空間的な隔たりをとることが条件なんです。まとめて単数にすること、それと距離を隔てることが必要なんです。それが捨てるとか掃除するとかの意味ではないかと思うわけです。さらにゴミを燃やすのも、体積を減らす目的もありますが、いろいろなものが入っていますから、燃やすことで一つの灰にしてしまいます。複数のもの、数がたくさんあるものを1に近づける、これが捨てることの意味なのではないかと思います。1に近づけるというのはどうゆうことかといいますと、数がたくさんあるということは自然状態、混沌の状態なんです。しかし1にまとめるというのは秩序を与えるということ、そういった意味があるのではないかと思われます。それを空間的に外へ出していくということは、出した先は数が増えますから混沌になりますが、出したもとの方は0になりますから秩序に変わっていきます。そうやって外へとゴミを出していってしまいには、千葉や松戸のゴミを青森の方まで出してしまい、自分達の町をきれいにする、秩序を保つことがゴミを捨てることの意味なのではないかと思います。

 

意味的機能

 そこで注目しなければならないのは様々な規範性があるということです。要するにゴミを散らかしてはいけないとか、ゴミは一ヶ所のごみ箱に入れなさい等です。あるいは町のレベルで言えば清掃工場や埋立処分場に捨てなければいけないとかといったことです。清掃工場やごみ箱はいわばハード・ウェアですがどのように捨てなければいけないというのはソフト・ウェアの問題です。この両面に様々な規範性があるわけですが、これは一体なぜだろうかを次に考えてみたいと思います。

 突然なぜ禅宗が出てくるかといいますと、永平寺に行かれた方はご存知かと思いますが、あそこのお坊さんは朝から晩まで掃除ばかりしているわけです。それが修行だと言うわけですが、あんなに掃除してゴミなどあるわけがない。汚いから衛生上の理由で掃除をするのではありません。何か別の意味があるのではないかというわけです。

 仏教における掃除というものにはどんな意味があるのかというと、「周梨槃特」という有名なお坊さんがいまして、お釈迦様の弟子だったそうですがものすごく馬鹿でして、どんな修行をしても少しもものにならない彼にお釈迦様は掃彗つまりほうきを与えてひたすら掃除をしていろということになったのですが、その掃彗という名前すら忘れてしまうわけです。しかしとにかくひたすら掃いて、掃除をしているうちに、とうとう悟りを開いてしまった、という有名な話があるそうです。このように仏教では掃除は汚いからするだけではなく、仏意を伝達するメディアという意味付けがなされています。それで5つの功徳として1自身清浄、2他心をして浄らかしむ、3諸天歓喜す、4端正の業を植ゆ、5命終の後、まさに天上に生ずべけんと、掃除にはこうゆう5つの功徳があるわけです。このようにきれいにするだけではなく、仏教では掃除に別の機能を与えて利用しているのではないかということです。それを実用的な機能とは違うという意味で意味的機能と言っているわけです。

 次に学校の掃除の話、なぜこれが出てくるのかというと、実は日本人はみな経験していることですが、小学校や中学校で掃除というのは非常に大事なものでして教育の一環なのです。あれは世界中どこでもそうなのかというと、そんなことはなく、地図を見ますとむしろ少数派なんです。この地図を見て気がつくことには、仏教圏の国々は全て生徒がやっているわけです。ここではアフリカは財政上の理由なので除外します。これは教育の一環でやらせているわけです。掃除をするという本来の機能に教育という機能を付加させていると説明できます。

 

我々意識上の境界

 汚いから掃除するのだ、捨てるのだというだけでは説明できない、本来の意味とは違う、本来の機能とは違う別の機能、それを意味的機能と呼んでいますが、それを掃除に与えて文化は利用しているのではないかということです。禅宗と学校の掃除の場合には悟りを開かせるとか子供に協調性を教育するとか意味がありますけれど、それでは身体のレベルで、あるいは都市や住居のレベルでゴミをどうするべきか、さまざまな規範性がある。いったいそれはなぜだろうか。仏教の場合は先に述べたような意味だったのですが、ここで注目したいのは境界設定の意味的機能というものです。

 私が境界と申し上げているのは必ずしも空間的な境界ではなく、人と人を分類する境界です私たちは人間を一つの身体を持った人間を主体にして家族からはじまり、親族、友人、顔見知り、流山市民、千葉市民として日本人といった具合に分類しています。こうした分類がないことには謳 とはどんな権利義務の関係にあるのかがわからなくなってしまいますら、この分類の境界を守ることは極めて重要です。そしてこの境界の明確化にも廃棄物が利用されているのではないかと考えられるのです。

 まずは身体のレベルからお話していきたいのですけれども、先ほど汗や目くそ、鼻くその類は汚いと話しましたが、髪の毛などは非衛生でもなんでもないわけです。ふけが付いているからといって病気になるわけではないですが、汚いというのです。なぜそれが汚いのかというと、実は全て境界を曖昧にするものだからと言えるわけです。つまりふけというのは自分の体の一部だった。ところがそれが自分の体から出てきて、さらに落ちていく。汗など表面に出てくると、とたんに汚くなるのです。体の表面にくっついているということは、自分の体の境界線上にあるわけです。こうゆうふうに考えますと人間の体から出ていくものは、自分のものかどうなのかわからず、つまり内側、外側の境界線をあいまいにするものはみな汚いということになります。人間に限らず動物はいろいろな元素で構成されているのですが、死んで土に戻れば他の植物がそれを吸収し、それが木の実になってまた別の人の体にはいるわけです。つまり物質は循環しているわけです。そうすると今たまたま私の体を構成しているのがある元素なわけで、それが境界線を守らなければ溶け出してしまいます。我々意識の原点の自分というものが無くなってしまうわけです。自分というのは身体が基本ですから、その身体の境界線がわからなくなるのは人間にとっていちばん恐ろしい事です。その境界線を曖昧にするものを汚い、気持ち悪いものと考えているのではないでしょうか。

 他の例を考えてみますと、今問題になっている臓器移植はどうでしょう。あれは確かに生命倫理の問題がありますが、果たしてそれだけなんでしょうか。多くの方がかなり感情的な反発を示します。それから和田寿郎さんが心臓移植を札幌医大でやりましたけれど、あの時も異常な反発があったわけです。単に命がどうのと言う事ではなくて、とにかく気持ち悪いという反発があったわけです。それはどうしてだろうか。臓器移植というのは、他人の臓器が自分の体に入ってくる、または自分の臓器が他人の体に入っていくことです。つまりそれは自分と他人との身体の境界が曖昧になることです。このような理由から臓器移植が気持ち悪く思われるわけです。もっと気持ち悪いものですとカンニバリズム、つまり人肉食ですね。最もけがらわしい行為になっていますね。どこの文化でも人の肉は食べてはいけないということになっていますが、なぜそんなにいけないのだろうか。別に人間の肉を食べても病気になるわけではありません。以前調べたことがあるんですが、実際それとは知らずに食料として食べてしまったという例もかなりあるようです。ヨーロッパなんかでも人の肉をハムに入れたら大評判になったという話があります。なのになぜそんなに気持ち悪いことなのかというと、やはり境界がわからなくなるからです。ほんの少し前までの他人の体の一部が自分の体の中に入ってくるわけですから。どこまでが我々意識の基本である自分の身体かがわからなくなってしまうわけです。こういったものがみんな気持ち悪いと考えられているわけです。例外はおそらく無いと思われます。境界を曖昧にするものは全て汚らわしいものとなっているはずです。それで文化というものは、文化をつくっている主体である個人ですが、その基本となっている身体、その境界を守る仕組みをなにか作り出さなければならない。それでなんとか境界を明確にするために、何々をしてはいけない、こうしなければいけないアカは汚いからすぐ落とせといった規範性を整えているのではないかということです。

 さらにそれをどう利用しているのかを考えてみますと、確かに境界上にあるものは境界を曖昧にしてしまいます。ですがそれを逆手に取って利用することができます。つまり境界を明確にしたいと思ったら、境界を通り抜けて移動してものに規則性を与えてコントロールすると明確にできるわけです。例えば門をつくりまして、物理的には境界に見えますが人が自由に出入りしてしまいますと境界にはなりません。確かに門というハードウェアをつくる必要はありますがそこを通り抜けていく、例えば人とか野良犬とかが通ったりするわけですが、そこを通さないようにする、追い出すといったソフトウェアでコントロールすることによってうまく境界を明確にすることができるのです。そのために汗とか爪とか、その切り方とかいったことが利用されているのではないだろうか。つまり我々意識の基本である境界を明確にするためにアカ、汗などさまざまなものが利用されているのではないだろうかというわけですね。

 ここでゴミの問題を考えるには都市や住居のレベルで考えなくればなりません。そうすると住居とか都市でも実は同じではないかと思うわけです。つまりごみあるいはバキューム・カーが集めていく糞尿というのは、人間の体から出ていく目くそ・鼻くそと同じなのではないかと言えるわけです。捨て方を考えてみますと、嫌悪施設の立地というのは非常穂に問題になりますね。清掃工場をどこに作るか、東京23区全てに作れと言っておりますけれど、あとは火葬場、下水処理場、屠殺場、埋立処分場をどうするかという問題です。江東区は今でこそかなりにぎやかになっておりますけれど、ごみ戦争の頃は東京の中ではかなり周縁の方ですね。どこの町でもこういった嫌悪施設は周縁に作りたがる。こういったものの移動方向をコントロールすることで内側と外側の境界が明確化されているのではないでしょうか。

 

事例1 新潟県津南町

 こういったものを利用して境界を明らかにできるのではないかということで、私が調査しております2つの地域の例を申し上げます。新潟県中魚沼郡津南町見玉というところなのですが、そこは長野県との境あたりに位置しまして越後湯沢からバスで1時間ぐらいのところです。ここの見玉という過疎地の村なんですけれども、ここと香港を例にとって、廃棄物とはどのような意味的機能を与えられて利用されているのか、それが香港と新潟の比較でそれを考えていきたいと思います。

 プリントを見て下さい。まず、先ほどから我々意識ということを言っておりますが、我々意識での境界の明示に廃棄物が利用されているのではないかと考えますには、まず我々意識の境界はどうなっているのかを考えなければなりません。さて、いちばん小さな単位は家族です。次にヤゴモリというのがあります。これは土地の言葉なんですけれど、地域によっていろいろな言い方をしますけれど、これは本分家の集団です。東京のあたりではあまり無いですが、東北日本型の特徴と言われております。何かあると本家、分家がすぐに集まって何かやるわけです。お正月の新年会から始まり、借金となると本家に頼みに行くとか、縁談があったら真っ先に相談に行くとか、葬式の時でも本家、分家が協力してやるとか今でもそうです。逆に西南日本型というのは本家、分家ということにはあまり意味がないようです。

 それでこのヤゴモリという、本家、分家の集団が我々意識の上で家族の次に大事なのです。その次がムラで、カタカナで書いてあるのは村とは違い部落という意味です。さらにトナリムラと書いてありますが、見玉にはトナリムラが2つあるのです。南側と北側にありまして、それらがセットになってサンガブラクとなっています。そのサンガブラクが何がなんでも協力するんです。例えば町会議員の選挙で自分達の部落でたりないとサンガブラクの人達が一緒になって一人出すわけです。いわゆる地区推薦です。

 このサンガブラクが、次の我々意識上の境界をなします。次にナガレというのがあります。中津川という川がありまして、信濃川の支流なんですが、サンガブラクみたいなものがたくさんあるんです。それが集まって「ナガレ」という単位を作りまして、サンガブラクだけでもだめなときにはナガレの人達にも協力を求めるわけです。例えば先ほどの見玉で冬、病人がでたときは雪がすごくなければヤゴモリに頼んでソリで町に運びます。それでもだめなときにはムラの人に頼みます。それでもだめならトナリムラの人に頼み、だんだんレベルをあげていくわけです。その中でナガレというのは一番大きな単位なのです。そしてその先は津南町という行政上の単位になるわけです。

 こうした我々意識上の境界を明確にするために人はまず物理的な境界を作ります。それにはまず住居があります。住居というのは雨風をしのぐという意味もありますが、別の見方をすれば我々は仲間だぞと示しているのです。その先は何かと考えますと実は何もありません。ヤゴモリとヤゴモリの境に何かあるわけでもないですし、ムラとムラの境界に何かがあるわけでもありません。場合によってはムラとムラの境に川が流れている事もありますけれども、物理的に何かを作るというわけでもありません。物理的な境界と考えますと住居しかないわけです。目で見て住居だけははっきりと内側の人と外側の人の境界がわかるわけです。

 ところが我々意識の境界は5つあるのですから、これを明確にするためにはまだ足りないのです。そこで廃棄物が意味的機能を与えられて利用されているのではないかと考えたのです。

 そこでまず、どんな廃棄物があるのかをみていきます。住居空間から出すのはゴミ、排水、死体、もぐらなどです。このもぐらというのは住居空間内部での移動で、槌に紐をつけまして、まず住居空間のオオベヤ、それからザシキ、チャノマ、そしてゲンカンから外に、という順番に床を叩いて追い出すのです。死者も同様にいったんカミのオオベヤに運び、火葬に持っていくときはザシキからチャノマ、ゲンカンを通って外に出します。掃除も同じで、必ずこの順に掃いていき、途中の部屋から外へ掃き出してはいけないといいます。これはカミのオオベヤが年寄りの部屋であり、嫁さんはチャノマでも一番シモに座りますから、廃棄のしかたは祖先を起点にした我々意識上の境界と一致しているのです。ここでもただ単に衛生上の理由なら、各部屋から外に出したほうがいいはずです。ところが規範性により一定の順が守られていました。それによって我々意識上の境界を明示することが可能になっているのです。

 次にムラの空間です。分家を出すときにはシモに出せ、カミに出すと本家がつぶれる、といわれていますから、模式図で示すとカミからシモへ大本家、第一分家、第二分家、奉公人分家という順に並ぶことになります。さらにNさんとTさんをみると、古いNのほうがカミ、新しいTのほうがシモにあります。草分けを起点とした我々意識上の境界がそのまま空間的距離に投影されているのです。

 実際には、必ずしもうまく土地があるわけではないので、我々意識上の境界と完全に一致しているわけではありませんが、廃棄物の移動をみていくと、これを補正し、我々意識上の境界を明確化していることがわかります。

 まず排水ですが、水道が入る前は川の水を次々と使っていたのです。スイバンという木製の船のようなところに引き込み、同じところに排水も流しました。それがシモの次の家のスイバンに入るのです。つまり大本家の汚水を第一分家が使い、大本家と第一分家の汚水を第二分家が使う、という形になるのです。さらにNヤゴモリの汚水をTヤゴモリが使うことになります。つまり排水の汚れが我々意識上の境界を明示することになります。

 次の鳥追いですが、小正月に子供達が拍子木を打ち、鳥追いの歌を歌いながらムラのカミからシモへ雀などの害鳥を追っていく行事です。そしてムラザカイでシモのトナリムラと喧嘩して追い出してしまうのですが、ここでも害鳥という廃棄物の移動は我々意識の境界と一致しており、これを明確化することになります。

 この他牛馬の死体はムラの境界のシモの外側にある馬捨て場に捨てました。またかつて口べらしに赤ん坊を捨てたときはさらにシモのニカッコバヤシに捨てました。粗大ゴミもムラザカイのシモの決められた場所です。

 こんどはムラの外部の空間です。ムラから追いだした害鳥は、同じように今度はさらにシモのムラに追っていかれ、最後は歌追いの歌にもあるように、「佐渡島へホーイホイ」と海の向こうの異国へ追い出してしまいます。また排水も、次々とシモのムラに出され、最後は信濃川を経て海に出されます。

 こうした廃棄物の移動経路も、実は我々意識の境界と一致していることがおわかりかと思います。つまりこうした廃棄物は、規範性を与えた廃棄によって、我々意識の境界を明示化するという機能を与えられ、利用されているということになります。

 

事例2 香港

 次に香港の例をお話します。ここは津南の例とは非常に違います。香港に行った人の印象はうるさい、汚いというものが非常に多いのですが、我々意識を考えてみますとなによりもまず家族です。文化によって人間の環境設定も違うと言いましたが、ここで言う家族も日本の家族とはちがいます。向こうは家族の範囲が広く、おじさんなども含まれますし、場合によってはすごく親しい友達まで家族に入ってしまうという事もあります。そして中国人の家族の我々意識とは日本人のそれとは比較にならないほど強固なものです。

 その先ですが、香港にはないんです。悪く言ってしまえば家族さえ良ければ良いのであって「家族が第一、国家は最後」という様な諺もあるそうです。とにかく家族のつながりの他にはほとんどなく、隣に何十年も住んでいても挨拶もしたことが無いなどごく普通です。町内に当たるものもないし、香港島と海をはさんだ九龍半島も、それぞれが我々意識を持つこともありません。あえて言えば、とりわけ香港返還が近づいて、香港人という意識が高まってきています。その次は漢民族で、よく中華思想と言いますが、今でも自分達の文化は世界一だと信じている人が若い人も含め多いのです。そしてその先は人類となります。津南の例と比べますと我々意識の境界が少ないですね。

 今度は物理的な境界です。香港は住宅事情が本当に悪いですから、日本の住宅が兎小屋ならあちらは鶏小屋だろうというくらいひどいのです。安普請が非常に多いのです。超高層アパートでも、とにかく数を増やせばいいのだろうということで、壁が薄かったり、トイレやシャワーが共同といった汚いアパートがたくさんあります。つまり境界のはっきりしていない住居に住んでいる人が多いのです。家族は他の人々との間に明確な物理的境界をつくらなければならないのに、それが出来ないのです。

 次に香港空間ですが、先ほど「香港人」と言うのがあると言いましたけれども、物理的にみますと、香港島と九龍島の間には海、香港島のまん中や、九龍半島先端と新界の間にもかなり高い山があります。

 つまり我々意識上の分類の境界と、物理的境界が一致しない、したがってそのままでは我々意識上の境界が歪められてしまう、ということになります。

 ところで、先ほどの津南の場合には香港の場合とはちょうど反対に、我々意識上の境界はたくさんあり、物理的境界は一つしかなく、廃棄物が物理的には存在しない境界を明示するために利用されていることをお話しましたが、実は香港でもずれの補正に廃棄物が利用されているのです。

 香港の人は家の中はぴかぴかにして、インテリヤにこったりしますが、他方家の中のごみはどんどん徹底して外に出します。とにかく家の中から外に出すことが強調され、後はどうするという規範性はありませんし、関心もありません。日本だったら集積所まで持っていくべきですが、それもありません。玄関から外に出してしまえば、後は団地で雇った「 扱 」がどこかに持っていってくれるから関係ない、といった考えで、その先の集積所、中継所、まして清掃工場がどこにあるかなどはほとんど関係が無いのです。

 他にも住居空間から出すものがたくさんありまして、歩道を歩いていると水がぽたぽたたれてきますし、窓からゴミがひらひら舞ってきます。ひどいときには布団が落ちてきたなどということもあるそうです。住居空間から外へ廃棄物を出すことを強調し、その香港空間ではまったく廃棄物の移動を強調しない、というのが香港における廃棄物の処理に関する規範性と言うことになります。

 ところで我々意識上の分類における境界との関係を考えてみますと、住居空間から廃棄物をどんどん外に向かって出すことは、物理的には不明確な境界を明確化し、内側にいる人々、つまり家族と、外側の家族以外の人々の分類の境界を明確化することになります。他方香港空間では、廃棄物の移動を強調しないことによって、物理的には明確に存在してしまう境界を解消し、香港人の間に分類の境界が設定されていないことを明示する、ということになります。

 

結論

 結論でありますけれども、今までのことから何が言えるか、と言いますと、まずゴミ問題といっても政治、経済とか、あるいは生体学の面からでは不十分だ、ということが言えると思います。まったく別の、文化人類学という視点からみますと、随分と違って見えることがおわかりいただけたと思います。ただし、文化人類学者は現実のゴミ問題をどうするのか、といわれますと困ってしまうのですけれども。

 そして結論の2番目は、より具体的に、ゴミはただ単にいらないから、汚いから捨てる、などと言うものではなくて、人々をどう分類するのかが描かれた頭の中の地図の境界を明確にしていくという、いわば意味的な機能を与えられ、利用されていることがわかる、ということになります。ゴミは非常に役に立っている、というとんでもない結論ですが。

この他に、文化人類学の視点から、多少現実のゴミ問題に関して言えることをあげておこうと思います。まず廃棄物は我々意識の境界明示に利用されているわけですが、何か他のもので代替できれば、そのための廃棄は減少させることが出来るはずです。

 次に、もし我々意識の境界が変われば、たとえば香港人の家族の境界がもっと緩やかなものになれば、その明示のために利用されるゴミも減少するはずです。

 さらに現実の東京のゴミ問題がどうして深刻化してしまうのかを考えてみますと、この我々意識の変化と、厄介なものを追いやってしまうような空間の欠如が問題であるということが出来ると思います。すなわち津南のように我々意識の境界が幾つもあり、段階的に遠ざかっていく形で、しかもシモへシモへと追いやっていける空間があり、しかも最後は佐渡という究極の捨て場があれば問題が起こらないのです。ところが香港型では家族の次は香港人全体になってしまいますから、住居から出した後は香港空間から出す他なくなります。ところが香港空間以外は海か、国境の向こう側の中華人民共和国しかありませんからどうしようもない。我々意識上境界の無い人々の住む香港空間の中に抱え込むしかなくなってしまうのですから、当然問題が深刻化します。

 東京の問題を考えた場合も、かつては家族、お隣、町内、そしてさらに広い日本橋などといった地域、という形で段階的に境界が設定されていたわけですが、だんだんに、香港型になってきた。つまり隣だからといってとりわけ付き合いがあるわけでもない、いわばコミュニティー意識がなくなってきた。家族の次が東京人、という形です。したがって住居から出した後は東京空間から出すほか無いことになりますが、実際には東京空間の境界の向こう側にも同じように過密な空間だからそんなことはできない。結局我々意識上境界の無い人々の住む東京空間に抱え込むか、青森県とか福井県にでも送り込むしかなくなり、深刻な問題を引き起こす、ということになるのです。先ほども言いましたように、捨てるとか掃除するとか言うことは、1にして空間的に移動することで、出した側は秩序が回復するのに対し、出された側は無秩序化されてしまいます。東京はその無秩序を抱え込むしかないから問題が深刻化するのです。

 ここでニュージーランドの例ですが、我々意識の境界は香港型に似ていて、しかも廃棄物は町の境界の先の空き地などに放っておくのです。しかし何しろ隣の町まではうんと離れていて、牛や山羊しかいませんから、そこに無秩序を追い込んでしまうので問題など起きないのです。

 次に清潔感についてです。清潔感は文化によって全く違います。汚いものはどこの民族でも同じかというとそんなことはなくて、何が汚いかは文化が決めることです。例えば香港の人達は日本人と一緒に食事するのは気持ち悪いと言います。なぜ汚いかというと麺類を食べるとき音がするのが気持ち悪いというのです。しかし日本人から見ると香港の人達の食べ方はとても汚いのです。ある家では食卓がトタンで、その上に新聞紙を敷くのです。その上で食べて、終わったら包んで捨てるだけです。テーブルを拭くという手間はいらないし実に合理的です。骨はテーブルの下に捨ててはいけない。礼儀に反します。テーブルに盛り上げることがいいというのです。日本人とは全く逆です。テーブルクロスでタンをふいたり鼻をかんだり、有名な話ではボールペンで勘定を書いたりしてもいいんです。日本人からみると実に汚いのですが、彼らからみると日本人は汚いのです。何が汚いかは文化によって違うわけです。

 またニュージーランドでは牧畜が重要ですが、牧場は遠くから見るときれいですが、そばに寄ってみると牛の糞などでとても汚い。牛乳を絞っている人など牛の小便を浴びながら働いています。それに馬とか牛の死体などが転がっていたりします。どうして放っておくのかと思うのですが、彼らはそうゆうものをあまり汚いと考えてはいないんです。しかし町並みを見るととてもきれいなんです。広い芝生の向こうに真っ向にペンキを塗った家がゆったりと並んでいます。彼らからみたら日本の町はなんて汚いのかと思うでしょう。

 また同じ文化でも時代によってかなり差があります。糞尿を汚いと思っていなかった時代もありました。汚いと思わなければそんなに捨てたいと思わないわけです。ところが今の日本人の清潔感はあまりにも極端で様々な問題を引き起こしています。ならばもう一度レベルを引き下げればいいと思うわけで、それは可能なんです。以前は日本人もそうだったし、使い捨ての問題です。違った清潔感を持っている民族はいるわけですから。

 さらに、日本文化は実は元々使い捨ての文化仮構成性の文化なのです。割り箸など典型的な例です。それから建造物。古くなったら建てかえて、伊勢神宮にいたっては二十年に一度建てかえます。ああゆう白木は日本人にとっては清潔感を与えるのでしょう。また都市も使い捨てです。江戸の町なんかは火事を前提にして作られていましたね。あれだけ火事が多かったのに耐火建築は発達しなかった。焼けたらこわしてまた立てかえればいいという考え方です。今も日本ではビルは使い捨てですね。30年もたてば建てかえてしまう。

さらに都市ですら使い捨てでした。天皇の代替わりのごとに遷都していたのですから。こうしたところに日本のゴミ問題の隠れた要因があるのではないかと思います。

 それから包(つつみ)です。日本の文化は包を重視する文化です。中身中国文化、外見の日本文化と言われます。香港に日本のデパートが進出しているのですが、香港人はなぜあんなに包装するのかわからないと言います。外国はどこでも汚い紙袋に入れておしまいというのが普通ですが、料理でもそうですね。よく中華料理は皿が汚いとか言いますが、そんなことはどうでもいいのです。中身が大事なんです。日本の文化は別な言い方をしますと「目の文化」ですね、日本の料理というのは目で食べますね。器がすごく大事で、次から次へといろいろな器が出てきます。それを目で見て楽しむのは日本人です。中国人はそんなことはどうでもよくて、中身が大切なんです。贈り物でも日本人は何重にも包装しまして、あけていく楽しみというのがあるわけですけれども、そういった中身を大切にするのか、外見を重視するのか、ということが、過剰包装の問題も関わってくると思います。

 文明と伝統的な文化あるいは未開文化を比較して考えてみたいと思います。いわゆる未開社会というのは停滞しているのです。何千年前と全く同じ暮らしをしているわけですね。今ソ連、欧米でも市場経済といっておりますが、我々の社会は次から次へと拡大再生産をしなければならない。つまり自転車操業です。こぐのを止めたらひっくり返ってしまうのです。はたしてどちらがいいだろうかというのはいろいろ議論があるわけですが、車をやめてしまおうなどとは言えるはずがないとしても、進歩という問題をもう一度考えて見た方がいいのではないでしょうか。というのは文化人類学というのはもともと未開社会の研究から始まりましたが、実は未開社会の人たちから学ぶことはいくらでもあるのです。物質的豊かさに幻惑されて進歩進歩のままいくとどうなってしまうのか。未開社会、伝統的な社会からもっと学んでもいいのではと思います。

 何か皆様からいろいろご示唆いただければありがたいと思います。


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