花見から見た都市、江戸・東京
                   斗鬼正一

                                     2003(平成15)2
                             『情報と社会』第13号、江戸川大学


はじめに
 桜前線が北上を始めると、人々の心は浮き立つ。本格的な春の訪れへの喜びだけではない。花見への期待である。靖国神社(千代田区)にある3本の開花基準木のつぼみの大きさを測定して、開花予想が報じられ、駅には花見の名所の開花状況が貼り出されたりする。2分、3分咲きの頃から、待ちきれない人々が上野公園(台東区)などに繰り出す。職場の花見では、早朝から、時には前日から、新入社員が駆り出され、場所取りをさせられたりする。当日は朝から仕事も手につかず、花見への期待が盛り上がり、夕暮れとともに、たくさんの料理や酒を買い込んで繰り出し、夜遅くまで飲み、食い、歓談し、歌い、踊り、宴が盛り上がる。
 花見を楽しんだのは江戸の人々も同様だった。花見は古代・中世においては貴族・武家の間で行われたが、近世には大名も町人も、花見弁当や酒器を持って花見遊山に繰り出した。江戸市中では三十三品(ぼん)といわれる一木ものの桜を見物したが、日本の花見独特のどんちゃん騒ぎも元禄時代に始まったと言われ、多数の桜が植えられた花見の名所で、あらゆる階層の人々が、集団で、花を愛で、歌舞音曲、飲食を楽しむ宴が盛んになったのである。
 白幡洋三郎は、花見の三要素を群桜、飲食、群集とし、花を楽しむ、野外で飲食する文化は世界各地にあるものの、三要素を備えた花見は世界中で日本だけの独特な文化だという(白幡、2000)。本稿は、江戸・東京人、日本人が熱中してきた花見という文化の背後に、どのような意味が隠されているのかを考察し、さらにそれを通して、江戸・東京という都市がどのようなものとして見えてくるのかを探ることを目的とする。

第1章 花見の歴史
1.梅から桜へ
 かつては梅、桃、桜草、山吹、藤、つつじ、牡丹、萩、菊など、季節を代表する花は皆、広い意味での「花」見の対象だったが、中でも外来植物である梅は、中国唐代の詩文で花を代表するものとされた影響で、奈良朝の貴族にとっても、花を代表するものとなっていた(白幡、2000)。ところが本居宣長が『玉勝間』(18世紀末)で「ただ花といひて桜のことにするは、古今集のころまでは聞こえぬことなり」と述べているように、『万葉集』には梅を詠ったもの118首に対して桜は36首、逆に『古今集』では桜53首に対して梅29首と逆転する。梅に替わって桜の花見が、貴族の重要な行事になったのは平安時代なのである。そして「花の雲鐘は上野か浅草か」と詠まれたように、俳句歳時記でも花といえば桜をさすまでになったというわけである。
2.貴族と農民の行事から大衆の花見へ
 他方農民の間では、古くから花の咲き始める頃に、飲食物を持ち、近くの山、丘、河原、野原、池のほとりなど、見晴らしの良いところに登り、春の軟らかい日差しを浴びながら、酒を酌み交わし、鳥たちの声を聞き、桜やつつじの花を眺め、山菜採りを楽しんだりした春山入り、春山行き、野遊びなどと呼ばれる行事があった。これは冬を支配していた神を山に送り返し、春の芽吹きをもたらす田の神を迎える宗教行事とされる。また桜の咲き具合によって、稲の出来具合を占う農事とも考えられる(吉村、1986)。
 貴族的な行事から離れ、農耕儀礼からも切り離されて、それ自体を楽しむ独立した娯楽としての花見が生まれるのは中世である。その後京都で、郊外の花見が富裕な階層に広まり、江戸時代には更に大衆化して、多くの人々の娯楽としての年中行事になっていったのである(白幡、2000)。こうして貴族文化と農民文化の二つが、元禄期の都市文化の形成と結びついて大衆化したのが、現在につながる花見、というわけである。

第2章 江戸の花見の名所
1.上野山
 享保ころまでは、桜の名所といっても、大半は大木1本だったり、数本の桜を眺めるもので、大勢で繰り出し、群桜を楽しめるのは、東国第一の桜の名所と呼ばれた上野山(台東区)だけだった(青木、1998)。上野山下の不忍池は蓮、納涼、月見、雪見の名所だったが、台地上に位置する上野山は眺望に優れた上に、古くから桜並木が有名だった。彼岸桜があるため、早めに花見が楽しめたし、吉野山(奈良県)になぞらえて、山口の彼岸桜から、吉野桜、八重桜と、桜が時期をずらせてだんだん奥へ咲き進むように工夫されていたといわれる(青木、1998)。元禄期には花見客が殺到し、黒門町前は身動きできないほどだったという。
 ただし江戸時代の上野山は、将軍家菩提寺の東叡山寛永寺境内であり、将軍の墓地がある聖地として、小唄、浄瑠璃程度は許されたが、楽器演奏、なまものを食べること、夜間の花見が禁止されていた。それゆえ、賑やかに花見を楽しむには堅苦しいところだったが(白幡、2000)、その分上品、風流だったと言われる。
2.日暮里
 上野山の東北に続く「ひぐらしの里」日暮里(台東区、荒川区)は遊人の隠棲の地で、眺望の優れた高台には、月見寺、雪見寺などとともに、花見寺として有名な妙隆寺、修性院、青雲寺があった。鴬、ホトトギス、蛍、虫の声を楽しみ、長唄、浄瑠璃、和歌、俳諧の会を催すなど、文化的な花見が行われるようになり、寛政年間(1789ー1801)には飛鳥山を凌ぐほどの名所となった。
3.吉原
 隅田川から山谷堀を遡り、日本堤を越えると、お歯黒どぶと呼ばれる堀に囲まれた遊廓吉原(台東区)である。吉原の年中行事には、菖蒲、玉菊灯籠、俄祭とともに、1743(寛保3)年から始まった夜桜の花見があった。毎年3月朔日、メインストリート仲之町に満開の桜数千本を植え、下草に山吹を添え、周りを青竹の垣根で囲い、ぼんぼりを飾り、日頃立ち入ることができない一般の女性にも開放された(中江、2000)。初鰹、桜鯛などの料理を楽しみ、桜餅を土産に、不夜城吉原で夜桜見物が行われた。桜は150両もの大金をかけて、開花時期にあわせて山から根の付いたまま運び、散ると抜いてしまうという贅沢なものであった。
4.墨堤
 1674(天正2)年北条氏によって、本所の北の源森橋(墨田区)から熊谷(埼玉県)まで16里余りにわたって隅田川に築かれた堤のうち、木母寺(墨田区)あたりから水戸藩下屋敷(現隅田公園)付近までを江戸の風流人が墨堤と呼んだ。
 ここには徳川家康が堤防強化のために三囲神社(墨田区)あたりから木母寺あたりに、桃、桜、柳の若木を植え、寛永年間(1624−48)には4代将軍家綱が、現茨城県稲敷郡桜川村から桜を取り寄せて、木母寺付近に植えたといわれる。その後吉宗が1717(享保2)年に木母寺から南にかけて100本を植え、1726(享保11)年にも桜、桃、柳計150本が追加された。以来1854(安政元)年までの間に700本もの桜が三囲神社まで植えられた。明治になると、水戸徳川家が自邸の前に植えたことにより、枕橋(墨田区)まで桜並木が続くようになった。また1883(明治16)年には、成島柳北、大倉喜八郎らが1000本余りを植えている。
 天保期(1830ー44)以降は上野山にかわって人気を集めたが、花見の他にも、夏は船遊び、秋は月見、冬は雪見を楽しむ景勝地だった。名物の長命寺桜餅は、元禄頃家康ゆかりの寺長命寺(墨田区)の寺男が、桜の葉を塩漬にして餅をくるんで売り出したものが大評判となったものである。
5.御殿山
 品川区の北端、北品川一帯の台地で、東は東京湾に臨み、南は目黒川の谷である。地名は太田道灌が1457(長禄1)年館を築いたからとも、江戸初期に将軍家の御殿が設けられたためともいわれ、御殿は1702(元禄15)年に焼失したが、代々の将軍が遊んだ。海、富士山が望める風光明媚な場所で、吉野山から移植した桜が見事だったが、ここにも吉宗が桜を植えた。
 尊皇攘夷派による東漸寺(港区)の英国公使館襲撃事件の後、高杉晋作らは、外交団が新たに御殿山に建設しようとした公使館を焼き討ちしたが、これも桜の名所に我が物顔に建設しようとしたことに対する市民の反感を利用したとも言われる程である(塩見、1988)。
6.飛鳥山
 享保に至り、御殿山、墨堤とともに飛鳥山(北区)が花見の名所として作られた。飛鳥山はJR王子駅の西側、山手台地の末端にある丘で、豪族豊島氏が居城鎮護のために飛鳥明神を祀ったのが地名の由来である。
 飛鳥山は月見、雪見、滝野川渓谷は紅葉、蛍、台地上の王子権現、王子稲荷は花見、雪見、王子は蛍、虫聴で知られていたが、8代将軍徳川吉宗が1721、2(享保5、6)年頃、江戸城吹上御殿から数千本の桜や松、紅葉の苗木を移植させ、全山に野芝をはらせ、花見の名所として公開した。さらに吉宗は、幕府の土地では花見に来る者がいないだろうと、熊野神社別当の金輪寺に寄付して熊野神社の神地とし、金輪寺に管理させた。また諸人遊楽の場とする事始めに遊山をしようと、身分を問わず人々を招き、酒宴を張ったという(白幡、2000)。
 こうして計画的に作られた花見公園ともいうべき飛鳥山の桜は、宝暦年間(1751ー64)になると、上野を凌いで江都第一といわれるようになり、水茶屋、揚弓場も許され、崖下の的に向けて投げる名物かわらけ投げも行われ、桜の下で羽目をはずしたどんちゃん騒ぎが行われた。
7.近郊の花見の名所
 江戸の人々が一泊の花見の旅に出かけたのは、小金井の玉川上水沿い(小金井市)である。3代将軍家光から吉宗の時代まで幕命により植え続けた桜が2000本、小金井橋を中心に1里半続く関東随一の名所で、国分寺跡や府中とともに1泊で回る旅であった。

第3章 東京の花見の名所 
1.江戸から続く名所
 上野山は、1873(明治6)年に太政官布告により東京府五大公園の一つ上野公園となり、民衆が自由に出入りできるようになった。加えて将軍墓所としての制約がはずれたため、賑やかに騒ぐ花見が可能となり、今日では日本有数の花見の名所となっている。
 日暮里は、明治以降天王寺境内が谷中霊園となり、現在もさくら通りを中心に五重塔跡地や周辺に花見客が集まり、先祖の墓の墓前で宴を開く人も見られる。
 墨堤は、現在も吾妻橋から上流へ1.5km程桜並木が続き、提灯、屋台が並んだ堤防や1931(昭和6年)開園の隅田公園はびっしりと人で埋まる。長命寺桜餅は現在も人気である。隅田川に浮かべた屋形船から花見を楽しむ人も多い。1985(昭和60)年には隅田川をX字型に跨ぐ歩行者専用の桜橋が架けられ、墨堤の賑わいを紹介した墨田区立すみだ郷土文化資料館も開設されている。
 御殿山は、明治に入り新橋、横浜間鉄道建設のため掘り崩され、山の形も明確でなくなってしまった。現在は高級住宅地として知られ、御殿山公園やホテルラフォーレ東京の庭園に多くの桜があるが、かつてのような賑わいは見られない。
 飛鳥山も上野とともに公園となり、上野程の全国的知名度ではないものの、多くの花見客で賑わう。1998(平成10)年には江戸時代の花見を紹介する北区立飛鳥山資料館も開設されている。
 小金井の玉川上水堤は、1883(明治16)年、明治天皇が観桜に訪れ、1924(大正13)年、小金井桜として国の名勝に指定された。中央線武蔵小金井駅が開設される以前から、花見の季節には臨時乗降場が設けられていたし、1927(昭和2)年には現西武新宿線に花見客を当て込んだ花小金井駅が開設されている。また上水そばには1954(昭和29)年に広大な都立小金井公園が開園、約2500本の桜が植えられ、桜の園も設けられて、大勢の花見客で賑わっている。
2.新しい花見の名所
 千代田区では、千鳥ケ淵緑道は皇居内濠に面し、400m、約300本の桜のトンネルが見事である。さらに北の丸公園の内濠沿いに広がる千鳥ケ淵水上公園(約400本)では、濠の水面に浮かぶボートからの花見も可能である。2001(平成13)年までは、濠端のフェアモントホテル2階に観桜レストランがあり、ここからの花見も人気があった。1869(明治2)年に東京招魂社として創建された靖国神社境内には、翌年木戸孝允が染井吉野を植樹、現在では約1100本がライトアップされ、夜遅くまで賑わう。また外濠公園は、江戸城外濠沿いの土手上2kmに約700本が並び、濠とのコントラストの美しさに人気がある。
 中央区では、隅田川と高層マンション群を背景にした花見が楽しめる佃公園、新川公園、隅田川河口にはかつての将軍別邸である浜離宮庭園がある。
 港区では、増上寺境内の一部だった芝公園の東京プリンスホテル、広大な敷地内にさくらタワーなどが並ぶ高輪プリンスホテルで、ティールーム、レストランでの食事を楽しみながら、落ち着いた花見ができる。青山霊園は1874(明治7)年開設で、27ha、約400本が植えられ、宴会はできないものの、多くの観桜客が訪れる。赤坂アークヒルズでは再開発にともなって新たに植えられた桜を、超高層ビル群を背に楽しむことができる。また明治神宮外苑(港区、新宿区)は、よく知られた銀杏とともに約500本の桜も見事である。
 新宿区の新宿御苑は、玉川上水に沿った高遠藩(長野県)内藤家下屋敷跡で、1949(昭和24)年に一般に公開され、現在約2000本の桜が植えられている。文京区では神田川岸の江戸川公園、小石川後楽園、播磨坂さくら通り、江東区には、親水公園である仙台堀川公園、埋め立て地の運河に面した辰巳の森緑道公園がある。
 品川区では、運河を埋め立て、勝島の海を復元したしながわ区民公園、目黒区には呑川緑道、駒場公園、大田区では、多摩川岸の多摩川台公園、池上本門寺、洗足池、世田谷区では等々力不動尊を中心に谷沢川の等々力渓谷に約300本、広大な芝生に約930本の砧公園、約200本の駒沢公園、渋谷区では代々木公園の広い園内に約1000本が咲く。
 中野区の新井薬師公園は、新井薬師境内の一部を1914(大正3)年に公園としたもので、桜のトンネルが見事である。哲学堂公園は、元は井上円了の創設した精神修養の道場で、妙正寺川に面した丘陵上にあり、川沿いに桜並木がある。また両公園付近の中野通りも約2kmの桜並木が続く。杉並区では、善福寺川に沿った緑地公園に約600本が咲く。練馬区の氷川台駅から豊島園までの石神井川沿い約2kmには、平成天皇の誕生記念に植樹されたのをきっかけに、約2kmの桜並木ができている。石神井公園は三宝寺池、石神井池周囲などに約300本がある。
 足立区では東綾瀬公園が知られ、葛飾区では、江戸川の遊水池を生かして作られた都内最大の親水公園である水元公園の、約4kmに及ぶ桜堤が有名である。
 三鷹、武蔵野市の井の頭公園は1917(大正6)年、日本初の郊外公園として開設されたもので、池の周囲に約600本の桜が植えられ、大勢の花見客で賑わう。調布市では約800本の神代植物公園がある。国立市の大学通りは広い歩道で宴会をする人もいる程の名所で、交差するさくら通りも2kmの桜並木が続く。立川市には約1500本がライトアップされる昭和記念公園がある。また日野市の平山城址公園には約500本が咲く。八王子市の多摩森林科学園は元林業試験場で、250種の桜保存林があり、滝山公園には約6000本が咲く。
3.花見の旅
 現代では、交通機関の発達により、高尾山(八王子市)、鎌倉(神奈川県)などの近郊はもとより、吉野山、嵐山(京都市)、造幣局通り抜け(大阪市)、そして1月から琉球緋桜の咲く沖縄県本部町、名護市など、全国各地の桜の名所に、花見の旅にでかける人も多いし、旅行社はさまざまな花見の旅パッケージツアーを提供している。

第4章 花見の名所の空間的配置
1.日常生活圏から外へ 
 多くの人々が、たとえ近所に桜の名所があっても、わざわざ上野、墨堤などに花見に出かけるように、花見はまず自宅から外へ出て、さらに日常生活圏を離れることから始まる。交通機関が未発達の江戸時代には、花見は早朝から一日がかりの遠出で、女性や子どもにとっては、自宅の近辺から外に出る数少ない機会でもあった。距離的にも、日本橋から上野までは30余町、飛鳥山、御殿山は1里30町、木母寺までは2里半、飛鳥山までは徒歩2時間もかかったのである。
 また隅田川自体、江戸の内外を隔てる川で、かつては武蔵国と下総国の国境でもあった。それゆえ、隅田川の桜並木と、その向こうに広がる田園地帯は、人々にとって別天地であり、「川向こう」へ行くこと自体が、非日常的空間への離脱だったのである(伊東、1993)。
2.都市と田園の境界
 上野山、日暮里、御殿山、飛鳥山、墨堤は現在いずれも町中であるが、江戸時代には、都市と郊外、田園地帯の接する地点に位置していた。1843(天保14)年の『分間懐宝御江戸絵図』でも、隅田堤は東北の、飛鳥山は北西の、御殿山は南の隅に江戸を取り巻くように描かれている。また吉原は、浅草寺で途切れる江戸市街地の先で、田園地帯の中の島のような立地であった。 
 今日では東京の拡大につれて田園は遠ざかり、それとともに花見に出かける距離も遠くなったが、それでも人々が花見の旅に出かけるのは、東京近郊はもちろん、吉野山、嵐山など、山野、田園に接するような場所が多い。
3.山と高層ビル
 上野山、日暮里、御殿山、飛鳥山と、花見の名所は山が多い。無論丘という程度であるが、山の手台地が下町と接する山の辺で、下町から見上げると、山のように見える。こうした山の辺は、眺望に優れ、花見だけでなく、雪見、月見などの名所でもあった。それにそもそも、御殿山の場合など吉野山の桜を移したものであったし、上野山は吉野山になぞらえられている。
 今日では皆視界が遮られてしまっているが、これにかわり、新たな山となっているのが高層ビルで、これらの名所の展望の良い飲食店からは、高い視線からの花見を楽しむことができる。飛鳥山の場合、1992(平成4)年まで公園内に回転展望塔「飛鳥山タワー」があり、廃止後は山下に「さくらホール」、「飛鳥ホール」を擁する「北とぴあ」が建設され、最上階には無料展望台、レストランが設けられている。御殿山には超高層のホテルラフォーレ東京があり、邸宅街の中に美しく整備された公園の桜を楽しむことができる。また墨堤にもアサヒビールタワー初め多くのビルに飲食店が設けられ、桜を上空から楽しむことができる。また芝公園、高輪では、高層ホテルからの花見が楽しめる。
4.寺社、墓地
 花見の名所は寺社境内や周辺に多い。上野山は寛永寺、飛鳥山は熊野神社境内である。浅草寺奥山も桜で知られていたし、日暮里では妙隆寺、修性寺、青雲寺が花見寺と称されたように、江戸期の寺社は遊園地、見せ物のごとく花樹を植えて参拝客を招いたのである(青木、1998)。墨堤も木母寺、三囲神社、長命寺そして浅草寺に近い。開花基準木があり、大変な賑わいを見せる靖国神社はもとより、増上寺境内の芝公園、等々力不動、新井薬師なども、寺社境内とその周辺である。
 寺はまた死者を葬る墓地でもあるが、青山、谷中、染井などの霊園もまた多くの桜が植えられ、花見に訪れる人は多い。靖国神社近くの千鳥ケ淵の場合は、第二次世界大戦戦死者の遺骨を納めた戦没者墓苑がある。
5.水辺
 花見の名所は、隅田川、多摩川、妙正寺川、等々力渓谷など、川辺に多いし、飛鳥山は山下に音無川の渓谷がある。千鳥ケ淵、外濠公園などは皇居濠端、吉原は濠に囲まれ、不忍池の上野公園、三宝寺池の石神井公園、井の頭池の井の頭公園も名所である。御殿山は品川の海を間近に望むことができたし、しながわ区民公園は埋め立て地に造成されている。
 また船上での酒宴、カラオケなどとともに花見を楽しむ屋形船のように、水上もまた花見の名所となっている。

第5章 花見の宴
1.花見の宵
 花見の支度は、芝居見物、寺社参詣と共に、隣近所注目の特別なことで、「花の宵」と呼ばれ、酒、肴、料理の準備など、前夜から一家を上げて支度をした。早く起きられるようにと、まじないまであったほどで、前日から遊楽の気分に包まれていたのである(小野、1992)。
2.食
 花より団子といわれるように、花見といえばご馳走である。江戸の人々も酒、煮物、煮染め、干物、刺身、浸し、漬け物、握り飯、餅、そして落語長屋の花見に見られるように、蒲鉾、卵焼きといったご馳走を、重箱に詰めて楽しんだ。
 今日でも、デパートや、花見の名所の近くの店では、花見弁当を初めとするご馳走が並べられる。焼き鳥、おでんなどの屋台、露店も集まる。こうした花見のご馳走は、多くが家庭で日常食べるような料理とは異なる。またご馳走でなくとも、折り詰めなど、屋外で食べるのにふさわしいような料理である。
 量もまた非日常的で、江戸の人々も花見では大量の食物を消費した。左内町手習師柳花堂の花見は大規模で、弁当2000人前、弁当長持15棹、縮緬三布の大幟が用意されたという記録が残されている。
 これは現在でも同様で、敷物の上一杯に広げられたご馳走を心おきなく食べ、日頃節制している人も、この時ばかりは節制を忘れる。結局食べる量もまた非日常的な量となる場合が多い。
3.酒
 花見の楽しみは花より酒、という人も多い。日頃あまり飲まない人も、女性も、この日ばかりは飲酒を楽しむ。せっかくの花見だからと、日頃の酒量を越えて酩酊し、歌に、踊りに、おしゃべりにと、陶酔と忘我の境地に誘われることとなる。
4.食器 
 江戸の人々も花見の宴には、弁当、あるいは重箱といった非日常的食器を持ち出したが、
今日でも、重箱や弁当がよく用いられるし、日常家庭で用いている食器ではなく、紙やプラスチックの皿、コップ、プラスチックのナイフ、フォーク、スプーン、割り箸など、使い捨ての食器が使われることが多い。また日常なら、家族一人一人の茶碗、箸、そして客用食器などが決められていても、花見ではそうした区分もない。
5.歌舞音曲
 江戸の人々も三味線などを抱えて花見に出かけ、歌、踊りを楽しんだ。現代でも三味線はもとより、ギター、太鼓、カラオケ、果てはバイオリンまで持ち込むグループもいて、にぎやかな歌合戦が繰り広げられたり、詩吟をうなり、輪になって民謡からフラダンスまで、踊り狂う人々の姿が見られる。
6.ゴミ 
 花見につきものといえば宴の後のゴミの山である。臨時のゴミ捨て場が設置されたりするが、食べ残し、飲み残し、容器、敷物など、多くのゴミが置き去りにされ、風に舞う。大勢の作業員を動員して、翌日までにきれいな状態にするための作業が必要となる。
 日頃は家の中ではもちろん、外でも、無闇にゴミを投げ捨てるようなことはしない人でも、花見となると浮かれ、ゴミを散らし、そのままにして帰ってしまうというわけである。

第6章 宴の空間
1.屋外、地面の宴
 日常生活の多くの時間は屋内で過ごされるし、とりわけ飲食は通常屋内である。また屋内ならどこでもよいわけではなく、ダイニング、居間、食堂などと決められている。さらに床に直接飲食物を置くことはなく、テーブル、食卓が用いられる。屋内の食事のための空間で、食事のための道具の上で食べるべきとされているのである。ところが花見は屋外での飲食が行われ、人々も屋外の地面の茣蓙、新聞紙などの敷物の上に座り、飲食物も敷物を敷いただけの地面の上に置かれる。雨の中ビニールシートを張って濡れながら、などという人々もいる。
2.仮構性
 江戸の花見では、幕を張り、薄縁、茣蓙を敷いて宴の場所が確保された。家紋を染めた幕も用いられたという。現在では紐を巡らし、ビニールや新聞紙を敷き、名前と日時を書いた紙を貼ったりして、グループ毎の宴席が確保される。人々の座も地面に敷いた敷物で、食器、飲食物を置くのもテーブルではなく、敷物や段ボール箱の上などである。これらは宴の終了とともに片づけられ、捨てられて、元の地面に戻る。
 また江戸では、花見に繰り出す人々を当て込んだ見世物、茶屋が出て、田楽、ゆで卵、茶などを売ったが、葦簀張りの簡単な店が多かった。これは現在でも同様で、露店、屋台、そして車、バイク、自転車の荷台で、焼き鳥、おでんなどが売られており、一般の商店も、店頭に冷蔵庫を運び出したりして臨時に設けた売り場で販売する場合が多い。これらは、人の波が消えるとともに片づけられ、元の公園、通りなどに戻ってしまう。
3.空間共有
 花見では、見ず知らずの、男女、年齢、職業、身分、僧俗等異なった社会的地位の人々が、同じ公園の同じ桜の木の下、といった空間を共有する。しかも「すれすれなものは花見の幕隣」といわれるように、花見のグループを隔てるものは、場所取りに張った紐や、敷物、幕くらいである。偶然隣り合わせて、時には酒、料理を交換したりといったことも起こるのが花見の場である。とりわけ封建制度が厳格だった江戸時代には、人々の日常生活は身分によって空間的にも明確に区分されていたから、貴賤群集し、良賤相混り、老少相雑する花見の場における空間共有は、きわめて非日常的なできごとであった。

第7章 宴の場
1.無礼講と自由な振る舞い
 かつての日本ではハレの日は無論のこと、日常でも家庭の食卓の座は明確に決められていたし、今日でも決められている場合は多い。また職場の宴なら今日でも当然明確である。ところが屋外の花見の宴では、座自体仮構的で、はっきりと上座、下座を決めることができないし、はなから座順など気にせず座る場合も多い。
 また無礼講と言われるように、上下の別もなく、日頃語れないことを公然と話したり、取れない態度を公然と取ることも許されたりする。江戸時代の川柳にも、広々した野原を思いきり走る、大声を出す、謹厳な僧侶でさえふざける、市中では禁止の歩きタバコも自由など、日頃の抑制を離れた行動が許さていたことがうたわれている。
2.酩酊と喧嘩
 美しい桜花の下、屋外でのうきうきするような開放的気分では、とりわけ酒も進む。勧め勧められ、酩酊する人も多い。花見に喧嘩はつきものといわれるように、酩酊の果てにグループ内で、あるいはグループ間の喧嘩騒ぎが起こる。日頃の理性を忘れて暴力沙汰に及ぶのである。
3.時間を忘れる
 夜桜見物、夜の遊宴も盛んである。中には徹夜の酒宴などというグループも見られる。隅田川でも、照明に照らされた桜を、堤の上から、屋形船から見物する。子どもたちは、通常なら外には出ない、あるいは寝ている時間を屋外で過ごすことになる。
 また日常の食事なら、時間も自ずと決まっているが、花見の場合は、朝食、昼食、夕食といった日常の食事時間とはかかわりなく、酒を飲み、歌い、踊り、おしゃべりしながら時間など気にせずに気ままに飲食が行われる。
4.変身する
 身分により衣服が決められていた江戸時代には、庶民が花見小袖など豪華な衣装を着る
こと自体分限をこえ、身分を逸脱する行為であった。しかし花見では、人々は経済力が許す限りの豪奢な衣装で精一杯のおしゃれをして練り歩いた。さらに芭蕉に「花に酔い羽織着て刀さす女」という句があるように、異性装に加えて、当時は武士の特権であり、身分制度の象徴であった刀をさすという行為によって、身分の逸脱までも行われた。
 幕末から明治にかけては仮装が流行し、目の部分に穴をあけて顔の上半分を覆う細長い紙の面(目かずら)やボテかずらをかぶり、花かんざしや、花見手ぬぐいをかけて楽しんだ。
 今日でも職場の正装を忘れ、ネクタイを緩め、中には揃いの着物で踊りに興じるグループもいる。女装した男たちが堂々と歩き、写真に収まり、人々の注目を集める。花見の宴では、自分を離れ、他者へ変身し、匿名性を獲得し、歌う人、踊る人として別の顔を獲得するのである。
5.性的自由と男女の出会いの場
 今日でも、花見が男女の一つの出会いの場になることは多いが、男女が隔離された封建時代において、花見は日常生活では近づくことの困難な、身分の異なる男女が出会う場であった。井原西鶴の小説『好色五人女』の中の『姿姫路清十郎物語』、近松門左衛門の戯曲『五十年忌歌念仏』で知られる、主家の娘と奉公人の密通、駆け落ち話である、お夏、清十郎の場合も、二人が契りを交わしたのは花見の場であった。
 また女たちにとっては、日頃抑制された性的に自由な雰囲気を楽しむ場でもあった。娘たちは華美な衣装と誇張した身ぶりで注目を浴び、人妻にとっても花見は着飾った姿を公然と人目にさらすことのできる機会だった。御殿女中にとっては数少ない外出の機会で、男に出会う場でもあった。花見は日常の抑制を抜け出て、情動に身を任せることのできる数少ない機会だったのである。

第8章 再活性化の仕掛けとしての花見

1.文化による統制と生命力の枯渇
 人は自然に対抗し、生存を維持していくために文化を作りだした。風雨、寒暖、日照に直接さらされることのない屋内空間として住居が作られたし、都市空間もまた、人々にとって脅威となる自然の動物、植物などを排除し、人々が安全に生きていかれるように、山野とは異なった空間として作られた。それゆえ都市空間では野生の動物、植物は排除され、今日では寒暖までもが半ば排除されるまでになっている。その結果都市における生活では、動物、植物を初め、自然に接触する可能性がきわめて低くなっているのである。
 文化はまた、単に風雨、寒暖、動物、植物といった自然への統制だけではなく、人々自身に対してもさまざまな統制を設け、強要する。動物としてもっとも基本的な食に関しても、いつ、どこで、どんなものを、どのくらい食べるべきか、どのようなマナーで食べ、ごみをどう処理すべきかまで決定されている。空間に関しても、どこで何をしてよいか、いけないかが決定されている。飲食、飲酒すべき場所としては飲食店が設けられ、人々の通行する路上、公園などで酒を飲んだり、食べたり、まして踊ったり騒いだりすることは、不可とされる。住居の中でもダイニング、キッチン、居間といった用途を指定した空間が設定され、食事は屋内のダイニングでするべき、などといった生活が求められる。また、高さという点に関しても、地面は汚いとされ、直接座ったり、食べ物を置いたりするべきでなく、土台、柱によって地面から高められた床の上で、敷物、座布団、さらには椅子の上に座り、食物はテーブルの上に置かれるべきとされる。
 さらに文化は、人々に怠惰を排して生産活動に従事し、無駄遣いを排除させようとするし、人々自身を、動物とは異なった存在とするために、道徳、マナーに則って理性的に生活して行くことを求める。とりわけ動物的本能にもとづく性的行動、闘争、暴力などはきびしく統制される。
 また人々自身も分類され、社会的地位とそれに応じた行動が求められる。すなわち人はまず男か、女かが明確にされる。そして家族の中では父、母、長男、隠居などであり、社会的にも武士、名主、僧侶、農民、課長、ヒラといった身分に分類され、それぞれの性別、地位に応じた服装、言葉遣い、態度、礼儀作法などが決定されており、それに従って生活して行かなければならないというわけである。封建社会であった江戸時代は、こうした統制は今日とは比べ物にならないくらい強固なものだった。
 こうした、自然を排除した都市空間での文化に統制された生活は、本能によってその行動の多くが決定される動物の一種である人にとって、本来の行動がねじ曲げられたものであり、多くのストレスにさらされるものである。そのまま野放しにすれば危険をもたらす闘争本能も、他面では人の活力の源泉であり、それを抑圧することが人の活力を奪うことにつながるように、文化によって統制された生活は、徐々に本来の動物としての人の生命力を枯渇させてしまう危険を伴うものなのである。
2.文化の空間からの離脱
 現代の我々も、会社、工場、学校、店、家といった、それぞれの場所での行動が統制された空間で生活している。江戸の都市空間はさらに、身分別にゾーニングされ、庶民は武家屋敷に囲まれ、路地で分割され、木戸が閉ざされる閉鎖的居住空間に囲い込まれていた(小野、1992)。それゆえ、花見に際して日常生活空間から出ることは、こうした統制された空間から離れること、寺社、水辺、山に出かけることは、身分によるゾーニングの枠外である空間に出かけることであり、こうした文化によって統制された空間からの一時的離脱を意味する。
 また都市に暮らす人々が、花見に出かけるのは、農村、田園地帯との境界にあたる地域である。今日でも多少の差異があるが、江戸時代、都市と農村とでは職業、身分の違いに関連して、社会諸制度の差異はきわめて大きく、農村はいわば異文化の地である。時には泊まりがけで遠隔地に出かけることもある花見は、人々にとって自文化の統制する空間から一時離れ、異文化の空間に接近することでもある。
3.文化による統制からの離脱
 花見では日常生活の様々な統制も緩和される。生産活動から解放され、屋外の幕で囲っただけの敷物の上という非日常的場所で、非日常的時間に、非日常的飲食物を、非日常的食器で、非日常的な量まで飲食し、酒に酔って夜遅くまで怠惰に過ごす。そして大量のゴミを残す。まさに生産活動とは対極の、ハレの大消費であり、いわばまったくの無駄遣いである。
 性や闘争に対する統制も弱められるから、おおっぴらに異性を求める行動や喧嘩などが大目に見られ、また男女それぞれの服装、行動、言葉遣いなどの統制からも一時離脱できる。とりわけ社会的地位と役割に関する統制は大いに緩和される。江戸の人々は、士農工商はもちろん、町人と、町人としての身分が認められない地借人、店借人といった区別もあり、服装、食事、言葉遣いまで統制されていた。今日身分制度は存在しないものの、それぞれが一定の社会的地位に属し、それにふさわしい行動が期待されていることは変わりない。そうした中で、花見の宴の場は、仮装した人々、ネクタイをはずし、異なる社会的地位の人々が空間を共有し、分け隔てなく出会い、交わることを可能とする。
 花見はいわば、文化の統制によるストレスの爆発を防止し、統制、秩序を維持するためのガス抜きの仕掛けとして利用されるわけで、為政者が花見の名所作りに熱心だったのも、そうした理由からといえよう。
4.自然の生命力にふれる
 野遊び、春山入りは、鳥も獣も植物も、厳しい冬を越し、春の訪れによって生気を取り戻し、生命力が漲ってくる季節に、野山という自然の支配する空間に入り、動植物の生命力にふれ、植物の生殖器である花という自然を楽しむ行事であった。
 さらに記紀万葉の時代には、歌垣という行事もあった。これは、植物も繁殖に人と同じ行為を行い、生産は生殖に等しいという観念から、市、磯、そして山などに男女が集まって、豊穣を祈り性の交わりを行うというものである。『万葉集』の長歌にみられるような、男女が手を携えて山に登り遊楽するというのも、豊作を祈り念じて行われた性の宴である。このような野遊び、歌垣といった行事から変質してできたのが花見であり、花見とは、都市生活によって自然から遠ざけられた人々が、自然へ接近し、植物の生殖、再生の象徴である花や植物の生長に触れることによって、動物としての生命力を取り戻す仕掛けというわけである。
5.死、他界への接近と復活
 梶井基次郎は桜の木の下には死体が埋まっているという(梶井、1999)。荒俣宏も、桜は人骨を吸って勢いよく育つ、だから桜は、戦場や大被害のあった場所を好むという(荒俣、1987)。確かに東京の桜の名所は死に関係深い所が多い。
 まず寺院、墓地、霊園は、いうまでもなく死者が埋葬される空間である。靖国神社は戦没者を祀り、近くの千鳥ケ淵には戦没者墓苑がある。上野山は将軍家墓所であるし、1868(慶応4,明治元)年の戊辰戦争では、官軍への徹底抗戦を叫んでたてこもった彰義隊が薩摩藩を中心とする官軍と衝突、多数の戦死者を出した戦場で、西郷隆盛像の裏には、墓石も残されている。1923(大正12)年の関東大震災でも、犠牲者の死体が埋められた。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲では、火葬場も消失したため、青山墓地、隅田公園、錦糸公園(墨田区)など67箇所に合計77000体以上が仮埋葬されたが、上野公園には下谷、浅草方面の8400体が仮埋葬されている(早乙女、1995)。
 荒俣宏は花見は無意識の墓参だという。桜には怨霊を封じ込める魔力があり、怨みを込めて死んでいった人々は桜の根に抱かれて白骨化し、桜の魔力で怨念を浄められた白骨は寺の境内や墓地に改葬され、浄らかな石碑、石塔が死者のモニュメントとなり、墓参に来る生者とのコミュニケーションが可能になる。そして吸い上げられた死者の怨念が、白い花となって山を満たす。それゆえ花見に行くことは、無意識のうちに死者の墓に参っているのだというのである(荒俣、1987)。
 さらに、花は古来日本人にとって、生命の源であると同時に死でもあり、生死を超越した世界をはらむもので、死と再生のイメージの担い手であるとされる。また花は太陽の衰退と再生に結びついた季節の循環をも示顕する。すなわち、葬送儀礼に欠かせぬものとされることからもわかるように、この世とあの世の仲介者である花は、この世ならぬものとの接点とされるのであり、死と直面しているがゆえに、命あるものを再活性化する力を持つ、と考えられたというわけである。
 花見に行くことは、死者の世界、他界に接近することであり、死に直面した花に接近することである。すなわち、花見に行くことは、死と裏腹に生命の源でもある花の生命力に触れに行くことであり、人々の生者としてのエネルギーを、死という自然に接触することによって充電するための仕掛けなのである。

結論−花見から見た江戸・東京という都市

 人は自然の脅威に対する対抗手段として文化を作り上げた。その自然がもっとも徹底的に統制された空間が江戸・東京という大都市である。その中で人々は自然の脅威にさらされることなく生活することができる。ところがそうした自然から遠ざかり、文化によって統制された生活は、人々の活力、生命力を枯渇させる。結局人々は、自然との接触を必要とし、文化からの離脱をはかろうとする。それを可能にする仕掛けとして作られたのが花見というわけである。
 ところでその仕掛けである花見に出かける先は、真の山中ではない。都市と田園との境界的空間、生者の空間と死者の空間との境界的空間である。都市の外は田園であり、そこは人々が農耕を営み、山菜、薪、萱などを採集するために入っていく空間であり、地域によっては、馬、牛などの家畜とされる動物を放牧したりする。また時に兎、狸、狐、蛇、野鳥などの野生の動物、昆虫たちが生息する空間でもある。植物も、栽培される農作物、栽培されているわけではないが人々に利用される植物、野生の植物の双方が共存する。そしてさらに遠い山は、人々は立ち入らず、野生の動物、それも狼、熊といったなじみの薄い危険な動物、植物の空間である。すなわち花見は、決して大自然に帰ることではなく、境界的空間で、自然への適度な接近、接触を可能にするものにすぎない。まして東京の桜の名所は、本来山中にある桜を都市空間に移し、御殿山、上野山といった都市の中の擬似的山に人工的に作られたものである。本来危険な自然の支配する山に接近し、自然の動物、植物に触れるはずの花見の場を、都市の中にうつしてしまっているのである。
 さらにそうした花見にも、すでに名所とされている場所があり、料理も酒もしかるべきものがあり、食べ方、飲み方、振る舞い方があるように、人々自身に対する統制からの逃走も、完全に本能のおもむくままに、ということは許されず、あくまで花見という文化の仕掛けの枠組みの中で行われるべきとされている。すなわち花見は、都市から、つまり文化から離脱することをめざすものでありながら、結局は仕掛けとして都市の中に文化によって作られたものでしかない。
 結局人が作った江戸・東京という反自然の空間も、自然を完全に排除することはできない。人は一方で自然を恐れ、統制しながら、他方で自然を必要とする。しかしやはり自然を恐れる。花見という文化の仕掛けは、まさにこうした人という動物の姿を映したものであり、花見という仕掛けを作った江戸・東京という都市もまた、人という動物の姿を映したものであるといえよう。

文献
秋山忠彌、1999、『江戸諷詠散歩 文人たちの小さな旅』、文芸春秋
青木宏一郎、1998、『江戸の園芸−自然と行楽文化』、筑摩書房
荒俣宏、1987、『異都発掘』、集英社
近松門左衛門、1972、「おなつ清十郎五十年忌歌念仏」、日本古典文学全集43、小学館
童門冬二、1999、『江戸の都市計画』、文芸春秋
伊東孝、1993、「隅田川」、『水の東京』、陣内秀信編、岩波書店
梶井基次郎、1999、「櫻の木の下には」、『梶井基次郎全集』第1巻、筑摩書房
久保田淳、1996、『隅田川の文学』、岩波書店
中江克巳、2000、『江戸の遊び方 若旦那に学ぶ現代人の知恵』、光文社
小川和佑、1988、『桜誌 その文化と時代』、原書房
小野佐和子、1992、『江戸の花見』、築地書館
早乙女勝元、1995、『東京大空襲−昭和20年3月10日の記録−』、岩波書店
シッドモア、エライザ・ルアマー、1988、『日本・人力車旅情』恩地光夫訳、有隣堂
塩見鮮一郎、1988、『江戸東京を歩く』、三一書房
白幡洋三郎、2000、『花見と桜<日本的なるもの再考>』、PHP研究所
すみだ郷土文化資料館、1999、『すみだ郷土文化資料館常設展示図録』
田中聡、1999、『東京妖怪地図』、祥伝社
斗鬼正一、1996、「江戸・東京の都市空間と動植物−都市人類学的考察−」、『情報と社会』第6号、江戸川大学
吉村元男、1986、『都市は野生でよみがえる』、学芸出版社

(未校了)