「江戸・東京と水辺の遊興空間」
                    斗鬼正一

2003(平成15)年3月
『東京湾学会誌』2巻1号、東京湾学会

概要
 遊興空間がなぜ水辺に集まるのかを、江戸・東京の事例により検討。自然に対抗して作り上げた都市という文化によって、自らがんじがらめにされた人々が、異文化、他界、超自然、そして自然への擬似回帰による再活性化を可能にする仕掛けとして作り上げたのが遊興空間であり、水辺こそがそれにふさわしい場として選択されていることを示した。
p30〜p38(全46ページ)


            江戸・東京と水辺の遊興空間
                  斗鬼正一
はじめに
 都市には人々を日常の生活から解放し,エネルギーを発散させ,新たな刺激を与えて再活性化してくれる場所として,遊興空間が存在する.西欧の都市では,近代の都市発展に伴う大衆の出現とともに,匿名性を持った自由な雰囲気を享受できる遊興空間が成立したが,江戸では幕藩体制,封建社会にがんじがらめにされた民衆のエネルギーのはけ口として,早くも18世紀半ばには形成され始めた.それは近代の東京にも受け継がれ,時代の先端で都市の風俗を作り,西欧都市にはない独特の活力を作り出してきたのである.
 江戸の都市空間は自然,地形との密接な関係のもとで組み立てられているが,日常の制度,生活から解放され,虚構の世界に遊ぶ場である遊興空間が成立したのもまた,海辺,川辺,池畔といった,水に接する場所で,とりわけ水陸交通の結節点で人の集まりやすい橋のたもとや,水の辺に立地する寺社の境内,門前などに集中していたのである.
 明治以降鉄道の発達により,東京は水の都から陸の都へと変わり,遊興空間も下町から新宿,渋谷,池袋へと広がっていったが,それらもまた,水と関わりの深い街であった.
 本稿ではそうした江戸・東京を事例として,人はなぜ都市の水辺の空間を遊興空間として選択するのかを考察し,あわせてそうした都市というものを作り出した人というものを考えていきたいと思う.

第I章 海辺の遊興空間
1.芝浦,高輪
 芝浦(港区)は将軍家献上の漁場であり,芝魚といわれた白魚などで知られた漁師町には小規模な魚市場も立った.明治時代にも海水浴や鮮魚料理の料亭街,花街として栄えたが,鉄道が通り,大正時代にかけて埋め立て工事が進められて工業地区,港湾地区となったため,水辺は工場,倉庫など産業施設が並び,潮干狩りもできなくなり,花街は内陸化してしまった.
 一般人にはあまり縁のない倉庫街として忘れられた芝浦が,再び脚光を浴びたのはバブル期である.ニューヨークのソーホー地区同様に,安くて広いスペースの取れる倉庫の上階(ロフト)がギャラリー,アトリエ,イベント会場,演劇の稽古場などとして使用されるようになり,カフェバー,レストラン,ディスコなどが話題を呼び,ウオーターフロントブームの先駆けとなった. 
 また東海道品川宿手前の高輪(港区)は埋め立てが進んで,現在は海から隔たっているが,江戸時代には台地が海岸に迫り,寺院が多く,房総半島まで見渡す景勝地で,潮干狩りなどもできたから,茶屋,岡場所ができ,賑わった.月見の名所でもあり,旧暦7月26日には月の出を弥陀三尊の出現として拝む二十六夜待ちでも知られていた.
2.臨海副都心
 臨海副都心も元々黒船来航時に砲台として造成したお台場とその周囲の埋め立て地であるが,臨海部は工業化とともに埋め立てが進んだ.埋め立て地には港湾施設,工場,倉庫,貨物駅などが並び,人々にとっては縁遠い空間だったが,1980年代,産業構造が重化学工業中心から,情報通信,サービス業中心へと変化したため,不要施設,移転施設が生じ,跡地がウオーターフロント開発として注目されるようになった.親水思想も広まり,水辺を見直す機運が高まった.とりわけ注目されたのがお台場(港区)で,第三台場周辺が整備され,お台場海浜公園,デックス東京ビーチ,フジテレビなどが並び,人工砂浜から対岸の都心を望む風景が人気を集めている.また隣接の有明,青海地区(江東区)にもパレットタウン,ワンザ有明,大江戸温泉物語,東八潮(品川区)にも船の科学館などが作られ,全国から観光客が集まる.
3.深川 
 深川(江東区)は本所(墨田区)とともに計画的に開発された地域で,1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)後に,周辺の材木置き場(木場)を集中移転させて以来,深川花柳界が発展した.木材の集散地であり,永代寺,富岡八幡宮の門前町としても繁栄した.深川七場所(仲町,新地,櫓下,石場,佃町,土橋,裾継)で知られたが,埋め立ての伸展に伴い岡場所も多くでき,深川芸者はその方角により辰巳芸者とも呼ばれた.
 また洲崎遊廓は1888(明治21)年,根津(文京区)の遊廓を帝国大学開学に伴う環境改善のために,隅田川の河口近くの埋め立て地に移転して作られたもので,不夜城として吉原最大のライバルとなった.
4.品川宿
 品川宿(品川区)は中世の品川湊から発展した街で,1601(慶長6)年宿場となった.現在では埋め立てで海から遠くなってしまったが,かつては背後が海で,風光明美を誇っていた.東海道第一番目の宿場であるため,旅人の送迎で賑わったことに加え,遊廓は江戸の人々にとって格好の遊興の場となっていた.
 南品川,北品川は旅篭と食売女を置くことが認められていたが,北品川のさらに北側は江戸市街地に近いため,後に茶屋,水茶屋が並ぶようになり,遊女まがいの女性たちを求める遊客が江戸から通い,やがて歩行新宿として品川宿の一部に加えられた.1843(天保14)年には旅行者の宿泊する平旅篭19に対し,遊女を置く食売旅篭92,水茶屋64を擁する歓楽街になっている.
 明治になって,新橋,横浜間に鉄道が開通した際に線路からはずれ,品川駅も高輪にできたため,宿場としての繁栄は終わったが,貸し座敷として存続し,遊客,遊廓に依存する商店,飲食店などが栄えた.戦後貸し座敷が禁止された後は活気を失い,現在は近隣の人々を対象とした商店街となっている.
5.大森海岸
 埋め立て前の大森海岸(大田区)は風光明媚で,八幡海岸には明治時代料亭もあった.鉱泉が湧いた森ケ崎(大田区)には明治30年代以降旅館,料亭が立ち並び,戦後まで潮干狩りなど,行楽地として賑わった.また平和島(大田区)は海水浴場だったが,1954(昭和29)年には埋め立て地に競艇場ができ,1957(昭和32)年には平和島温泉会館も開業,現在は「BIG FUN平和島」として,競艇,クアハウス,シネコン,ショッピングセンターなどが賑わっている.
6.穴守稲荷
 穴守稲荷は現在の羽田空港(大田区)内に鎮座していた.文化,文政(1804−30)の頃鈴木新田を開拓の際,風浪により堤防が破壊され,中腹に大穴があいたので,堤防の上に稲荷大神を勧請して祠を設けたのが起源で,以後風波がおさまり,五穀豊穣がかなったという.
 1885(明治18)年公衆参拝の公許を得て穴守稲荷となったのを機に,急速に商人,花柳界に信者が増え,各地に穴守詣の講中もできた.1894(明治27)年には塩水鉱泉が発見され,神社に続く参道の右側には料亭がひしめき,左側は芸者屋が軒を連ねるようになって栄えた.また潮干狩り,海水浴に好適な海岸に近く,競馬,鴨猟も行われ,格好の保養地,日帰りの行楽地として賑わった.多摩川対岸の大師河原(川崎市)と結ぶ渡し船もあり,川崎大師と周遊もできた.さらに1902(明治35)年には参詣者輸送のために京浜電車(現京急羽田空港線)が稲荷橋まで開通,大町桂月,田山花袋なども訪れた.1913(大正2)年には海老取川を越えて神社の前まで開通し,門前には無数の鳥居,茶店が並ぶ一大歓楽街として繁盛した.第一次世界大戦の好景気が拍車をかけ,成金が人力車から金を撒きながら乗り付けたという.
 第二次世界大戦後の1945(昭和20)年9月,飛行場の接収,拡張のために穴守町,鈴木町の住民1200世帯はアメリカ軍に48時間以内の強制立ち退きを命令され,繁栄を誇った街は消滅,神社も現在地(羽田5丁目)に遷座した.その後1952(昭和27)年,飛行場は返還されて羽田空港となり,1999(平成11)年まで旧社地のコンクリート赤鳥居が空港駐車場に取り残されていた.

第II章 川辺の遊興空間
1.両国橋広小路,柳橋
 水の大動脈隅田川と,下総,武蔵を結ぶ陸路の結節点である両国橋は,江戸最大の歓楽街として賑わった.1703(元禄16)年の大火後に,橋の西詰に火除地として両国広小路(中央区)が作られ,橋詰の広場には,水際に茶屋が並び,その内側には見世物,浄瑠璃,芝居,講釈などの小屋が迷路のように並んでいた.また河岸沿いには料亭,船宿も多かった.
 東詰(墨田区)にある回向院(浄土宗諸宗山無縁寺)は,明暦の大火の焼死者を葬った塚の上に寺を建立したのに始まり,以後江戸の水死者,焼死者,牢病死者などすべての無縁仏を葬った.各地の有名寺院の出開帳でも知られ,多くの参詣者で賑わった.境内では毎年勧進相撲が行われ,大相撲発祥の地でもある.またここは闇の地の入り口と認識され,金猫,銀猫と呼ばれる私娼の宿,好色物,因果物,イカサマ物などの珍妙な見せ物,大がかりな興業が行われ,いかがわしい歓楽街となっていた.
 明治政府は外国人の目を意識して,1872(明治5)年発令の違式註違条例などで,江戸以来の盛り場の賑わいを作ってきた見世物小屋,大道芸,床店などを規制,無税だった芝居,寄席,見世物などに興業税がかけられ,鑑札制度もできた.このため打撃を受け,橋詰の賑わいは失われていった.
 柳橋(中央区,台東区)は神田川が隅田川に合流するあたりで,川開きも楽しめ,新内流しが船で待合に来たり,屋形船で川遊びを楽しむこともできる立地であった.江戸中期に大流行した阿夫利神社(神奈川県秦野市)へ参詣する大山詣に行く人々の水垢離の場でもあった.
 明治に入ると新橋とともに代表的芸者町となったが,新橋が高級官僚,実業家が出入りしたのに対して,下町の旦那衆がひいきという町だった.
2.元吉原
 徳川家康が江戸の町づくりを始めると,京阪,駿府などから遊女屋が集まった.最初の吉原は,1617(元和3)年,各地に散在していた遊女屋をまとめて現在の中央区日本橋人形町2丁目付近に作られた.茅,葦の生えた低湿地だったため葦原と呼ばれたが,縁起をかついで吉原に変えられた.周囲は堀で囲まれ,橋を渡って入ったし,隅田川,東掘留にも近く,当初は周縁部だったが,市街地拡大とともに中心部になってしまい,明暦の大火後に浅草山谷(台東区)に移転させられた.また江戸市内各所には岡場所と呼ばれる非官許の遊廓が散在し,手軽で安く,近くて安直なため,宝暦年間(1751-64)には全盛となり,吉原の営業を脅かした.
3.江戸橋広小路
 江戸橋(中央区)は水陸交通の重要な結節点で,明暦の大火後南詰に火除地として広小路が作られた.1693(元禄6)年には木更津(千葉県)と結ぶ船着き場である木更津河岸が作られるなど,大きな河岸,物揚場があり,広小路のまわりは市と結びついた商業地で,小間物商の他,床店,髪結床,水茶屋,揚弓場などが並び,路地の奥には揚弓場,講釈場などもあり,盛り場となっていた.
 江戸時代には江戸橋をはじめ,現中央区の一石橋,八丁堀,新川,木挽町,汐留橋,霊岸島,柳橋など隅田川沿岸,町人地の運河の河岸には船宿が多かった.船宿は,貸し船を仕立てる業者で,水主(船頭)を抱えており,遊興,釣りなど,客の注文に応じて,形が猪に似て猪牙船と呼ばれる足の速い船を出した.吉原,芝居町が浅草へ移転し,深川の岡場所も発展し,芝居見物など,遊客も船宿から船で行くようになったのである.さらに船宿は二階に座敷もあり,酒食を供し,宴席,男女密会にも用いられた.
4.中橋広小路,堺町,葺屋町,木挽町
 芝居町は吉原とともに文化,風俗の発信地であり,人々は劇的宇宙,人気役者の実生活にあこがれたが,非日常性の支配する悪所とされ,幕府は厳しく取り締まった.興業は免許制で,内容も制限され,中止,禁令が繰り返され,役者は河原者として賎視された. 
 初期には多くの劇場が興亡を繰り返し,承応,明暦(1652−58)の頃には中村,市村,森田,山村の四座だけが興行権を与えられ大芝居と称するようになったが,劇場はいずれも水辺に設けられた.
 中村座は1624(寛永元)年猿若座の名で中橋南地(中央区京橋3丁目)に開場.代々の勘三郎が座元を務めた.火事を機に江戸城から近いという理由で禰宜町(中央区日本橋堀留2丁目)に移転させられ,さらに1651(慶安4)年には下堺町(中央区日本橋人形町3丁目)に移った.町名は堺町となり,上堺町は葺屋町と改名,大芝居町「二丁町」が浅草移転まで200年近く続いた.
 市村座は1634(寛永11)年村山又三郎が上堺町に創設した村山座が前身で,代々市村羽左衛門が経営した.
 木挽町5丁目(中央区銀座5丁目)の三十間堀に面した地には,1642(寛永19)年,山村小兵衛が山村座を開場,1660(万治3)年には森田座も開場し代々森田勘弥が興行を続けた.
 1661(寛文元)年には芝居興業場所は,堺町,葺屋町,木挽町5,6丁目に限定され,1714(正徳4)年には,山村座が俳優生島新五郎と奥女中絵島の事件により廃絶を命ぜられ,以後,中村座,市村座,森田座が官許の劇場「江戸三座」となった.
5.銀座
江戸時代にも銀座(中央区)は東海道(現中央通り)に商店が軒を連ねたが,経済の中心は日本橋であり,発展したのは明治以後である.外国人を意識した政府の銀座煉瓦街計画によって日本の顔として欧米風のハイカラな繁華街となった.伝統的な寺社と結びついてできたわけでもないし,江戸と異なり,商業と歓楽が一つに結びついた繁華街であるが,やはり日本橋同様に元は海で,1603(慶長8)年,神田山(千代田区)の土を運んで埋め立てた.それゆえ,東京オリンピックを前にした首都高速道路への転用まで,周囲を川,堀に囲まれた街だったのである.
 1923(大正12)年の関東大震災では浅草同様に壊滅したが,八丁に拡大し,今日に至るまで,日本一のプレスティージを誇るハイソな街であり続けている.
6.新橋
 銀座,京橋辺には船宿が多く,それらがもとになって,新橋(中央区銀座7,8丁目)には料亭街ができた.明治になり,政府高官が談合に料亭,遊船宿を利用したため発展,新橋芸者(金春芸者)で知られ,柳橋とともに明治の代表的芸者町となった.最盛期は1887(明治20)年頃からで,最先端の盛り場銀座を楽しんだ後,飲んだり,食べたりは新橋だったのである.
7.内藤新宿
 甲州街道一つ目の宿場として,1698(元禄11)年,内藤新宿(新宿区)が開設された.1653(承応2)年には江戸市中に上水を送る玉川上水が,内藤家屋敷(現新宿御苑)と宿場の間を流れ,土手に桜が植えられて,名所となった.宿場は甲州街道随一の売春街となり,旅篭には飯盛女が多く,江戸の人々の遊興の地となった.明治には遊廓免許地となり,後の新宿遊廓,赤線,青線,新宿2丁目,歌舞伎町へとつながっていく.
8.浅草
 近世後期から大震災まで,江戸・東京最大の盛り場として栄えた浅草(台東区)も,隅田川の水辺の街である.
 浅草寺は聖観音宗総本山で,聖観音菩薩を本尊とする.628年,宮戸川(隅田川)で漁をしていた檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が,一寸八分(約5.5センチ)の黄金の聖観音像を引き揚げ,その観音に祈ると多くの魚がとれた.これを土師直中知(はじのあたいなかとも)が自宅を寺として安置したのが浅草寺の始まりとされる.
江戸時代には信仰を集めて行楽の地となり,元禄(1688−1704)頃から盛り場となった.境内,門前には床店,見世物小屋が立ち並び,名物の楊枝屋,小芝居,辻講釈,曲独楽,居合い抜き,手妻,軽業,奇術などの大道芸,奇形の人や珍獣,女相撲などの見世物,また揚弓場や水茶屋が多くの人を集めた.特に本堂西側と裏手は奥山と呼ばれ,辻講釈の志道軒,品玉の東芥子之助,独楽回の松井源水,居合の長井兵助ら多くの人気大道芸人が演じた.
 明治政府は1873(明治6)年,太政官布告を発して盛り場的賑わいの寺社境内を近代公園に指定,浅草寺境内は1871(明治4)年,政府に公収され,1873(明治6)年には太政官布告に基づいて浅草公園とされ,国家の管理下におかれた.1884(明治17)年には七区に分けられ,浅草寺本堂,浅草神社,二天門,五重塔,淡島堂などが一区,仲見世が二区,浅草寺本坊の伝法院が三区,大池とその東隣の瓢箪池のある林泉地が四区,奥山,花屋敷が五区,そして初め見せ物小屋,後に映画館街となったところが六区となった.七区は公園付属地で,後に公園地から除外されている.
 そうした中で浅草は江戸の盛り場の要素を受け継ぎつつ,これまでにない新しい盛り場を作り出すことに成功した.とりわけ1883(明治16)年,浅草寺西側の田んぼ(旧火除地)に「大池」,「公園の池」を掘り,掘り出した土で池畔の低湿地を埋め立てて造成された六区は,奥山の芝居,見せ物に代わって登場した近代の興業街である.花屋敷,浅草十二階(凌雲閣),パノラマ館,新しい見世物が並び,明治末には日本初の活動写真常設館である電気館も開館している.演劇でも,大正のオペラ,昭和初年のレビュー,軽喜劇,ついで軽演劇,女剣劇,ストリップが流行,時代を彩り,榎本健一(エノケン),古川緑波,益田喜頓,伴淳三郎らがここから世に出ている.大小の池は真ん中に中の島を置いてつながり,六区側から中の島に架けられた橋には藤棚があり,中の島には茶屋,お好み焼き屋,池畔にも屋台が並んでいた.大震災で崩壊するまで,浅草の名所だった浅草十二階の下には私娼窟,銘酒屋街などもあり,雷門から宝蔵門に至る仲見世には多くの店が並び,新仲見世とともに門前町をなし,伝統的盛り場の要素も合わせ持った日本一の繁華街であった.
 一帯は戦災で焼失したが,1958(昭和33)年には浅草寺本堂が再建され,1960(昭和35)年に雷門,1973(昭和48)年には五重塔が再建された.六区も戦後まもなく再開され,大衆娯楽の街として栄えてきたが,近年客足を奪われ,1976(昭和51)年に電気館閉鎖,1982(昭和57)年には国際劇場閉鎖,跡地へのホテル建設,つくばエクスプレスの新駅設置など再開発が進められている.
9.猿若町
天保の改革では統制強化のため,1842(天保13)年から43年にかけて,堺町,葺屋町,木挽町の芝居小屋が新吉原近くの浅草聖天町(台東区浅草6丁目)に移転させられ,江戸俳優の祖といわれる猿若勘三郎の名を取って猿若町と改称,江戸三座が芝居街を形成し,繁栄した.立地は浅草寺の裏の隅田川,山谷堀そばであり,猪牙船で来る客も多かった.
10.吉原
 1657(明暦3)年,隅田川の土手である日本堤のそばに日本橋の元吉原が移転となり,公許の遊廓新吉原(台東区)として大いに栄えた.遊客は猪牙船で隅田川,山谷堀を遡り,周囲をお歯黒どぶに囲まれ,「北国」,「北州」と呼ばれた異国吉原に橋を渡って入った.
 移転に際しては,市中各所の湯女を吉原に強制的に移動させ,天保の改革(1841−43)では四宿(品川,新宿,板橋,千住)以外の岡場所が取り払われたりしたが,ライバルはその後も存続,明治以降は吉原も公娼の枠をはずされ,四宿とともに五廓となり,1876(明治9)年には根津が加わり六廓となった.その後堀は埋められ,1957(昭和32)年には売春防止法が施行されたが,現在も一大ソープランド街として存続している.
11.亀戸,玉の井
 亀戸(江東区),玉の井(墨田区)は二大私娼窟として知られていた.亀戸は亀戸天神裏の横十間川と,北十間川に囲まれた一帯で,全盛期は大正初期だが,大震災後も活況を呈していた.隅田川に近い玉の井は,浅草十二階が大震災で倒壊し,裏の銘酒屋が移転させられたもので,移転後に全盛期を迎えた.
12.錦糸町 
 隅田川左岸の低湿地.錦糸堀(墨田区)が地名となったもので,堀の中から,釣った魚を「置いてけ」という声がしたという本所七不思議の一つ「おいてけぼり」伝説がある.総武鉄道の起点であり,車両工場跡地を再開発して楽天地が設けられたが,現在も江東地域の中心的繁華街である.
13.渋谷
 語源の一つは鎌倉時代相模の渋谷氏の領地だったからというものだが,今一つは,かつて入り江の海浜で塩谷の里といわれたからというものである.その後の海退で,東の青山台地と西の南平台などの台地の間に渋谷川が流れる谷となった.渋谷氏の城があり,宮益坂は大山街道の立場で茶屋があったという要地である.
 現在渋谷川は暗渠となり,ほとんど見えなくなってしまったが,大震災以後の郊外への市街地拡大により,東急沿線のターミナルとなり,山手の繁華街として繁栄,現在は若者に人気の街として,賑わっている.
14.王子
 王子(北区)は眺望もよく,春は飛鳥山の桜,夏は滝野川の滝浴み,秋は紅葉で知られた.8代将軍徳川吉宗が観光地化を進め,滝野川を出身地ゆかりの音無川に改名したが,江戸市民に親しまれた.正受院の不動の滝,見晴の滝,大工の滝,弁天の滝,権現の滝(王子五滝)に,滝野川支流の下郷用水につながる名主の滝,王子稲荷の滝もあわせて王子七滝と呼ばれ,不動の滝には江戸市民が参詣をかねて訪れ,滝浴みをして本堂で食事を楽しんだ.飛鳥山北側には石神井川(音無川)が流れ,たびたび氾濫したためにトンネル化されているが,現在も桜の名所で知られる.

第III章 池畔の盛り場
1.赤坂田町
 1606(慶長11)年,麹町(千代田区)と赤坂(港区)の境に,江戸最大の溜池が作られ,神田上水完成前は水源池として使われていた.周囲は風光が良く,茶屋が並び,右岸には麦飯と呼ばれる女性たちのいる低級な岡場所があり,後の赤坂花街の起源となった.
2.荒木町
 美濃高須藩3万石松平摂津守の屋敷内庭園に策(むち)の井戸と呼ばれる名水があり,この泉から滝が流れ落ち,窪地が策の池となっていた.明治に入り荒木町(新宿区)となり,滝のまわりに茶屋,見せ物小屋,料理屋ができて賑わい,これがきっかけで花街になった.現在は窪地に小さな池が残り,津の守弁財天が祀られているだけだが,周囲の崖上一帯は料亭が残り,飲食店が立ち並ぶ.
3.歌舞伎町
 元は低湿地で,1904(明治37)年の淀橋浄水場建設で出た土を運んで造成した.戦災で焼失した後,府立第五高等女学校(現都立富士高校)跡地に歌舞伎劇場が計画され,町名も歌舞伎町(新宿区)とし,1950(昭和25)年には東京産業文化平和博覧会が開催されたが,結局劇場は実現せず,博覧会跡地には新宿コマ劇場をはじめ映画館,飲食店,風俗店などが並び,日本最大の大歓楽街となっている.
4.新宿十二社
 西新宿の十二社熊野神社には弁天池があり,神社と池がセットになり江戸庶民の遊興の場だった.明治になり,花街としても栄え,水辺に茶屋が立ち並んだ.門前には大正時代以降十二社花柳界が栄え,1950年代には天然温泉も掘られた.
5.池之端
 不忍池(台東区)は海跡湖の名残で,1625(寛永2)年,天海が江戸城鬼門の守りとして東叡山寛永寺を建立した際,琵琶湖になぞらえ,池中の島を竹生島に見立てて弁財天を祀ってから名所となった.池畔には,男女密会の便を計る貸席である水茶屋が多く,池の茶屋とも呼ばれた.葦簀張りなどで小屋掛けして,床几を置き,主に煎茶を供し,日中だけ営業するものであったが,しだいに大がかりに常設化し,女給仕が売春をするようにもなった.
 明治になると博覧会などが開催される祝祭空間となり,現在も歓楽街として飲食店などが密集し,ラブホテルも多い.
6.池袋
 池袋(豊島区)地名ゆかりの池の碑が駅西口近くにあるように,江戸時代は池が多く,蛍と月の名所で,窪地で袋のような地形だったことから,池袋と呼ばれるようになった.
 1903(明治36)年に日本鉄道(現山手線)池袋駅開設,1909(明治42)年には豊島師範学校ができて,発展し始めた.1914(大正3)年東上鉄道(現東武東上線),1915(大正4)年武蔵野鉄道(現西武池袋線)開通,1918(大正7)年立教大学が築地から移転してきた.戦前は大塚駅前(豊島区)の方が繁栄していたが,戦後郊外の住宅地化が進むとともに急速に発展,1954(昭和29)年丸の内線が都心へ通じて副都心となり,有数の歓楽街となっている.

第IV章 なぜ水辺の遊興空間なのか
1.交通空間,異国との境界としての水辺
 江戸市中の物流の根幹は隅田川とそれに連なる堀であったし,水上交通は人の移動にも,かなりの重要性を持っていた.遠距離交通手段としても重要で,江戸は平安時代から中世を通じて,品川湊などから太平洋海運を通して伊勢,熊野などへ通じていたし,江戸時代には,東北方面とも利根川,江戸川を介して通じる結節点の位置にあった(岡野, 1999).江戸の海,川,そして堀は,遠い異国へと通じる交通空間だったのである.
 また両国橋が架けられ,川向こうが江戸に組み込まれても,隅田川はかつて武蔵,下総の国境だった記憶を残す川であり,両国橋橋詰に出かけることは,文字通り異国へと接近することだったのである.
 封建制度にがんじがらめにされ,身分別にゾーニングされ,夜は木戸で閉ざされた長屋暮らしの江戸庶民にとって,江戸の町は私生活も常に監視され,統制された,ある意味で監獄にも相当するような場所だった(櫻井,2000).また,江戸と農村は相互にほとんど異文化の地であったし,藩が異なれば法制度から風俗まで異なり,文化的差異は今日とは比較にならないくらい大きい.つまり,異国,異文化の地へと通じる交通空間である水辺は,人々にとって,権力に縛られた生活からの逸脱と異文化への接近を夢見ることを可能にする空間だったのである.
2.他界との境界としての水辺
 水の向こうはしばしば他界としてイメージされる.たとえば田中聡によれば,江戸では大晦日の夜は死者の霊がやってきて家族とともに元旦を祝うし,川で死んだ人々の霊も水から上がってくるので,その邪魔にならぬよう船出は禁止されていたという(田中,1999).また前田愛は,四谷怪談を例に,江戸川から神田川,大川を経て深川へと屍臭を漂わせて死骸を流す水の流れは,市街地の中心部を通底し,雑司ヶ谷とその反対側にある深川とを同じ死の局面で結び合わせる.水の流れは江戸の都市空間のいたるところに遍在する死の風景なのだという(前田,1982).
 実際京都では鴨川の河原は処刑場,墓地だったが,江戸でも隅田川は身投げが絶えず,墜胎児,生まれてから殺した子,捨て子が投げ込まれる川だったし(櫻井.2000),浅間山噴火などの犠牲者も流れてきた.現代でもお台場海浜公園には大震災,第二次大戦の犠牲者の供養塔が建てられ,川施餓鬼の供養が行われているが,これも多くの犠牲者の死体が隅田川から流されてきたからであるという(読売新聞社社会部,1992).
 このように水は死,闇のイメージと結び付けられていたのであり,水辺に向かうことは,川の向こうの闇の国,死者の国,他界に近づくことだった.それゆえ両国橋は,関川,地獄の入り口とされ,川向こうのあの世である向島とこの世とを結ぶ橋として認識されたのである.そしてまた,手軽に他界イメージを喚起させる場所であった大山,成田山への参詣が生命力を盛んにすると考えられていたように,そうした他界への接近は,かえって現世の人々を活性化し,蘇生させる力を持っていたのである(栗本,1983).
3.超自然との境界としての水辺
 浅草観音の他にも,補蛇落山海晏寺(かいあんじ)(品川区)の本尊は品川沖に現れた鮫の体内から出現したとされ,品川寺(ほんせんじ)(品川区)の本尊水月観音も海中で発見されたもの,鹿島神社(港区)は漂着した鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の小祠と十一面観世音菩薩像を祀った,といったように,福をもたらす神仏が水,海から来訪するという漂着信仰の例は多い(高橋,1996).ウミガメが占いに用いられ,流木が神聖視されたりもする.逆に江戸の海に大群が出現した鯰は地震を起こすと信じられていたし,現代でも,海の向こうから来襲したゴジラは品川宿そばの八ツ山橋付近に上陸し,東京を破壊する.
 禍福いずれにしろ,水,海の彼方からやってくるものが境界的空間で霊力を発揮する(宮田,1996)とされているわけで,水辺に行くことは,その彼方からもたらされる超自然の力にふれ,力を得ることを可能にすると考えられたのである. 
4.自然との境界領域としての水辺
 海とそれにつながる水は,しばしば牙をむき,人の文化では統制できない恐ろしい自然である.しかし栗本慎一郎によれば,水が,再生や創造といったモチーフの象徴になるのは,低エントロピーの物質であるために生命力を持つからだという(栗本1983).また荒俣宏は,森,温泉,そして海といった自然には治癒力があるため,そうした自然の力が強いところに行くと人は癒されるのだという.実際聖地とされるところにはそういう場所が多く,傷ついた人が熊や鷹に導かれて行き,癒すことができた温泉の話などが伝わり,そうした場所が後に聖なる場所になっている例は多い(荒俣,1997).
 水辺は,文化によって作られ,統制された都市空間と自然の接する境界的空間であり,そうした境界的空間に出かけて自然に接近することによって,自然からの生命力を求めることができると,考えられたのである.

結び
 人は本来,自然の一部をなす動物である.しかし人は自然,超自然に対抗するために文化を作り上げ,それらから遠ざかり,直接脅威にさらされることなく,安定した生活を送ることを可能にした.しかし文化は同時に,人々自身へも向けられ,本能に則った動物としての本来の自由な行動が大きく統制される結果となる.こうして人は自ら作り上げた文化によるストレスにさらされ,そこに遊興という,人に固有の文化が作り出されることとなった.それゆえ遊興は,本来的に文化からの逸脱と,自然,超自然への接近,回帰を志向するものとなる.
 江戸・東京という都市空間の場合も,自然,超自然に対抗し,排除して作り上げたものであるから,脅威にさらされることなく生活することができるが,他方人々自身もそれらから引き離され,文化の枠組みの中に組み込まれたがんじがらめの生活が求められ,動物としての生命力の枯渇にさらされることとなる.そうした人々が求めるのが,遊興であり,それは必然的に文化の統制する現世や都市空間から逸脱して,異文化,他界,自然,超自然に接近することを眼目とするものとなる.それゆえ,こうした状況に対応して生命力を再び取り込み,再活性化する文化の仕掛として都市に作られた遊興空間は,文化に統制された都市空間の中で,唯一,簡便にそれを可能にする水辺の空間を選択する,ということになるのである.

文献
荒俣宏,小松和彦,1997,鬼から聞いた遷都の秘訣,242pp,工作舎
陣内秀信,法政大学東京のまち研究会,1989,水辺都市,240pp,朝日新聞社
陣内秀信,1993,水の東京,110pp, 岩波書店
栗本慎一郎,1983,都市は,発狂する:そして,ヒトはどこに行くのか,234pp,光文社
前田愛,1982,都市空間のなかの文学,507pp,筑摩書房
宮田登,1996,歴史と民俗のあいだ:海と都市の視点から,202pp,吉川弘文館
岡野友彦,1999,家康はなぜ江戸を選んだか,185pp,教育出版
櫻井進,2000,江戸のノイズ,226pp,日本放送出版協会
鈴木博之,1999,日本の近代:都市へ,426pp,中央公論新社
高橋在久,1996,東京湾学への窓:東京湾の原風景,242pp,蒼洋社
田中聡,1999,伝説探訪東京妖怪地図,380pp,祥伝社
読売新聞社社会部,1992,東京湾水辺の物語,269pp,読売新聞社