文化人類学から見た火と人間
  火事のカオス、竈のコスモス
」 
           斗鬼正一
         
『チルチンびと』(風土社)

          

火事は「穢」
 

 怖いもの、地震雷火事原発。火事と喧嘩は江戸の華、というくらいで、恋の病に臥せって死んだ娘の振袖が燃え上がり、江戸を焼き尽くした明暦の大火、会いたや吉三様、と恋に燃えた八百屋の娘が放ったお七火事などなど、江戸の街は大火が何と90回。鎌倉だって、いい国作る矢先の1191年、御所も鶴岡八幡宮も焼失。鳴くよ鶯の平安京となると、遷都8年全都焼失、幕末までに大火400回というのだから、日本の都市は、焼けては作り、焼けては作り、まさに火の車だ。 

だから火事は、当然怖い。でもなぜか、怖いだけじゃなく、ケガレでもある。火事自体が「焼亡穢」と呼ばれたし、火事を出した家は社会的制裁を受けるのみならず、ケガレた状態の「不浄屋敷」という烙印を押されもした。古くは967年の『延喜式』に「失火の穢の有る者」という記述があるほどだが、そういえば 現代人だって、焼け焦げた火事場のコインや貴金属など、何やら気味悪く、拾う気など起こらないというわけだ。    

“自然”の火は「怖」 

 人は自然が大好きなんて真っ赤なウソ。人は自然とかかわらずには生きていけないけれど、自然は荒々しく、災厄をもたらし、生きることを阻害する。おまけにどんなに科学が「進歩」しようとも、完全に理解、コントロールなどできっこない。人はこんな恐るべき自然が猛威を振るうカオス((混沌)の中では生きていけないから、自然に対抗する文化を作り出し、植物も、動物も排除して、必要なものだけを作物、家畜、ペットなどとしてコントロールし、利用してきた。そうして初めて、人は、生きることが阻害されない、理解が可能な、コントロールされた秩序ある世界、つまりコスモスとしての生活空問を確保できたのだ。 

火も同様、入の体は、火炎も高熱も、煙もCo (一酸化炭素)も、耐えることはできないから、命を脅かす火を本能的に怖れる。おまけに、野火、雷火、火山の噴火は、ようやく作り上げた街も村も、田も畑も、そして山野も生き物も、みんな焼き尽くす。自然のままに燃え盛る火は、人が生きることを阻害して、ようやく確保したコスモスも破壊して、まさにすべてを自然のままのカオスに戻してしまう。 

だから人は、コントロールされない火を怖れ、嫌い、そしてケガレとして排除しようとする、というわけだ。 

飼いならした火は「聖」 

他方で、人によってコントロールされた火は、崇拝され、神聖視され、さらには神格化もされた。 

炉には唾を吐いてはいけない、藁屑など汚いものを燃やしてはいけない、頭髪、爪を燃やすと気が狂う、囲炉裏の周りで性的所作などとんでもない、などとされたし、万一小便をしてしまったり、死者が出たりしたら、火がケガレてしまうからと、灰を替え、浄め、火を鑽り直したほどだ。これは、 人が火をコントロールして燃焼させる囲炉裏、竈には神が棲むと意識され、々の世界につながる、家の中でもっとも神聖な場所の一つとされたからだ。 

この竈神、韓国でも家中最上位の神だが、日本の三宝荒神も、家族の生死、幸福を司る守護神だ。八百万の神々こぞって出雲に参集の神無月にも家に留まり、家族を見守ってくださるというので、旅に出るなら安全を祈って灰を携え、子供や家畜の誕生を報告し、子供の初外出には額に竈の鍋墨をつけて魔除けにした。嫁入りで真っ先にこの神に祈ったのも、家の一員として認めてもらうためだし、豊穣を司る神ともされたから、小正月には一番立派なマユダマを飾り、田植えには稲苗を、稲刈りには初穂を供えたのだ。 

このように、人がコントロールした火は神聖で、他方、人のコントロールから逸脱した火はケガレとされてきた、というわけだ。 

コントロールした火で「コスモス」 

少なくとも4050万年前の北京原人は火を使っていたといわれるが、おそらくは、溶岩や野火を恐れず接近し、持ち帰った勇者がいたのだろう。それを保存し、やがては必要に応じて作れるようにもなった。中にはアンダマン諸島民のように、最近まで発火法を知らない民族もいたが、それでも自然の火を保存する技術には長けていて、おかげで人は、生きることを阻害する寒さを克服し、本来は住めない地域を生活空間にすることができた。照明に用いることで、「闇夜は怖い」(柳田國男『火の昔』)も克服し、生活時問も拡大。猛獣、害虫を排除し、原野は焼畑として耕地に変えられた。土器、陶磁器を焼くことで液体が保存、運搬できるようになり、金属製練・鍛造で、多様な道具を作ることも可能になった。 

とりわけ火を使う調理は、自然のままでは食べられないものを可食化し、加熱食料は食事時間を短縮し、消化のためのエネルギー消費を減らして、狩猟活動の時問を増やしたから、人の生存可能性を大いに高めた。おまけに、加熱した軟らかい食物を食べるようになったため、歯や顎、咀嚼筋が退化して、頭蓋や咽喉部の発声器官が発達したともいわれる。 

このように、人が文化によって自然を排除し、コントロールして、自らのコスモスを作り上げることができたのは、まさに火のおかげ。狩猟採集民がキャンプを作るのに、まずまん中に聖なる火を焚いて、周囲の野生の自然から、キャンプという文化の空間を区別することからもわかるように、火のコントロールは人が自らを野生の動物、自然から明確に切り離し、文化的存在となることを可能にした決定的に重要な要因なのだ。 

だからコントロールされた火は神聖視され、崇拝、儀礼の対象になるのも当然、というわけだ。

解き放った火で 「カオス」のパワー 

燃え盛る火のもとで行われる儀礼は世界各地にみられる。家内安仝などを祈る神倉神社(和歌山県新宮市)のお燈まつりは、山上のご神体の岩から、2千数百人もの男たちがご神火をうつした松明を持って駆け降りる勇壮な神事で、山全体が火の海と化し、流れ下る松明の火は龍にもたとえられる。 
   

中国のイ族では、男女が囲んだ焚火の周りで歌を歌って求愛するが、インド亜大陸で愛の祭りと呼ばれ、淫行、乱交といった日常的秩序からの逸脱が行われるホーリー祭でも、中心的特徴は野火のまわりで踊ることだ。 

 サンドイッチ諸島となると、王が死ぬと、売春、略奪、殺人、そして放火もほしいままという凄まじい逸脱が行われた。

こうした儀礼では、まずは人々自身が、文化によってコントロールされたコスモスの日常的秩序から逸脱する。さらに、火をもコントロールから解放して、裸火を燃え盛らせ、自然の野火に触れ、自然の火の持つパワーによって、人や社会の活力を再活性化しようとする。 

さらにまた、火は生命力の源とも考えられてきたから、アイヌ、アトニ (インドネシア)、コイ・コイン(ナミビア)は、分娩を燃える火の傍で行ったし、病人の傍には決して火を絶やさないという民族もいる。 

人や家畜が病気になると、火を焚いて中を通ったり跳び越えたり、灰を畑にまいたり水に混ぜて飲ませたり、といった例も多いし、魔女たちを火あぶりの刑に処したのだって、野生の火のパワーの象徴的利用、というわけだ。 

怖れながら、求める 人というパラドックス

森と、獣と、それから闇夜、みんなカオスで恐ろしい。だから人は自然という最強のカオスを排除し、コ ントロールして、理解可能で、コントロールされた安心、安全な世界、つまりコスモスを確保しようとしてきた。 

しかし人は、自身が本来自然の動物で、こうした文化によってコントロールされたコスモスの中で生きていくことは、動物としての活力を減衰させることにもなる。これは社会も同様で、コントロールするほどに、安心、安全の社会にはなるものの、他方で社会は倦み、活力を失い、衰退していく。 

さらに、いくらコスモスを確保しようとも、森も、獣も、それから闇夜も、カオスは常に侵入してくるし、病と死、そして災害と、次々カオスに見舞われるわが身の不幸となると、いくら科学が「進歩」したところで、完全なコントロールも説明もできっこない。 

それゆえに、人は、コスモスを脱して、非日常的ハレを演出する儀礼を必要とし、秩序逸脱、秩序逆転といった、カオスの意図的再現を行うし、カオスの猛威に対抗すべく、文化のパワーを超越したパワーを渇望する。そして、そんな時に登場するのが、人を自然から、他の動物から、切り離し、文化的存在へと導いた自然のままの火、というわけだ。 

火は、恐るべき破壊力、カオスのパワーを持つ自然そのものだ。だから人は、自身のコスモスからの解放を演出する儀礼の場で、火をも文化のコントロールから解き放ち、自然の火が持つ荒々しい相貌を取り戻させる。そうして入は、動物としての自らが、そして社会が、再び活力を取り戻し、再びカオスに立ち向かって生きていくことができると考えるのだ。 

怖いもの、地震雷火事原発。自然なんか大嫌い。それでもやっぱり自然のパワーに頼りたい。こんなパラドックスにこそ、火という恐るべきパワーを手にした人という動物の生きる姿が映し出されているのだろう。 

 とき•まさかず/ 文化人類学者。江戸川大学社会学部教授。『こっそり教える「世界の非常識」184』(講談社)、『目からウロコの文化人類学入門』 (ミネルヴァ書房)、『東アジアの文化人類学』(共著、八千代出版)、『社会人類学から見た日本』 (共著、河出書房)など著書多数。

         斗鬼正一ホームページトップへ