当たり前を「見る目」                  

                               斗鬼 正一

 学問こそは人生最大の道楽である。知の探険に加われば、次々と未知の世界が見えてくる。こんなに楽しいものはない。おまけに自分が知的にどんどん進歩するから、こんなお得なものもない。ところが、学問などというとカビ臭い、得体の知れないもの、くそ難しく、自分たちにはおよそ縁のないもの、といった受け止め方の学生諸君は多い。それゆえ触れてみようとも思わない。これは実に不幸なことだ。原因は要するに、入り口がわからず、とっつきにくいと思っているからだ。しかしそれは大きな勘違い。あのニュートンだって、きっかけはリンゴである。実はすごく身近なこと、当たり前のことを不思議に思い、なぜだろうと考えるところから学問は始まるのだ。とりわけ文化人類学などという、人々と生活を共にするフィ−ルドワ−クで収集した情報を材料に、人間の作りだした社会、文化を通して人間というものを考えていこうとする学問では、材料は身近なものでしかあり得ない。なぜ人は掃除などということをするのだろうか、それ以前にそもそもなぜゴミは汚いのだろうか、などという当たり前すぎて考えてもみないことを考えることこそ、学問への入り口なのだ。とっつきにくいどころではない、入り口はそこらじゅうに転がっているのだ。いったんスタートを切れば、思わぬ発見があり、謎が解け、次なる疑問が沸いてくる。そうなればしめたもの、後はつぎつぎと新しい世界が開けてくる。学問は本当に道楽だ、と実感できるだろう。

 ところが、こうした入り口があまりに身近すぎることが逆に障害になる。人は関心のないことは見えない。たとえ網膜には写っていても、脳が認識しない。さらに人は、身近すぎること、当たり前だとされていることも見えない。こうしたことが見える、意識的に「見る目」を持つようにすること、これが学問への第一歩だ。

 そして実は、こうした「見る目」を持つことは、単に学問の入り口であるだけではなく、あらゆる場面ですごく重要なのだ。成熟度がますます高まるこれからの日本では、当たり前のことをマニュアル通りにすることしかできない人は生き残れない。日常性の中に埋もれ、誰もが当たり前だと思い込んで見えなくなってしまった問題点を掘り起こし、誰も気づかなかったアイディアにひらめく独創性、こうした力を持つことこそ、産業の空洞化が進み、単純労働はどんどん淘汰されていく中で、日本の企業、その日本で生きる我々、そして日本自身が生き残る道なのだ。当たり前のことを当たり前で済まさない、なぜ、どうしてなのか、と考えられる力、創造力の基礎となるのが、こうした「見る目」なのだ。

 ではこうした、学問への入り口ともなり、社会にでても不可欠な「見る目」を江戸川大生にはどうやって持ってもらうことができるだろうか。実はこのきっかけの一つになり得るのがNZ研修である。

 書物で読んだこと、講義や教師との対話で聞くことはもちろん、日常生活で見ること聞くこと、経験すること、あらゆることから次々新しい発見をし、驚き、面白がり、さらに次の発見をしていく学生がいる。彼らはそうして出会った情報を考えるきっかけ、材料として利用し、自分のものの見方、考え方を作り上げていくから、大学4年間でどんどん成長する。彼らはいわば「見る目」を持った学生である。こうした学生はNZでも好奇心の固まりとなって、一人で町中を探険し、こんな発見があったと目を輝かせて報告してくれる。

 他方こうした「見る目」が不足している学生もいる。彼らはNZでも何をしていいのか、どこに行っていいのかわからないから、みんなの後を付いていくだけ、土産物屋巡りをするだけ、ということになってしまう。こうした学生は、学問への入り口を見つけることも難しいから、人生最大の道楽を知らないまま、社会へ出ても損をしたまま、ということになってしまいかねない。実はNZ研修は、こうした学生にこそ最も有効なのである。どんな日常的なことでも、「見る目」さえあれば、次々と新発見ができ、そこからさらに次の好奇心が沸き、次の発見へとつながる。そしてそれは実におもしろいし、自分が成長していくのが目に見えてわかるから本当に楽しい。そうしたことを身を以て体験させる絶好のチャンス、それがNZ研修なのである。なにしろ日本なら当たり前のことが当たり前でないし、一見同じと思えたことも実は意味が違ったりするから、あまり「見る目」がなくても、嫌でも色々なことに気が付いてしまう。さらに目の付けどころ、気付き方のヒントを与えれば、さらによく見えてくる。加えて、そうして見えてきたものがいったい何なのか、どうしてなのか、どういう意味があるのか、と考える手助けをしてやれば、次々と新発見が出来る。そうして知的感動を知った自分に気づいて喜んでくれれば、このトレーニングは大成功、後は「見る目」が自然と冴えてくる。そして次々出会った情報をきっかけに、自分のものの見方、考え方がどんどん成長していくはずだ。

 人類学者にとってフィ−ルドワ−クの成否は、いかに見えないものを見るか、当たり前のことを疑うかにかかっている。だから、「見る目」のトレーニングは朝飯前。こうしたフィ−ルドワ−クで蓄積した方法論が、学生諸君の知的トレーニングに役立ち、学問への関心を高め、さらに社会に出ても役に立つ、となれば教師としてこんなにうれしいことはない。学生にも、教師にも本当にお得なNZ研修を目指そう、そんな気持ちで今年も多くの諸君との触合いを楽しんできたのである。