江戸川区が生んだ浮世絵師 3代目歌川豊国について

応用社会学科3年 9811094 津川 鉄平




 私はフィールドワーク二日目に江戸川区文化財研究会の会長であった渡辺善一郎さんに会いました、彼は自分で収集した古美術品を展示して、人々に関心を持ってもらおうと活動していた人でした。そして江戸川区の歴史や有名人について話しを聞く事が出来ました。。その話しの中で出てきたのが3代目歌川豊国と言う人物で、渡辺さん自身も何枚か持っていたのですがこの人物は江戸川区出身でで唯一の浮世絵師でした。
彼は1823年(文政6年)船堀村中里清兵衛の次女あき子の子として生まれました。このあき子は文政5年に深川の材木師吉永新助のもとに嫁いだが上手く行かず実家に戻ってしまい翌年清太郎(後の3代目豊国)を生んだ。清太郎9歳のとき母は再婚、清太郎は連れ子となる、この当時から画才を認められている。
天保7年 14歳のときに五渡亭国貞のもとに入門しその才を磨いた。
寛永5年 国貞の長女鈴と結婚、養子となり亀戸の家を譲られる。
元治元年 国貞がこの世を去り師の豊国を襲名、「一陽斉豊国」を名乗るようになる。3代目豊国である。
明治4年 柳島の家が火災に遭い本所亀沢町に移住、その際リュウマチを患ってしまう。
明治13年7月20日 58歳でこの世を去る。法名「三香院豊国寿貞信士」亀戸の光明寺で師と共に眠る。というのが彼のたどった人生である。
 江戸川区が生んだ唯一の浮世絵師三世豊国の作品は比較的残っているものが少ない。徳川時代後期浮世絵会の一大流派として栄えた歌川派の正統を継いだ作家であったにもかかわらずその作品は少ない。その一つの理由は師である二世豊国が大変有名であり79歳の高齢で没するまで活躍しおびただしい数の作品を残しておりその影に隠れてしまった事。もう一つは円熟期の後期は幕末の騒乱の中に人心は殆ど絵画を離れ浮世絵師等の多くが困窮の場にあった時代にあったこと、三つ目には火災、転居ついで致命的な中風と言う病気に襲われ作家的活動は出来なくなってしまう事にあった。資料館の人の話しを聞くと「正直な話し作品の多い先代とごまかしたい」みたいな事を言っていました。三世豊国は歌川派の正統を継いだ非凡な力を持ちその実力は数少ない作品の中にも高く評価されており、不幸にも動乱の世の中でわずかに浮世絵の最後の光芒を放って終わった不遇な作家である。
私の正直な感想は、本当に目立たなかった浮世絵師だなぁと言う事でした。先代があまりにも偉大すぎ、それを超えられなかったのは本当にいろいろな不幸もあったからだったが、彼は『三代目豊国』を襲名して本当に幸せであったのだろうかと考えてしまう。幼いころから絵が大変上手く、2代目の門下生として入門し名前をもらえたにもかかわらず、浮世絵をあまり必要としない時代になってしまったばかりか、自らの体を病んでしまい活動が出来なくなってしまった。これでは物作りとして自分の生み出す作品が少なくなってしまうものは大変悲しい事だと感じる。もし彼の生まれ育つ時代がもう少し早ければ、歌川派の中でももう少し名をはせる事が出来たように思える。