矢切りの渡し  〜 その歴史 〜

 

 ここからは矢切りの渡しの歴史について頁を割いていこうと思う。

 

 渡し場の歴史は古く、記録に残る範囲では天正 18年(1590年)の

徳川家康の江戸城入城に溯る。 

 

 自然のままに流れ、反乱を繰り返し、洪水を起こしては植えたばかりの苗が流され

実った稲穂を泥水の底に沈め百姓達を大いに嘆かせた。

家康はこれらの河川の治水事業に取り掛かるとともに、新田開発にも力を入れた。

またこのころ、陸路に比べて安価で大量の物資を運搬することが出来る水運にも注目し、

人口の河川、水路が多く作られた。

これには、この河川を利用して江戸を守るための堀という意味があり、

そのためこれらの川には橋が架けられなかった。また技術的な面でも難しかったのではと思われる。

 

 慶長 5年(1600年)関ヶ原の合戦に勝利し、元和元年(1615年)大坂夏の陣の翌年には、北からの守りを固めるために、利根川水系を渡る重要な街道の15か所を定船場に定めて、これら以外のところでは川を渡ることを禁止し、

また定船場には番所を置いて通行人を調べるようになった。

このころから、渡し場が交通や農民の対岸の農地への移動手段といった趣から、

通行所であり関所であるという性質を持つようになる。

はじめは「御番所」と呼ばれていたが、のちに「御関所」と言われるようになる。

現在の矢切りの渡しの前身である、金町・松戸の渡しもこの時整備され、

利根川と江戸川が分かれる境町・関宿の渡し、小岩・市川の渡しなども同時期に整備された。

関所の周囲は木の柵で厳重に囲まれ、木戸の脇には関所かかげられそこには、

関所を往来するものは頭巾、笠などを取ること。

乗り物に乗るものは、戸を開いて行くこと。とあった。

 

 関所が通れるのは午前 6時から午後6時までだったが、近郷の百姓や勅使、藩主、幕府役人、御朱印携帯者などの特別な者は時間外でも通行を許されたという。

関所が出来る以前からも村人達は対岸へ渡っていたため、近郷の者のみはそういった船での渡河は認められていた。

ただそれ以外の者の渡河は堅く禁じられていて、近郷の者が渡るには通行手形などはいらなかったが、一般の者が渡ると関所破りとして厳しく罰せられた。

 小岩市川の関所では、関所破りで処刑されたという話しが伝えられている。

相の川(現在の国道 14号線、市川橋の川下7キロ程度の場所。現在の地名は相之川町。

明治時代になって今井の渡しで結ばれ、現在は新今井橋が開通している。)

において下総小弓城(千葉市生実町にあった)の家臣久三郎という者が女性を連れて、

婦人禁制の江戸川を渡ろうとして船頭 2人とともに4人は幕府の役人に捕まり、

張り付けの刑になったという。

また取り締まりの強化のためこういった不法渡河者を見つけ、捉えて差し出した者には褒美を取らせると触れを出したりもしていた。

 

渡し守への手当て (給料)

 

 慶安4年(1651年)の記述によると、番士の手当ては切米20俵 4人扶持とある。

切米とは幕府からもらう給料のことで、

江戸時代の1俵は52.5キロ(3斗 5升)で、現在の1俵60キロ(約4斗)よりやや小さい俵で、切米20俵といえば約1050キロ(7石)となり、

当時の時価で 10キロ5000円とすると、525000円になる。

四人扶持とは役職手当で、一人扶持とは一人一日玄米5合(約 750グラム)として、

4 人分2升、1ヵ月6斗(約90キロ)、1年で7石2斗(約100キロ)で54万円。

幕府からもらう給料と、役職手当、合計で106万 5000円が番士の給料だったという。

くわえてこのほかに役宅と約1町歩の田圃を金町新田に与えられていたので、

非番の日にはこの田畑を耕していたという。

 元禄時代になると世の中が贅沢になり、物価も上がって生活はますます苦しくなる。

元禄 7年(1694年)の暮れには、番士4人で米80俵(およそ20万円分)を前借りし、5年かけて返済したという話しも残っている。

このころは堤防の高さも2,3メートルほどしかなく、役宅も川近くにあったので出水ごとに流されたり破損したりしたので苦労の連続だった。

しかし関所役人としては、かなりの権力があり、近郷の農家の者は日ごろから渡し舟を利用するので、贔屓目に見てもらおうと賄賂として贈り物などもたびたび贈っていたという。

 

 

 

 

 

 

渡し賃

 

 渡し場で使われていた船は、金町村と松戸村で 2隻ずつ出していたが、

享保 3年(1718年)8月から松戸町だけで船を出すようになる。

1 隻に船頭が2人乗船し、常に対岸にある状態で運営され、

利用者はあまり待たなくても船に乗ることが出来た。

享保 15年(1730年)に定められた渡賃は13文、馬は5文。

馬は荷物をつけたまま乗ることは出来ず、これは馬が動いたり暴れたりした時危険だったからだろう。

この渡賃も文化 3年(1806年)には112文、弘化5年(1848年)には16文に値上がりした。

 はじめのころは渡し舟の新造経費などは、幕府の御用金が当てられていたが、

寛保 3年(1743年)からは松戸町で出すようになった。

このころから、幕府運営の官営事業だったのが、幕府と民間の半官半民事業へとなっていく。

天明時代(1780年以降)になると通行人が増え商売としても成り立つことから、

船頭をやりたいという希望者が多くなった。

希望者を振り分けるために松戸市が取り仕切り、渡し業の権利を入り札制にして管理した。

また生活の苦しい百姓達に、渡し業を請け負わせ、権利料を一時松戸町が肩代わりするということもあった。

 

>>矢切の渡し 〜現在〜 へ進む