江戸川フイールドワークレポート

応社 3年 9811121 一杉 聡司

  

 今回の調査では、津川君のアポイントによって知り合った収集家の渡辺善一郎さんの話しをもとに、地元の有名人や文化財についての研究をすることにしました。

 

 渡辺さんはかつて千代田区で文化調査員をしていた経歴をもっています。しかし、江戸川区に引っ越してきてからは江戸川区に文化調査員というポストが存在しないことから、自分でコレクションしている錦絵の展示会を開いたり、江戸川法人会の会報誌の表紙に錦絵を提供したりと個人活動に専念しています。渡辺さんのような趣味人にとって、江戸川区は橋を中心とした交通設備を優先した区であり、文化財は後回しだと言っていました。

 

 江戸川区には区役所に程近い場所に江戸川区郷土資料室があり、郷土資料室は昭和 40年に開設された。江戸川区のベッドタウン化が進む中で失われ行く農業・漁業を中心とした民族文化を保存しようとしている。しかし、決して規模の大きな資料室ではなく、現在の区民のアイデンティティーである親水公園などの最近の文化との関連が薄い孤立した感じがある。

 ゼミ全員で行った海苔問屋の白子さんの話しでは、近所の子供相手に昔ながらの海苔すきを実演しようとしたところ、農業や漁業の郷土資料になり得る道具の多くは木製で使い込まれた消耗しきったものでありほとんど残っていなく、企画が実現しなかったことを聞き、江戸川区のような農業・漁業文化の土地がベッドタウン化した場合の郷土文化の保存は難しいものだと感じた。

 

 渡辺さんは多くの区民と同じく、外の地域から江戸川区へ移住してきた区民の一人ですが、文化調査員をしていた関係でその土地の郷土文化に関心が高く、江戸川区の名物になり得るものを見つけながらも、それを活かしきれないと考えているようです。渡辺さんは地元の有名人として錦絵師の豊国と植物学者の牧野富太郎をあげましたが、江戸川区民の多くがその存在すら知らないと考えられ、実際に生まれながらの江戸川区民のゼミの先輩も知らなかった。

豊国も牧野富太郎も時代的に古く、郷土資料も少なく、江戸川区民よりも錦絵や植物に興味がある人の方が価値を感じるようだ。ちなみに豊国に関する情報は江戸川区立図書館に数点、牧野富太郎に関する文献が図書館に 5冊程度、牧野富太郎が発見したムジナモは現在絶滅しており、東京都立夢の島熱帯植物園に食虫植物の部屋があり、その部屋で栽培されているものを始めて見ました。

 

1862 年生まれ高知県出身。子供の頃から植物を好み採集観察をする。土佐国高岡郡佐川小学校の臨時教員をした後、東京に顕微鏡、参考資料購入のために上京。博物局、東京大学(当時、帝国大学)理学部植物学教室に出入りしながら各地を採集する。大学などで自由に研究をしていたものの、身分上のつながりはなく、生活費から研究、出版費を自費や郷里からの取り寄せでまかないながら、1888年に『日本植物志図編』第一巻第一集を出版。1889年南葛飾群小岩村伊与田の江戸川水系内の田んぼ用水路で、世界中で欧州の一部とインド、豪州の一部だけに産するイシモチソウ科の食虫植物を発見し、ムジナモと命名する。日本からムジナモが発見された記録は牧野の名を世界的に権威のあるものとした。現在、ムジナモは日本で自然界から姿を消して久しく、栽培養殖されている。

     参考資料 『牧野富太郎』 山本 藤枝 著  1980年 偕成社

 ・ムジナモ

 インド、ヨーロッパ、オーストラリアなどに分布、日本では明治 23年に

江戸川水系内の小岩村ではじめて発見されたまれな多年草。沼や水田などの水溜まりの中に浮かんで生活し、根はない。茎の長さ6〜25cm。葉は輪生、刑1.5〜2cm葉輪は袋状。小虫が入ると葉を閉じて消化する食虫植物。花は夏、一日でしぼむ。和名貉藻のムジナはタヌキのことで尾に見立てた名。

  参考資料 『原色牧野植物大図鑑 離弁花・単子葉植物編』

        牧野富太郎著 福田元次郎発行  1997年 北隆館

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 その他江戸川区の特殊な植物

1983年本区伊与田で牧野博士によって命名されたカヤツリグサ科植物。トネとは利根川を意味し(江戸川は昔利根川と呼ばれた)利根川に産するテンツキの仲間という意味である。 25年渡辺某氏が伊与田で採集、牧野博士によって新種とされた。ハコベ属の一種、ナデシコ科。全国的にみてごく限られた地域に自生していたが伊与田のハコベは現在絶滅している。 43年に東京都文化財調査委員によって発見された。

 

今回のフィールドワークで研究した江戸川区は、ここ 50年で農村・漁村の村から50万人規模のベッドタウンへ急速に変化した場所であり、その過程の速さ、環境の劇的変化によって、小岩・葛西村の時代とベッドタウン江戸川区の時代の文化が二極化をしている。このようなことは全国的にいえることかもしれないが、親水公園を通して江戸川区の都市作りを考えたなかでの、江戸川区が考える安全で清潔な水との親しみ方の価値観は、このような移住者を中心とした人口形態によってこそ、人工の河川に親しもうと思えるのではないかと考えられる。ニュージーランドが原住民よりも圧倒的多数の移住者によって異国の文化を持ち込まれたように、ベッドタウン化によって新たな文化の創出があったことが江戸川区に解かり易く表れている。上手に庭園のように作られた都市は田舎くさくなく、急激な都市の変化によってうまく整備できなかった環境を再構築できる。古くからの住民は昔を懐かしむが、新住民にとって環境の変化は開発としてプラスに考えられる。僕の住む船橋もビルが乱立してしまった駅周辺の再開発が進んでいるが、一掃される町並みを決して悪くは思わない。ただし、きれいに整備されても町はいつかは老朽化するし、きれいで住みやすい都市作りには人間が関わる限り矛盾がひそむ。日本は木造住宅の文化であり、石造りのように半永久的な考えを住居に求めない。再開発を進めて、常に目新しさを追求するのも文化である。京都が美しい古都であり、これを新しい文明から保護しようとしても、平安時代の人間には新しく建設された新都市であるように、都市環境に関する価値観が世代によってそれぞれ存在する。若者の町といわれることが、若者には魅力的であってもその他の世代にはマイナス要素であったりする。今回の江戸川区フィールドワークは新興住宅地に対する価値観の多用性を知る経験になった。